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なぜ日本に残ったのか

(2022.11.17)

 自然が美しいから? 他の様々な国にも雄大で美しい自然の景色はある。
街並みが美しくて清潔であるから? 違う景観の美しさを持つ国も特に西欧にたくさんある。
日本料理が美味しいから? たしかに昔から日本料理に憧れがあったが、パリでも日本食を度々食べていた。
悠久の歴史や伝統が残っているから? それならギリシャやエジプトに行けばいい。
 ではどうしてか。その答えは、日本人である。僕が日本に住みたい最大の原因は、日本人にある。40年前の日本では外国人はまだ少なくて、道を歩いている時や電車に乗った時に興味を持たれてよく話しかけられた。他の国ではそういうことは少なかったので、とても嬉しく感じた。
「ハンガリーはどんなところか」「日本をどう思うか」などいろいろな質問をされて、自分の考えをまとめたり、下手な日本語でも頑張って説明したりするよい練習になった。日本人の外国人を受け入れる積極的で前向きで優しい態度が、とても好ましく感じた。
 さらに優れていると感じたのは、喧嘩をせずできるだけ対立を避ける点である。他の国では、意見が対立した際にすぐに言い争いになったり厳しく鋭く反対の意見を述べたりするが、日本人は穏やかに意見を合わせようとする。そこが素晴らしいと感じた。恥ずかしながら、日本に来る前は大勢の人と激しく対立して口喧嘩をした。それで相手が考えを変えたかと言うと、決してそんなことはない。例えば、阪神ファンに一生懸命巨人の魅力を話しても、巨人ファンになることはないだろう。他の国では、意見の相違が相手との雰囲気を悪くしたり時々殴り合いになったりすることもあるが、日本人はそういう場をしなやかに本当に上手に避けることが多い。いつまでもそうあってほしいと願っている。
 日本で苦労したのは、日本語である。当時の僕は、三か月あれば一つの外国語を習得できると自負していて、ポーランド語もスペイン語も三か月間勉強して、大学で講義したり普通に人と会話できたりするようになった。しかし、日本語は全く違って難しかった。非常に苦労したが、勉強を続けられたのも日本人のおかげである。努力するのを認めて褒めてくれることが、日本語の壁を乗り越える原動力になった。周りの日本人はみな先生という感じで、街で知らない人に看板の読み方や店の名前を聞くと、いつも快く教えてくれた。
 人がどこまで親切だったかというエピソードを一つ披露したい。東京大学の工学部に通っていたので、根津駅から東大まで歩いていた。ある日、最初に教えてもらった出口と違う出口で地上へ出たら、行き方がわからなくなってしまった。雨が降っていて地図を広げることもできず、歩いていたサラリーマンに「すみませんが東京大学はどこですか?」聞いた。すると、朝9時頃だったので出勤途中だろうにもかかわらず、その人は何と10分以上かけて東大の門まで連れて行ってくれた!途中で知っている道に出たので「もうここでわかります」と言ったけれど、「大丈夫ですよ」としっかり最後まで案内してくれた。門の前で「ありがとうございました」と挨拶すると、「それではお元気で」と言いながら、急いで走って立ち去ったのが忘れられない。きっと会社には遅刻したであろう。
 このように優しい日本人がどんどん好きになって住みたい気持ちが強くなり、三か月の滞在期間が終わってフランスに戻る際には、日本をいつでも想えるように、自分へのお土産をいくつか持って行った。大きな日本地図を買ってパリのワンルームアパートの食卓の壁に貼り、毎朝インスタントみそ汁を飲みながら、いろいろな地名の読み方や場所を覚えていった。さらに、ベッドの上には常用漢字表を貼って、寝る前に漢字を勉強した。このように、離れていても常に僕の心の中には日本があった。
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なぜ日本に来たのか?

(2022.10.25)

