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松山1

(2018.04.02)

 3月中旬、100日ぶりに松山に行った。冬も釣れる魚がいるけれど、海が荒れて風が強かったり、冷たい雨が降ったりすると、船に乗ってもさほど楽しくない。一方、松山の友達にほぼ毎週電話で釣果情報を聞くし、よく乗っている船のHPも見る。ワンワンさん(友達のあだ名)は毎週(!)船に乗る。大した魚を釣れない〔撃沈〕もあるが、立派な釣果を挙げることの方が多い。ワンワンさんは、2月にメガ鰺と呼ばれている50センチ前後の鰺を狙ったり、また別の週は2本の鰤を釣ったりしたので、今回は僕もこれらを狙うことにした。13日はジギングで鰤、14日はサビキでメガ鰺を狙った。
 日本人の皆さんはよくご存知のように、鰤は出世魚である。20〜40センチはワカシ、40〜60センチはイナダ、60〜80センチはワラサ、そして80センチオーバーは鰤である。これを魚の図鑑で読んで、全国で同じだと思ったが違う!!鰤はどこでも鰤だが、関西や四国や九州で、もっと小さいのは順にヤズ、ハマチ、メジロと言う。北陸ではコゾクラ、フクラギ、ガンドウと呼んでいる。
 13日の船は愛媛県で非常に名高い〔黒岩フィシング〕である。松山でのもう一人の友達、大野さんはそこの常連である。大野さんは電気系の会社の経営者で、東京の取引先の人を接待としてよく釣りに誘う。黒岩フィシングの船は大きくて、10人でも余裕で乗れる。だから時間が合えば、僕も大野さんに甘えて無料で乗せてもらう。貧乏ではないのに、いつも〔ご馳走になる〕のはちょっと恥ずかしい。しかし、大野さんの方がずっと金持ちであるので仕方がない。
image 筋トレのように手巻きでジギング
 今回、東京組は二人。一人は釣りに慣れている男性で、もう一人は釣りが初めての女性だ。ジギングは200グラムのルアーを海底に落として、リズム良く誘いながらリールを巻いて20メートル上げる。それから再び海底に落とす。作業としては複雑ではないけれど、何時間もやり続けると慣れた人でも疲れる。しかも魚はそう頻繁に掛からない。そこで、ビギナーの多くはやる気を失ってしまう。
 だから大野さんは東京組に、バッテリーで動く電動リールと、外見が小さな烏賊にそっくりで最近真鯛釣りにも人気の(金属製ではない)ソフトルアーを用意してあげた。 これならかなり楽だ。ルアーが海底に着いたら、竿先をちょっとだけ上げて電動リールのスイッチを押す。カウンターで確認して20メートルほど上げる。それから再び海底に落とす。魚が烏賊に食い付いたら、ゲソに隠れている針に掛かる仕組みになっている。 結局、女性の方はハマチ2本にメジロ1本と、なんと鰤1本を釣り上げた。こんな好釣果に彼女もびっくり。そして大野さんは大喜びだった。
 僕はずっと手巻きで普通のジギングをやっていたが、朝方は何も掛からなかった。筋トレの為にジグ(ルアー)を落としたり、上げたりする感じ。しかし、船長の腕を信じて、何種類かのルアーを試しながら真面目にやり続けていた。2時間以上経ったところ、漸く魚が掛かった。
 一番愉しいのは、魚が掛かってからのファイトである。魚の大きさにもよるけれど、5〜10分もかかる。途中で糸が切れたり魚が外れたりすることもよくある。だから慎重にやりとりをする。魚の顔が見えてからも油断禁物。網に入って船長が上げてからの喜びだ。 結局、昼までに3本のメジロを釣った。
image ピーターvsメジロ ピーター勝利!!
 船で大きく移動してからの午後の分、これもまた厳しかった。なかなか当たらない。海は静かで、波も風も無い状態で船長も釣りを始めた。僕より何段も腕前が上なので、彼の動きを真似することに。 彼とほぼ同様の銀色のルアーを使うことにして20分。先ずは船長、直後に僕も当たり!魚の引きはとても強い!ジギングでこれほどの引きを体験したことが無い!だから凄く慎重にやりとりを続けていた。魚が強く引くと、竿先は大きく曲がる。そこからなんとか竿を水平に戻して、魚の次の引きに備える。しかし、その前に次の引きがきたらどうする?僕はしゃがむことで対応して、10分以上も激しいファイトを愉しんだ。
 そして、遂に魚の顔が見えてきた。びっくり!!一本ではなく、2本だ。だからそこまで重かったのかと、納得と同時に嬉しさは倍増。こんな経験は初めて。18センチのジグ(ルアー)の前後の両方の針に、2本の魚は同時に食い付いた。しかもメジロに鰤。別に狙った訳ではなく、運良く同時に掛かっただけ。しかしとても嬉しい!
 小さな魚を釣り上げても普通に嬉しい。けれども、このような全く新しい経験をすると一段、いや、二段も違う嬉しさである。「わざわざ愛媛県に来た甲斐があった!」、「船長、大野さん、ワンワンさんありがとう!」と、胸は感謝の気持ちで一杯になる。それでも、もちろん釣りを続けていた。そして、暫くしてからメジロをもう一本釣った。最終的に船でトップ、とりわけ電動リールを使った初心者に負けなかった。続く。


