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ピーター・フランクル 日本名:富蘭平太
1953年

ハンガリーのカボシュパールでユダヤ人の医師夫妻の息子として生まれる。




ピーター幼少期
「父は僕にアーロンと名付けたがったのだが、この名前は、ユダヤ人しか使わないので、母が猛烈に反対した。それで差別されないよう、キリスト教圏であれば、どこにでもある「ピーター」と名付けられた。」
「子供のときは、いつも何かに熱中していた。ある時は図書館で借りてきた少年向けの物理学の本を読破したり、ある時は親の本棚の歴史の本を調べたり、ある時は友達から借りた数学パズルの本を一所懸命に解いたり、ある時は古本屋で購入したドイツ語の小説を読んだりしていた。」


1971年

国際数学オリンピックで金メダルを取得。




ピーター幼少期
「18歳まで進路をはっきりと決めていなかったが、自分に数学の才能があることもわかり、紙とペンさえあれば研究できる数学の自由さにも惹かれて、数学の道に進むことを選んだ。両親は僕に自分たちと同じ医者になることを望んでいたが、息子の数学の才能を認め、あきらめてくれた。」

同年ブタペストのオトボス大学数学科に入学。


1973年

アメリカ人数学者ロナルド・グラハムに出会い、その影響でジャグリングを始める。




「彼は全米数学会の会長を4年間努めたほど優秀な数学者だが、気さくで優しい人で、僕にジャグリングを教えてくれた。その時とても感銘を受けて『私もこんな面白い数学者になりたい』と思い、ジャグリングにものめりこんでいくようになった。」


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1975年

パリ第7大学に国費留学。




「1975年にパリに国費留学して初めて西側諸国を目にしたが、自由が一番印象的だった。特に、旅行の自由である。・・・・こうした自由にへの憧れが、後の亡命の一番の動機だった。」


1977年

数学博士号取得




「念のため博士論文のタイトルを書くと”極値集合論”である。」


1978年

ハンガリーサーカス学校で舞台芸人の国家資格を取得。




「ジャグリングはリズム感があった方が上達は早いのだが,僕はリズム感が基本的には欠如している方なので非常に苦労した。数学は自分の才能もあったが、大道芸は努力で成し遂げたのだ。まさに”駑馬十駕”の諺通りに。」


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1979年

フランスに亡命。


その後イギリス、インド、アメリカなどに招かれて共同研究や講演を行う。


「亡命先にフランスを選んだのは,留学していた時に数学の論文をいくつも書いていたし,親しくなった研究者たちの影響でフランスでも研究職に就くことができたから。数学者のいいところは,国が変わっても研究には全く影響がなく,どこへ行っても同じ研究ができるということだ。それが数学の素晴らしいところだと今でも思っている」


1982年

東京大学に招かれ初来日。




「とても親切で、真面目で仕事を一所懸命にする日本人が大好きになった。またこの国にはユダヤ人差別もない。日本は僕にとって大変居心地の良い国だと感じ、それから何度も日本を訪れるようになった。」


1987年

フランス国籍を取得。




「 自分の数学への道を切り拓いてくれたのは国際数学オリンピックである。84年から日本の先生方と手を組んで日本チーム参加のために頑張り、この夢が90年の北京大会で実現された。それから日本は毎年参加を続けている。」


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1988年

日本に定住。




「88年からの二年間の奨学金での滞在が終わる90年、フランスに戻らず日本に留まることを選んだ時、僕はいまだかつてないほどの自由を感じた。職を辞し、何の束縛もなくなった。毎日何をするのか、自分で決める。これから自分の判断で決めた道を思いきり突っ走るということは、多少の不安とともに、第二の青春時代が始まることを予感させた。」


1990年

国際数学オリンピックへの日本チームの参加に尽力する。




「 自分の数学への道を切り拓いてくれたのは国際数学オリンピックである。84年から日本の先生方と手を組んで日本チーム参加のために頑張り、この夢が90年の北京大会で実現された。それから日本は毎年参加を続けている。」


1992年

算数オリンピック委員会専務理事就任。




もっと、若い年令にも算数・数学の夢を届けようと新たなコンテストが始まった。算数オリンピックも毎年開かれ続けており、成績優秀者で後に数学オリンピック日本チームのメンバーになる学生も増えている。」


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1993年

前年出版された自叙伝「数学放浪記」の成功をもとに全国を駆け回る講演活動が始まる。




前年出版された自叙伝「数学放浪記」の成功をもとに全国を駆け回る講演活動が始まる。



1997年

NHKBS放送「世界わが心の旅」出演。




ちょうど70歳になった母を訪ね、なぜ親子二人が別の国に住んでいるのかを究明する。

後、1999年NHK総合で再放送。


1998年

ハンガリーの最高科学機関


ハンガリー学士院メンバー。


「今までのぼくの人生でこれは一番の名誉かも知れない。」



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1999年

日本ジャグリング協会名誉顧問。




 

1999年

NHK教育テレビ「マテマティカ」出演。




5年間も放送が続く。この影響で、大道芸人よりも数学者としての認知度が上がった。



2004年

NHK教育テレビ人間講座


「数学の愛しかた」出演。


8回に渡って生まれ故郷ハンガリーの優れた数学教育やフォン・ノイマンはじめ超一流の学者達の功績と人生を紹介する。


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上記のほか、パリ第6大学教授、フランス国立科学研究センター上級研究員、米国ベル研究所科学コンサルタント、慶応義塾大学理工学部非常勤講師、早稲田大学理工学部客員教授、国土技術センター”道と景観の会”実行委員などを歴任。

これまで訪問した国は100カ国以上、かじったことのある言語は30カ国語以上で、 大学で講義できるレベルまで使いこなす言語は母国のハンガリー語のほか、ドイツ語、ロシア語、スウェーデン語、フランス語、スペイン語、ポーランド語、英語、日本語、中国語、韓国語、タイ語の計12カ国語。

専門の数学関係の著作論文は200編以上。
また、講演活動を通して北海道の90回以上を始め、日本中の全都道府県を各10回以上訪れている。

時間の許す限り、全国の路上で得意の大道芸を披露している。

TBS「世界ふしぎ発見!」、テレビ朝日「徹子の部屋」「サンデー・モーニング」、日本テレビ「世界一受けたい授業」など、出演番組多数。