 信じがたいことに、初めて日本を訪れてから既に40年経つ。1982年(昭和57年)の9月1日に日本の土を踏んだことは、記憶に深く刻み込まれていて、いつまで経っても忘れられない。よく日本人に「なぜ日本に来たのか?」と聞かれるが、失礼千万なのを承知の上で「たまたま」と答えるしかない。
 当時はフランスの研究機関に所属していて、招待状さえもらえば世界中どこへでも飛んで行くような生活だった。実際、日本に来る前の1年間でも、西欧の10以上の国やアメリカに行って講演をしたり数学者と交流をしたり、スイスでスキーをしたりギリシャで泳いだりしていた。全く不自由がなかったと言っていい。
 そんな時、たまたま国際会議で出会った東京大学の伊理先生に「よかったら日本にも来ませんか」と聞かれたので、「喜んで行きます」と答えた。その話をすっかり忘れていたところ、6週間後にパリ大学に招待状が届いた。軽い気持ちで申請をして、日本学術振興会から滞在費、フランス政府に旅費を出してもらって、日本に行くことになった。
 行く前に夏の間は少し日本語を勉強しようと思って、『Japanese for today』という日本語の教科書を買って独学で学んだ。また、パリのポンピドゥーセンターの図書館が当時では珍しく外国語の資料をいろいろ見ることができたので、『雪国』という映画をビデオで見た。さらに、脚本も付いていた。しかし、はっきり言って当時の僕の日本語のレベルでは、ところどころ一部の内容しか理解することはできなかった。ただ、駒子という芸者役を演じた岸恵子さんと、まさか10年後にテレビで対談することになるとはその時は思いもしなかった!パリの友達のおかげで、何人かの日本人と会うこともできた。しかし日本語で会話するどころではなくて、主にフランス語や英語でコミュニケーションをとる程度だったが、日本の知人を紹介してもらうことができた。
 そして準備万端とは言えないまま、インド経由で日本にやってきた。成田空港で待ってくれていたのは、伊理先生の秘書の真理子さんと大学院生一人で、僕を車で港区白金台にある東京大学の国際ロッジに連れて行ってくれた。ロッジは便利な場所にあったが、どの駅からもちょっと距離があったので、二人は一生懸命僕に道を教えてくれた。目黒駅や広尾駅までの道のりを覚えるのは、方向音痴の僕にとっては結構大変だった。因みに、僕の日本語はほんの少し通じたものの、主にはマリコさんとドイツ語で会話していた。彼女はドイツ語が堪能で、噂によると今はドイツ人と結婚してドイツに住んでいるらしい。
 とにかく、日本の何もかもが新鮮で面白かったが、当時の僕は世界中の国に行きたいという想いを胸に抱いていたので、日本に来たのに特別な理由もなかった。
 それでは、「なぜ日本に残ったのか?」。こちらの方が僕にとっては意味のある質問だ。110ヶ国以上を訪れているが、住みたいと選んだのは日本である。それについては、また次回お話しよう〜
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「人生を変えた30年前の出来事」

(2022.06.07)

 月日が経つのは早い。『光陰矢のごとし』『烏兎怱怱』と言うが、日本でマスコミに出るきっかけとなった出来事から今年でちょうど30年が経った。その出来事とは、僕の半生を本にまとめた「数学放浪記」の出版だった。初版の発行日が1992年3月20日と本の後ろに記してある。
 実は、僕にとって本を書くのはとても大変だった。母国語のハンガリー語や得意なフランス語やドイツ語や英語ならともかく、当時そこまでの実力がなかった日本語で書くのに非常に苦労して、途中から口述筆記に変わった。テープに吹き込んだものをライターが書き起こしてそれを直す、という作業を繰り返した。出版に当たりとてもお世話になった晶文社の名編集者の津野さんが、僕の長たらしい原稿を半分ほどにまとめてくれて、何とか形になって出版できた。そして評判を呼んだのも全て彼のおかげだろう。
 すごく心に残っているのは、出版の1,2か月前に津野さんに誘われて編集部の方と4人で文化村に演劇を観に行って、帰りに一緒に食事をしながらこう言われた。「ピーターさん、今ならまだ遅くないですよ。もしあなたがこの本を出版したくないと思い直したら、まだ止めることはできます。」僕は驚いて「なんでそんなことを言うのですか?」と尋ねると、「この本が出るとあなたの人生が変わるからです。」
 その頃は渋谷や新宿や様々な街角で頻繁に大道芸をしていて、芸を披露すればたくさん人が集まるけれど、家に戻って着替えて街に出ると自分のことを知っている人もいなくて声を掛けられることもなかった。その状況が変わるはずだと彼は言い、僕は正直に言ってあまりピンとこなかったけれども、ちょっと考えて「大丈夫です。人生が変わったらそれも楽しみです。」と答えた。
 というのも日本に住み始めて3年しか経っていなかったこともあり、もしこれで何か嫌なほうに転がったとしてもどこかに逃げればよいだろうと思ったのだ。アメリカに行くとかフランスに戻るとかハンガリーに帰るとか、いくらでも方法はある。津野さんが言っていることが何を意味しているのか本当にはわかっていなかったけれども、何とでもなると考えた。
 そして確かに人生が変わった。しかしそれは決して僕にとって悪い方向ではなかった。様々な雑誌から著者インタビューの申し込みがあって本が紹介されると、テレビでも取り上げられるようになった。それをきっかけにテレビにも出演するようになって、街でいろいろな人に声を掛けられるようになった。そしてわかったのは、これは僕がどこかで望んでいた人生だったのかもしれない。
 というのは、父はハンガリーの人口5万人しかいない地方都市の医者だったが、彼の人生によく似てきたと感じるようになったからだ。テレビに出たり雑誌に載ったりすることはなかったが、街では皮膚科の名医として知名度が高く、とにかく中心部を一緒に歩いていると「僕のことを憶えていますか」とよく声を掛けられた。人への関心が強く記憶力が凄い父は「もちろん、○○の村で豚の飼育をやっているでしょう。また娘さんは高校生で成績も優秀で」などと答えて、相手も驚きを隠さず喜んでいた。そして時には公衆の中にもかかわらず、ズボンの裾を上げたりシャツのボタンを開けたりして「ここのできものを診てほしい」「すごく痒いところがある」などと頼まれると、その場でちょっと診察して、必ず持ち歩いていた処方箋に記入して無料で渡していた。そうやって声を掛けられることを決して嫌がらなかった。再び歩き出すと「人の話をしっかり聞いて憶えていて、彼らの生活環境などを考慮すると症状だけではなく病気を原因から治すこともある」と話してくれた。
 僕にはそんな真似はとてもできないが、本の出版によって様々な人から声を掛けられるようになって、あれこれ話をして質問されたり相談にのったりアドバイスしたりするようになった。人の役に立てることが何より嬉しい!
 結局、全く違う職業の尊敬する父の人生に、思いがけず近付くことにもなった。30年経った今でも、あの時「数学放浪記」を出版してよかった、自分の決断は間違っていなかったと自信を持って言える。
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だいぶお久しぶりになりました。