 

沖縄3

(2018.03.14)

 沖縄で海を楽しんでから、ピシュティもその島の歴史と現状を知りたくなった。先ずは北部の重要遺跡、今帰仁城址公園に行った。ここを訪れるのは僕も初めてだったが、その大きさに驚いた。琉球王国が一つに纏まる前に今帰仁は北部の中心になっていて、その王が住んでいた所に城壁などの史跡が綺麗に復元されている。美ら海水族館から車で20分足らず、沖縄に行くならば是非立ち寄って下さい!
imageimage 上:今帰仁城址公園の全体
下:今帰仁城址公園の綺麗な桜
 春節(中国の正月)のこともあって、中国と台湾からの観光客が多かった。公園内の桜が満開で、日本人も大勢いた。更に韓国人と欧米人もいた。駐車場から斜面を登って遺跡を巡ってから、ピシュティはちょっと疲れてベンチに座った。 彼は日本人と中国人を見分けることも聞き分けることもできないので、次から次へ通るグループについて、随時僕に質問した。 30年も日本に住んでいる僕には、日本人か否かは表情や服装で一目瞭然だ。言葉を聞けば、外国人の国籍も判る。しかし、今回はもっと簡単な方法があった!
 桜の花と記念写真を撮るのは日本人、残りは外国人、というやり方だ。外国人の目に桜が美しくない訳ではない。彼らもよく満開の木々の写真を撮ったが、一人一人木の下に立って、花との記念写真を撮ることがなかった。外国人が記念写真を撮った人気スポットは、丘の上で東シナ海を展望できる所、とりわけ後ろに鹿児島県の与論島がくっきり見える場所であった。
 与論島が座間味島や渡嘉敷島よりも沖縄本島に近いことに驚いた。江戸時代前にもかなりの交流があったのではないかと思われる。残念ながら資料は残っていないけれど、奄美大島辺りの方言と沖縄弁は割と似ていることが確実だ。
 琉球王国に関する最も立派な展示は、ユネスコ世界文化遺産にもなっている首里城だろう。沖縄戦で日本軍の司令部が置かれたこともあって、激しい戦闘の結果、原型が留まらないほど壊された。それは残念でならないけれど、史料に基づいて近年かなり復元された。僕はここを訪れたのが20年振りの2度目で、前よりはずっと立派になっていて、観光客数もかなり増えていた。
image 首里城正殿
 中国と日本の架け橋になっていた琉球、盛んな貿易の為、土地が貧弱で農業にあまり向いていないにも拘わらず、薩摩に編入されるまでそれなりに栄えたと窺える。江戸時代は参勤交代制度や薩摩の支配でほぼ植民地扱いになり、明治以降も産業の発展は遅かった。そのせいなのか、日本人の海外移住が盛んだった第一次世界大戦後、多くの沖縄県民はグアム、サイパンやパラオ、またブラジルなどの南米へ渡った。ボリビアには今もOkinawaという地名が残っている!
 西暦2000年のG8(今はG7)サミットを機にモノレールが作られるまでは、日本で唯一鉄道がない都道府県でもあった。今でも全国的に賃金は一番低い。しかし給料が低いにも拘わらず、陽気で親切な人が多い。最大の産業である観光を支える為に、これからもしばしば沖縄に行きたい! 
image 首里城にて わたしは誰でしょう?