(2022.05.20)

 コロナが始まって講演があまりない時期が二年以上続いてきたが、最近ようやく対面での講演も増えてきて嬉しく思っている。先日も、東京の女子校で久しぶりに800人以上の中高生を相手に話して、すごく楽しかった。舞台から降りてはいけない、握手をしてはいけない、生徒を大道芸に参加させてはいけない等の規制はまだあるけれども、舞台の上から見る、興味を持って一生懸命話を聞いてくれる子どもたちの表情から、すごくエネルギーを得た。と同時に、やはり講演という仕事が僕にとっては生きがいだと感じた。
 最近は講演だけではなく、人と対話する回数も減っているのを寂しく感じている。皆さんはどうでしょうか。僕は新幹線や飛行機に乗る際になるべく隣に座った人と会話するようにしていて、どこへ何をしに行くのか、どんな仕事をしているのか、どんな人生を歩んできたのか、どんな夢を持っているのか、等を聞いていた。そのように交流することは日々の中の幸せなひと時であったが、それを二年間ほぼなくして過ごしてきた。
 大勢の人がいる職場で働いている方は今でも同僚と楽しく交流するでしょうが、僕の場合は秘書が一人いるだけなので、普段は仕事以外の人と話をすることが多かった。また、外国人と接することもほとんどなくなった。日本に住んでいる外国人ではなく、仕事や観光でやってきた外国人と会話することがなくなってから、二年以上経ってしまった。
 では何をやってきたのかというと、基本的には数学の仕事を一生懸命やっている。国際会議も全てオンライン形式でやるようになったので、いつでもどこからでも参加でき、他の人の講義も聞ける。メールのやり取りを通して論文の読み書きもできる。だから数学の仕事は、あまりコロナの影響がなくできている。今年に入ってから既に論文を6編書いたが、自分一人で書いたのは3つで他の人と共著で書いたのが3つ。相手はアメリカ人や中国人だが、実は会ったことがない人ばかり。一度も直接顔を会わせたことはない。
 講演会に行って多くの人の前で話をしたり、講演後に主催者とお茶を飲みながら歓談したりした時間は何て恵まれていたのだろうと、最近は痛感している。またそんな時間が戻ってくることを願っている。


 

本を書きました。

(2021.10.01)

 すっかりご無沙汰しています。その間に、世の中は大きく変化し、僕の生活も一変した。 愛知県の親友は、不況を会社の経営方針を考え直すきっかけと思うべきだと教えてくれた。これを人生に応用すると、コロナ禍は生き方を再考する良い機会ではないだろうか。
 不要不急の外出を控え、国内外の旅行も自粛した一年半、巣籠りしながらこれからの日本や世界、働き方や人との交流、健康と幸せなどについて長時間考えていた。電話や電子メールで各国の友人ともよく交信していた。その考えを新しい著書に活かせたのではと思っている。
 国際交流の華として位置付けられているオリンピックパラリンピック。国民の意見に反して開催されたTOKYO2020大会は、日本のメダルラッシュで嬉しい一面もあったが、一般人にとって外国人との交流は全くなかった。来日した数万人の外国人も東京や日本を観光できず、選手らは競技が終わると48時間以内に帰国しないといけなかった。57年前の大会の時、世界中の人は日本人の優しさ、日本文化の素晴らしさに一番感動したらしい。費用ばかりが膨らんだ今年の大会関連のニュースを読んで、考えさせられることが山ほどあった。
 とにかくコロナが終息して、大勢の外国人が日本各地の人々と交流を満喫できる光景が待ち遠しい。
 おそらく、自民党新総裁の下で緊急事態宣言の解除が発表されるだろう。そして10月から僕も講演活動を再開し、再び日本を旅できるようになることを心待ちにしている。

 9月29日に「子どもの英語教育は焦らなくて大丈夫!」という本が発売になりました。
もしよければお手に取ってみて下さい!
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晩餐会4

(2020.01.28)