 

沖縄2

(2018.03.07)

15日の朝はやはりホエールウォッチングに行った。本部沖に鯨がいることを教えてくれたのは、13日の夜に行ったレストランのオーナー、70を過ぎた女性である。
 ピシュティは蕎麦が大好きで、東京で毎日(!)昼か夜に蕎麦を食べていた。本部の街を車で走り回ったが、蕎麦屋はなかった。有ったのは沖縄蕎麦の店だけ。出汁も麺も蕎麦と違うので、沖縄蕎麦は蕎麦ではない。饂飩でもラーメンでもない、沖縄独特の料理である。初日に選んだのは山羊蕎麦である。
 ヨーロッパだと山羊や羊の肉が珍しくない。しかもピシュティの好物。 彼に沖縄の山羊事情についてあれこれ質問されたが、答えられなかった。だからピシュティが食後のビールを嗜む間、僕はカウンターに座り、オーナーに山羊の話を聞いた。そのついでに彼女は前日の午後3時、辺戸岬から5頭の鯨を観たことを話してくれた。
image 山羊汁のレシピ
 鯨を一度も見たことのなかったピシュティはかなり関心を見せたので、秘書にお願いして船を予約した。不思議な事に、船のオーナーは沖縄の人なのに、スタッフは全員内地(本州)の人間だった。本州での生活をキツいと感じて、開放感を求めて沖縄にやって来ていた。内地より賃金は安い筈だが、凄くイキイキとしていた。
  船を操縦していた男性は、免許を取ってからわずか1ヶ月と思わせないほど、鯨に近付くことが巧かった。特に、最後に見付けた2頭を至近距離から観察できた。ピシュティも凄く満足していたし、僕も嬉しかった。記念写真を求めてきたスタッフに、「沖縄で幸せを見つけて下さい」と別れの挨拶をした。
image 真ん中が操縦していた男性
image 近くで見たクジラの尾びれ
 鯨を観てから、沖縄一のリゾートと言われている〔ブセナテラス〕に行った。以前沖縄の友人に案内してもらったので、その場所を遠くからでもわかった。 国道58号線を南に向かって走ると、小さな半島の上に建つ美しいホテルがはっきり見える。外見だけでなくホテルの中も美しく、高級感が溢れている。 カフェテラスでケーキセットを頂きながら、コバルトブルーの海を眺めピアノの生演奏を聴いていた。
image ブセナテラスのカフェテリアにて
時期また平日ということもあり、僕たち以外にはピアニストの写真を何枚も撮っていた一人の女性しかいなかった。「ピアニストの友達だろう」とピシュティが言ったので、彼女のテーブルに行って聞いてみた。やはりピシュティの勘は当たった。二人は群馬県出身で、幼馴染みであった。 ホテルの図書室も開いていたので、いろんな写真集を手に取った。英語版沖縄料理の中に山羊汁のレシピもあったので、ピシュティはスマホで写した。
 それから海辺に下りて、海中公園を観に行った。千葉県勝浦市同様、海の中に立っている円柱で、橋を渡って中へ入り、螺旋階段を下りながら水中の珊瑚と魚を堪能する。海は浅いけれど、頻繁に餌付けするので、カクレクマノミ(ニモ)をはじめたくさんの魚が見られる。因みに、お客さんの大半は台湾人と中国人だった〜。続く。
image 海中公園で見た熱帯魚