 ハンガリーがどれだけ小さい国か、皆さんご存知?面積は93,000kmで日本の4分の1にも及ばず、人口は僕が生まれてからずっと一千万人程度だったが最近は980万人まで減ってしまい、東京都よりも少ない。日本のマスコミにもほとんど登場しない。一人あたりのGDPを見ても、15,531ドルと日本の38,344ドルに比べて非常に少ない。そして、親友ピシティをはじめハンガリーの作家の本はほとんど日本語に翻訳されていない。20年ほど前にノーベル賞を受賞したケルテースという作家の本が翻訳されたくらいだ。僕が大好きな19〜20世紀にかけて書かれた美しいハンガリーの詩も訳されていないので、なかなか日本人に紹介できない。
 こうなったのもやはり戦争に負けっぱなしだったのが原因だろう。ハンガリー人が今の場所に定住したのは西暦900年頃で、15世紀にもまだイギリスとほぼ同じ人口で、その後戦争に一度も勝ったことがなく、トルコに侵略されたりオーストリアの植民地になったりして、歴史的にはほぼいいことなしだった。
 安倍さんの挨拶は丁寧だが短くて特にハンガリーに関する知識を披露することもなく、一方オルバーン首相は一生懸命ハンガリーと日本の共通点を述べたりハンガリーの魅力を紹介したり、10分間の長いスピーチの中で何度も安倍さんに是非ハンガリーに来て下さいと誘っていた。それでも、おそらく行かないのではないかと思われる。
 日本人観光客で見ても、少しは増えたが、大体はオーストリアを中心にウィーンを訪れるついでにブダペストに足を伸ばす人たちだ。けれどもそれも仕方ない。海もなければ山もないので観光資源に乏しく、世界に誇れるのはドナウの真珠と呼ばれるブダペストの街並くらいだから。僕の専門である数学は例外で、面積と経済の大きさに比べると優秀な数学者を多く輩出している。ノーベル賞に匹敵する三つの賞、ウルフ賞(イスラエルのウルフ財団)、アーベル賞(ノルウェー政府)、京都賞(稲森財団)があるが、ウルフ賞は二人、アーベル賞は一人、京都賞も一人、受賞している。国の人口から言うと驚くべきことだ。実際、僕が数学オリンピックに参加した頃はチームでもハンガリーは優勝したが、今では日本よりも成績が下がってきて、とても今後も期待できない。やはり人口が増えず経済的に力がない中では厳しいと僕も悲観的に見ている。
 長い歴史の中で悉く戦争に負けたからか、ハンガリー人には自分たちは犠牲者という意識が未だに強いようだ。晩餐会でも僕たちは可哀想だからどうか経済援助や投資をしてください、と呼びかけているように感じた。僕がオルバーン政権を好きじゃない理由の一つもここにある。外遊の度に他の国に助けてほしいとお願いしていると同時に、様々な国から内戦や災害などによって追いやられて住めなくなった移民の人たちを、ヨーロッパでは最も強く一人も入れないという排他的な政策をとってきた。それが他の国にも影響を与えている。
 僕自身は以前ハンガリーからフランスに亡命して、仕事を得て国籍も与えられ、日本でもとても優しくされて不自由なく暮らしているのも、とても感謝している。だからこそ、個人的には困っている人々がいたら救いの手を差し伸べてほしいと願っている。残念ながらハンガリーではその逆で、三年ほど前に多くの移民がヨーロッパに入って来た時に、政府は移民を絶対受け入れないと宣言し、南の国境には既に壁を作っている(あのトランプ大統領でさえ、まだメキシコとの国境に壁を作れていないというのに!)。しかもハンガリー政府は毎年EUから多額の資金をもらって、それを仲間ばかりにばらまいている。これは非常に恥ずかしくて悲しい。
 そういうわけで、僕は会場を回ってどんな話をしているか聞いてみたが、やはりハンガリーから来た人たちは隣に座った日本の政治家にお願いするばかりだった。晩餐会なので、本来は楽しい世間話をするのが普通だろう。小国の運命はやはりこうだろうかと感じさせられた夜だった。
image ドナウの真珠と呼ばれるプダペストの美しい街並み
image ドナウの真珠と呼ばれるプダペストの美しい街並み
image ドナウの真珠と呼ばれるプダペストの美しい街並み



 

晩餐会3

(2020.01.10)

 2020年、また干支が最初に戻った。僕が日本で初めて年賀状を書いたのは正に36年前、遊びに来た日本で初めて干支があることと年賀状の習慣を知った。だからねずみ年になると、懐かしくその頃を思い出す。できれば次のねずみ年まで日本で頑張っていろいろ活動したいので、応援よろしくお願いします!

 では前回の話の続きを。会場で撮った写真で、すぐ翌日に送られてきたものがあった。それは公明党代表の山口那津男さんとのツーショット。両首相が到着する前に控え室でハンガリー人にたくさん声を掛けられたが、誰だかわからない人ばかり(しかも僕が嫌いなオルバーン首相を支持する人たち)で、ちょっと困っていた。そこで後ろを振り向くと山口さんがいらして、「テレビでよく見ています」と優しく声を掛けてくれた。「それはそちらの話でしょう」とすぐに返したが、何しろ僕は最近テレビに出ることも少なく、一方彼は長年大臣も務めていたのでたくさんテレビにも出ているし、講演で訪れる街を歩いてもよくポスターを目にする。
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 どんな話をしたのかというと、政治家と政治の裏の話をしたいところだが難しいので、出身地を聞くと茨城県のひたちなか市だと。茨城に講演で行く度に話すのは、「茨城の人は日本一。なぜかというと、47都道府県を50音ではなく昔のいろは順に並べると茨城が一番に来る」。これを山口さんにも話すと、考えたこともないと驚いていた。茨城には釣りをしに何度も訪れているし、講演会にも基本的に毎年行っているという話をした後、年末年始はどこか旅行に行くのか聞いたところ、20日頃から一週間ほどミャンマーに行くという。もちろんそれは家族旅行ではなく政治的に訪れるものだが、僕も15年前に行ったことがあって詳しいので、いろいろ話をした。そして彼が「二人で写真を撮りたい」と言うので「もちろん喜んで」と答えて撮ると、翌日彼のメールから写真が送られてきた。すぐに丁寧にお礼の返信をしたら、秘書から丁寧な返事が来た。
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 今回のオルバーン首相の日本訪問のきっかけとなったのは、日本とハンガリーの国交樹立150年を記念して。夏から秋にかけて皇族の佳子様がオーストリアとハンガリーを公式訪問して、それぞれの国で記念行事に参加した。僕の知人の日本人がオーストリアに派遣されて働いていて、その娘がウィーンの日本人学校に通っているが、佳子様がそこを訪れて子どもたちと遊んだ話も聞いた。
 とにかく昨年はテレビやラジオ、新聞で、日本ハンガリー国交樹立150周年、日本オーストリア国交樹立150周年というニュースや記事を十数回も目にしたり耳にしたりしたが、どこでも伝えていないことがある。オーストリアと日本の国交樹立、ハンガリーと日本の国交樹立、これはそれぞれ別のもののように報道されていた。皆さんは、オーストリアとハンガリーは別の国だから当然だと思うだろう。ところが、国交樹立が行われた時はオーストリア・ハンガリー二重帝国という国があり、実際はその国が日本と国交を樹立した。皇帝はハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ。
 歴史的に見ると、日本で明治天皇が即位する一年前の1867年に二重帝国ができて、義務教育を導入したり身分制度をなくしたり経済発展のために産業革命に努めたりしていった。全く名前に出てこないチェコやスロヴァキアやクロアチアやスロヴェニアに比べると、ハンガリーはその中では特別な地位にあり、ブダペストにも政府があった。ところが、外国と関わりのある外交と防衛の権限は、完全にオーストリアが握っていた。つまり当時、国交を樹立したのはオーストリアである。ハンガリーはただその帝国の一部分であった。それを二つ別々のように報じられているのは、不思議で仕方なかった。
 このように、ハンガリーは当時も今も決して大国ではない。それを晩餐会でも強く感じることがあったが、それはまた次回に伝えよう。
image 現在のオーストリア国旗
image 現在のハンガリー国旗
image 二重帝国時代の国旗は二つを合わせたもの



 

晩餐会2

(2019.12.25)

 招待があってからどんな方々が参列するのかと考えて、副総理の麻生さんもいらっしゃるのではないかと思った。僕は安倍首相の『美しい国へ』と麻生さんの『とてつもない日本』という著書を持っているので、本にサインしてもらおうと持っていった。ところが麻生さんは来ていなくて、大臣は外務大臣の江藤さんだけだった。しかも安倍さんには色紙にサインをもらって満足して、本のことはすっかり忘れてしまった。
 もう一つ残念だったのは、菅官房長官がいなかったこと。なぜかというと、彼は政治家の中では珍しい経歴の持ち主で、東北の農家の出身で集団就職で上京し苦労した後に秘書になり政治家になった方で、僕は代々政治家一家の方より評価している。しかもネットで見たところ、彼の誕生日はちょうど晩餐会の12月6日だった!そこで芸の一つでも「今日は官房長官の誕生日だから、菅さんのために披露します」とやりたかったが、彼も来ていなかった。
 オルバーン首相と話をした時に日本はどうかといろいろと質問してきたが、一番長く聞かれたのは「日本人の女性はどうですか?」。彼は国粋主義者でもちろん奥さんもハンガリー人なので、僕はわざと遠回しに「男と女は国籍・人種・宗教に関わらず、相思相愛ならば上手く付き合えますよ」と答えた。それでも「容姿は?」「昔より歯並びも綺麗になって容姿端麗の人も多い」「知的には?」「今の日本では男性よりも女性の方が大学進学する割合が高く、立派に学ぶ人も多い」。しかもちょうど目の前に、通訳をする昔から知っている外務省の女性職員の角田さんがいたので、「彼女が良い例で、ご主人はハンガリー人で子どもも二人いて立派に仕事をしている」と言った。
 また、せっかくの機会だと思って、心の中ではちょっと皮肉に思いながら「安倍首相も七年前に首相に再任してから『すべての女性が輝く社会づくり』を掲げている」と答えた。それを安倍さんにも伝えると、本人は自慢げに微笑んでいた。僕も心から応援している。これだけの大きな社会変化には時間が掛かることは百も承知だが、変革のペースが上がることを期待したい。これを女性の力で変えることはできない。権力を握っている男性の意識が変わらなければ、社会全体も変わらない。僕は男女共同参画に関する講演を行うこともあるので、興味を持っていろいろ調べている。
 つい先日スイスの国際機関が社会進出をめぐる各国の男女格差について調査した結果を発表し、各国で女性の政治参画が進む中、日本は依然として政治や経済の分野で大きな格差があるとして153か国中、過去最低の121位になった。特に政治の分野で女性が占める割合の世界平均は下院議員で25.2%、閣僚で21.2%だが、日本はこれより大幅に低く、衆議院議員で10.1%、閣僚で5.3%にとどまっているそうだ。本当に残念でならない。
 ドイツはメルケル首相はもちろん彼女の下で国防大臣などを歴任したライエン氏も女性で、今年EU委員長にもなった。また、全世界で最も若い首相として話題になったフィンランドのサンナ・マリン氏は34歳の女性である。親のアルコール依存と離婚、貧困を経験し、その後母親とその女性パートナーと生活。このような家庭環境の中で、「福祉制度と教師が救ってくれた」と語り、社会支援の重要性・平等の大切さを身をもって感じた経験から政治家になったのだという。こういった国々を見ると、非常に羨ましく感じる。そこまで男女平等の進んだ社会の方が、よほど居心地が良いのではないかと思っている。
 企業の経営者や取締役にも女性はまだまだ少ない。もっとも、時には男性を選ぶことに良い面もある。そのいい例が、晩餐会にも来ていたスズキ自動車会長の鈴木修さんである。多くの会社の場合、社長の息子や娘が社長を継ぐが、スズキ自動車の場合、娘婿に優秀な人を迎えて社長に就任した。この場合、男性だから良いというわけではなく、血で繋がることよりは会社に必要な人物を選ぶということに意義がある。
 因みに、せっかくこのような場所に招待されたら携帯で写真の一枚も撮りたくなるが、なかなか難しい。実際、外務省の人に止められたゲストもいた。一方、総理官邸の方がきちんと写真を撮ってくれた。一枚目の写真は、晩餐会の前に控え室にいる時に両首相が登場して挨拶されて、オルバーン首相から握手を求めてきた際のもの(いくら嫌いでも断るわけにいかないので、笑顔で手を差し出した)。二枚目の写真は、晩餐会の後にオルバーン首相を見送ってから、安倍さんがゲスト一人一人と丁寧にツーショットで写真を撮ってくれたもの。二週間が過ぎた頃、郵便で届いたので嬉しかった。続く。
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晩餐会1