 

沖縄1

(2018.02.28)

 夏にルーマニアを一緒に旅した、高校時代以来の大親友ピシュティがハンガリーへ発った。3週間みっちり一緒に過ごしたので、今はかなり淋しい気持ちだ。
 彼が日本に来たのは5回目で、2002年の銀婚式(結婚25周年)を除いて単身である。彼の妻シルビアは飛行機が嫌いで、長時間乗りたくないことが原因である。シルビアもとても素敵な方だけれど、僕にとってはピシュティが一人で来る方が都合が良い。彼とたっぷり話ができるからである。以前は東京と横浜、日光や箱根また関西や九州を旅した事があるので、今回は沖縄に連れて行った。今回と次回はその旅の話にしよう。
 スカイマークの飛行機に乗ったのは、2月13日の昼過ぎである。そして5時過ぎには既にレンタカーで沖縄自動車道を走っていた。向かっていたのは瀬底島である。知らない人も多いだろう。美ら海水族館と同じ本部(もとぶ)町にある、小さな離島である。翌朝乗った釣り船まで、瀬底大橋を渡って歩いて行ける。しかもそこのホテルはとても安く、一人部屋は5000円未満だった。
 釣り船は以前(2016年11月)巨大太刀魚を狙った船で、中村船長に電話してみたら「2月は最も釣れない時期だ」と言われ、ゾッとした。既にピシュティが来るのは2月に決まっていたからだ。しかし船長に「3月の方がずっと良いけれど、あおり烏賊なら多少釣れるだろう」と勧められ、バレンタインデーに船をチャーターした。 ピシュティは烏賊を釣ったことどころか、生きた烏賊を見たこともなかった。僕は11月下旬に松山であおり烏賊を狙って乗船したが、全く釣れなかった。しかも今回の釣り方は一度もやったことがない、沖縄特有の〔烏賊ジギング〕だと言われた。
image 島の真ん中に小高い山が見えた伊江島
 だから当日の朝は、二人とも坊主(全く釣れないこと)になればどうしようと、凄く心配していた。港に着いたらすぐ船に乗って、船長からやり方を説明された。隣の船に如何にも上手そうな6人が乗っていた。彼らはたくさん釣って僕たちは坊主、がピーターの釣果予測だった。だから船長に餌釣りの準備もお願いした。
  港を離れ、瀬底大橋の下を通って伊江島方面に15分走って釣り場に到着。そして餌木(烏賊を狙う擬似餌)を下ろして、誘いながら5メートル程巻き上げるといきなりヒット!しかもかなり重い!無理しないで糸をゆっくり巻き続けて2分。その末海面に現れたのは、見たことのないほど大きなあおり烏賊だった!船長が上手く網で救ってくれてから、烏賊と僕の満面の笑顔の撮影に入った。本来ならすぐに餌木を外して再投入だが、嬉しさのあまり船長に言われた通りに、釣ったあおり烏賊を片手でぶらさげてもう一本の手で鰭を広げたりした。様々な角度から写真を撮られてから、僕のカメラでも一枚撮ってもらった。「さて、釣り再開」と餌木を投入した瞬間、ピシュティが「ヒット」と叫んだ。糸を緩めないでリールをゆっくり巻くようにと、彼にアドバイスした。そして2分後、彼にも大きなあおり烏賊が上がった。検量の結果、ピシュティは2.7キロ、ピーターは2.6キロとピシュティに軍配が上がった。
image 釣りあげた大きなあおり烏賊と満面の笑みのピーター
 体の模様を見て、船長はピーターのは雌、ピシュティのは雄だと言って、大きな雌の近くに更に大きな雄が釣れるのがよくあるパターンだと説明してくれた。ピシュティも大きなあおり烏賊を釣れたことを喜んだ一方、写真撮影をしなければ雄も僕にかかったかもと少しばかり後悔していた。その後もあおり烏賊は良く釣れたが、2キロを超えるものは上がらなかった。
 そして昼頃から波風が出て釣れなくなった。 最終的にピシュティは5杯、ピーターは9杯と大きさでピシュティ、数でピーターの勝ちになった。 午後は海老で魚釣りをして、水族館で泳ぐような綺麗な色の魚を釣った。殆どはリリースしたが、何枚かの記念写真を撮った。 烏賊と魚は、海からのバレンタインプレゼントだったことにしよう。
image 左:大親友のピシュティが釣ったあおり烏賊
右:沖縄らしい綺麗な色の魚
 因みにもう一隻の船は違うポイントを選んで、釣果はあまり良くなかったらしい。釣果は船長の腕次第という意味の諺『船頭八分目』がある。やはり中村船長に感謝だ!
帰り道に遠くに戯れている鯨を見たので、翌日はホエールウォッチングに行くことに決めた。