(2019.12.16)

 お久しぶりです。面白いことがあったので久々に書こうという気になった。なんと19年ぶりに首相公邸(※官邸は総理大臣の仕事場で、公邸は総理大臣の家)を訪れたのだ!
 きっかけはハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相の訪日。外務省から、首相公邸で晩餐会があるので出席してほしいという招待があり、実を言うと最初は少し戸惑った。その理由はただ一つ、今のハンガリーの首相が気にくわないから。大親友である作家のピシュティはオルバーン政権に対してずっと戦ってきた人物で、少し前にも政権を批判する記事を書いた。2010年からずっと政権を握り続けて三分の二の過半数を維持しながら一党支配を実現しているのは、せっかく進んだハンガリーの民主化を逆戻ししているように思える。彼の独裁的な手腕はEU委員会からも散々批判されている。
 2013年にも訪日した際、ハンガリー大使館での晩餐会の招待を受けたが、その時は断った。さすがにそれから、年に何回も来ていたハンガリー大使館からの招待状が全く来なくなった(笑)。ハンガリーが嫌いなのではなく今の政権が嫌いなのだ。政権はともかく、ハンガリー人は昔から日本に好意的で、経済大国として高く評価して、日本文化に関心がある。ハンガリー育ちの日本在住の者として、両国の架け橋になりたい気持ちは大いにある。今回は招待状も安倍総理大臣の名前で送られてきたので話は違うし、ちょっと考えた末にやはり行くべきだと思った。
 晩餐会が近くなって外務省から連絡があり、できたら大道芸を披露してもらえないかと。当然出演料は出ないが(笑)それもまた面白いと思い、問題ないと答えた。ただし、普段は日本語ばかりでやっているので、練習しながらハンガリー語での面白い言い回しを模索したりどの芸をやるのか考えたりした。
 そこで一つ、以前からパーティーなので披露している自慢の技を思い浮かべた。参加者の女性の指の上でボールを回すという芸で、総理公邸での晩餐会なので明恵夫人もいらっしゃるのではないかと思ったのだ。安倍夫妻のところに行って「総理、ファーストレディを少しの間貸してください」と申し出て、明恵夫人を席から連れ出す時に言う台詞は「今は心臓(晋三)がドキドキ!」。きっと笑いが起こるだろう。もっとも、これを実現することはできなかった。なぜかというと、ハンガリー首相が一人で来たせいか、安倍さんも一人でいらしたのだ。
 そこで、両首相に是非とも芸に参加してもらおうと思った。一つ用意したのは皿回し。僕は何の仕掛けもない皿でも回すことができるが、落ちても割れない金属製の皿があって、しかもよく回すと真ん中の穴に棒を自然に入れられて、誰でも棒さえ持てば皿を回し続けることができる。オルバーン首相のところに行って「ハンガリーは昔からサーカス芸が盛んであった国なので首相も当然できるでしょう、さあ立ってやって下さい!」と皿を回している棒を渡した。すると一度は何か技をやろうとして落としてしまったものの、次はしばらく皿を回してから上に投げて手に取ってお辞儀して、みんな拍手喝采だった。
 同時に安倍さんには数学的な手品をやってもらった。3進法を用いた数字当ての手品で、1〜80までの数を思い浮かべてもらい、 その数が表裏に27個ずつ数字の書いてある4枚のカードにあるかないか探してもらい、また数字が載っているカードをその面が下にあるように並べてもらう。すると一瞬でその数字を当てられる。わかった数をマーカーペンで紙に大きく書いてから、安倍さんに数を言ってもらった。それで自分が書いた数字を見せた。ピタリ一緒だったので、大成功だった。
 せっかくなのでサインをしてもらおうと、芸が終わってから色紙を持って安倍さんとオルバーンさんのところに行った。晩餐会なので警備の方も大勢いてあまり移動する招待客がいない中、僕は明恵夫人がいなくてもドキドキしながら行ったのだが(笑)、無事にサインをしてもらえてよかった。続く。
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ラジオ深夜便

(2019.03.29)

 2月18日と3月18日の二回、NHKのラジオ深夜便に出演した。30分ずつのコーナーは『萩本欽一の人間塾』で、萩本さん通称欽ちゃんと対話をした。欽ちゃんに会ったのは初めて!だからよく準備して、彼が書いた本を二冊も読んだ。
 テレビに出演すると、その後は何人かに「観ましたよ」と声を掛けられるけれど、ラジオでそんなことは滅多にない。それでもラジオが大好き!語学学習の為にはラジオが一番と昔から考えている。テレビだと映像の印象が強烈で、言葉だけに集中するのは難しい。 一方ラジオは言葉だけなので、アナウンサーや出演者などは一語一句を分かり易くはっきり発音しようと努めている。
 高校生の頃、ドイツ語の聞き取り練習としてよく短波放送で外国のドイツ語番組を聴いていたことがきっかけで、ラジオの魅力に気づいた。 最近はタイ語を学んだが、バンコクのホテルでテレビの番組を観ても、細かい内容を理解できなかった。しかし持っていたガラケーで、地元のFM放送は結構楽しむことができた。
 インターネットの時代は、外国語を学習したり練習したりすることはかなり楽になった。紙の辞書を使わなくても、単語の意味と発音を調べることができる。良質の会話を聴きたいなら、各国の様々なラジオ局を無料で聴くことができる。
 閑話休題、今回のラジオ深夜便に話を戻そう。 萩本さんから面白い注文があった。ピーターが偉いと思っている何人かの日本人を紹介してほしいと。但し、歴代の政治家や偉大な学者などではなく、無名な一般人を!人間はみな平等の観点からも素晴らしいアイデアだと思ったが、具体例を考えるのに時間が掛かった。
 番組の収録で最初に挙げたのは、名前も知らない渋谷の浮浪者(仮にAさん)である。 平成元年から凡そ10年間、109の横の路上で頻繁に大道芸を披露していた(止めたのはそこの歩行者天国が中止になってからである)。 毎回3、4時間ほとんど休まず芸をやっていた。そしてほぼ毎回Aさんが現れた。芸をしっかり観てくれて、僕の帽子に毎回寸志を入れて下さった。しかも10円でも100円でもなく、必ず500円硬貨一枚を!僕の方が絶対お金があると思って、「大丈夫、もうお金を入れなくても結構ですよ」と再三再四言ったが、やはりそれでも入れてくれた。
 ある日曜日のこと。またいつものように鯨屋の前で芸をやっていると、Aさんが現れた。そしてボロボロに破れた上着の中から読売新聞を取り出して、僕のインタビュー記事が載っているページを嬉しそうに見せてくれた。 感動のあまり涙が出た。社会の底辺でギリギリで生きている人からこんなにも優しくされたことは、初めての体験だった。
 このblogを読んでくれている皆さんにもう一例を紹介したい。それは明治初期に科学の専門用語を日本語に訳した、当時の不特定多数の人達である。彼らの努力のお蔭で、日本の子供達は母国語で理科や算数の勉強ができ、忽ち日本の科学技術のレベルが上がった。現在の日本人が学校などで当たり前のように使っている専門用語の多くは、江戸時代の日本にはなかった。
 明治時代になって外国に追い付く為、日本人はものすごい努力をした。それを支えたのは教育であった。外国語を全く判らない子供にカタカナ語を使って教えると、難しい概念を正しく理解してもらうのは不可能に近い。しかし時間と努力を惜しまなかった学者達のお蔭で、適切に創った熟語が次々生まれ、科学技術教育を支えた。 組織や細胞はその一例である。昔の不特定多数の学者達に拍手を贈りだい!


 

Qさま

(2019.02.22)

 今回はクイズ番組『Qさま』の話をしよう。この二年間は『ネプリーグ』『ミラクル9』などのクイズ番組に、何回か出演した。どれも面白くて楽しかったがチーム戦で、『Qさま』とかなり違った。チーム戦だと両チームに最後まで逆転の可能性が残るように、制作者は得点の配分などに工夫している。だから初めの方は多少失敗しても、挽回の可能性は十分に残っている。また指名されて答える問題が割と多く、じっくり考えても大丈夫だ。(尤もそれによってチーム全体に与えられた時間が減って、仲間に迷惑を掛ける場合もある。)
 一方の『Qさま』は、完全な個人戦である。そして早押しの問題が多い。不正解だと恥をかくだけではなく、自分の順位も大分下がる。だからドキドキハラハラしながらスタジオに入った。最初の順番は籤引きで決まった。その結果は勝負の行方にもかなりの影響を持っている。実は今回の優勝者、やくみつるさんは籤引きでも一番になった人である。僕は9番でかなり不利だったが、それは運のことで仕方がない。
 一回でも早押しで正解することができれば、初出演の者としてそれで十分だと思った。 準備として難読漢字をかなり練習した。前回は「次の3つの漢字を全て正しく読みなさい」という問題があったからである。その時出題されたのは〔糠〕(ぬか)、〔粕〕(かす)、〔粽〕(ちまき)であった。正直に認めよう。一人でテレビを観た時は、三つ目の〔粽〕を読めなかった。粽が大好きで、日本でも中国でもよく食べてきたのに!だからこのタイプの問題に備えて、難読漢字のリストをインターネットからダウンロードして、何時間も掛けて憶えていた。ところが今回はこの手の問題がなかった。
 番組の中でその後は、僕にチャンスもやってきた。〔日本語英語問題〕である。同じ意味を持った日本語と英語の単語を、一部の字(平仮名と片仮名)から当てなければならない問題である。良く集中できてしっかり正解したのは〔混雑とラッシュ〕である。「外国人だからできて当然」と思われるかもしれない。けれどもちょっと違う。僕にとって英語は決して母国語ではない。実は第4外国語として、大学2年生の時に独学で学び始めた。だから「良くできたな」と、自分を褒めてあげた。
 それで軌道に乗ったのか、早押し問題はあと二問正解できた。逆に全員同時に解答する四択のランキング問題は、あまり振るわなかった。だからトップの5人には入れなかった。しかし自分に立てた目的を大きく超えて、とても愉しい時間を過ごした。またチャレンジできると嬉しいな!


 

北海道

(2018.11.22)

 先週は北海道で講演をした。これで北海道に行ったのは丁度100回になった!100回って凄いなと、自分でもびっくり!計算間違いでもしたのかなと、疑いたくなる。しかし、そんな筈がない。同じ日本でありながら地形も動植物も違う北海道は昔から大好きで、行った回数をしっかり数えていた。
 初めて訪れたのは1984年9月である。青森からの連絡船で函館に入ってから、すぐ好きになった。家々は本州やフランスなどと違って二重窓になっていて、故郷のハンガリーを懐かしく想い出させてくれた。ハンガリーにいた頃は夏休みを毎年、海の無いハンガリーの最大の行楽地、バラトン湖の畔に過ごしていた。だから函館市内と登別温泉を巡ってから支笏湖に向かって、当時の僕にとってはかなり高かったが、湖畔の旅館に泊まった。
image 支笏湖で泳いだ〜
 支笏湖は正に一目惚れだった。これほど綺麗な湖をどこにも見たことがなかった。だから洞爺湖や小樽を諦めてじっくり観光した。遊覧船や足漕ぎボートに乗ったり、泳いだり、自転車を借りて苔の洞門などを巡ったりした。せっかくなので、周囲の名前の響きが不思議な山々を覚えた:恵庭岳、樽前山、風不死岳〜。恵庭岳に登って、水の色が神秘的な小湖オコタンペ湖も一周した。34年が経った今でも鮮明に記憶していることは、その当時の感動の強烈さを物語っているだろう。
 諦めた洞爺湖を、二年後の二度目の北海道旅行の際に堪能した。その時は両親を連れて、日本中を一ヶ月弱掛けて観光した。彼等は、自分達が生まれてから誕生した昭和新山にかなり感心した。
image 僕が撮影した登別での両親
 さて、今回の記念すべき第百回の北海道への旅、本来は日帰り可能な札幌での講演会だったが、やはり前泊で行った。旧道庁のすぐ側にある老舗、グランドホテルに泊まった。そして翌朝は大道芸や雪祭りの楽しい記憶が多い大通公園をゆっくり散策した。
  大通公園に行く時は必ず、石川啄木の銅像を訪れる。28歳の若さで亡くなったこの大詩人のことを、やはり初北海道旅行の時に知った。銅像の隣の石碑に刻んでいる名詩、『しんとして幅広き街の秋の夜の玉蜀黍の焼くるにほひよ』を何回も読んできて、しっかり暗記した。 尤も、今大通公園で玉蜀黍が売っているのは夏だけである。秋になったら全ての売店は姿を消してしまう。
image 石川啄木の石像と歌碑
  僕は焼き玉蜀黍が好きではない。子供の頃は夏の風物詩として、その年に取れた甘くて柔らかい茹で玉蜀黍を頻繁に食べていた。夏は札幌に行くことがあったら、必ず大通公園の売店で茹で玉蜀黍(トウキビ)を買って、ベンチに座ってゆっくり食べている。来年もそんな機会があると嬉しい!
image 紅葉がとても美しかった!



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