 

広州

(2018.02.01)

 年末年始の旅の収穫と言えば、今の広州を観たことだろう。30年前に観た街はどこにもなかった。駅での入国審査も成田並みに素早く済んだ。駅前でタクシーを待つ列が長く、地下鉄で白雲ホテルまで行った。地下鉄は使い易く、路線図で行きたい駅のボタンを押すと、行く方法と運賃が表れる。僕の場合は、一回の乗り換えで3元(60円より少ない)。人が多いけれど、お互いを押したりはしない。地下鉄は清潔で、どこの駅でもきちんとエスカレーターもある。
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 不便と言えば両替である。観光客が少ないせいなのか、商店街で両替所は見当たらなかった。ホテルで両替したが、書類に名前や部屋番号を書かされて、パスポートのコピーまで取らされた。しかもそれから2分ほど待たされた。
  広州一の商店街、北京路の店の大半は中国のクレジットカードしか使えない。しかし洋服などの質が良く、香港島と比較できないほど安い。北京路は広州の旧市街地で、発掘された2000年ほど前の石畳の道の跡も見ることができる。広州は近くの白雲山を除くと平らである。それを上手く利用して、碁盤のように開発された。大道は片方面3車線で交差は立体的で、片方はもう一方の下を潜って景観を損なわない。(東京の首都高速道路は便利だが醜い)。信号が少ない分、車の流れは速い。車が多い分、空気は悪い。白雲山は、かなり近くを通らないと見ることはできない。
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 日本人の友達夫婦と彼らの幼い子供と一緒に、広州動物園に行った。中国三大動物園と言われているのに相応しく、素晴らしかった。猛獣を除いて、動物たちはかなり自然な環境の中にいる。動物園全体は凄く広くて、丸一日掛けても全部を見るのは難しい!動物園の近くには巨大なリゾートホテルがあって、中国全土からのお客で、一泊して動物園を2日間堪能する人も多い。
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緑が多く良い雰囲気なのに、僕にとってちょっと嫌なことがあった。それはお土産販売店の多さである。例えば、10頭ほどのパンダがいるパンダの山に入る為に、緩やかな長い坂道を登らないといけない。もうすぐだと思ったら、道は物凄く広い店に入って、その店を通らないとパンダのいる所には行けない。子供達は勿論、たくさんのぬいぐるみや玩具や食品を見たら「これ買って」「これ食べたい」とねだるので、商売は繁盛する。しかし僕はこんな強引なやり方は嫌い。日本や欧米の動物園と水族館では、お土産販売店は出口付近にあって、入りたい人だけが入る。とはいえ、昼ご飯を食べながらパンダを眺めるのは贅沢な気持ちだろう〜
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 この文章を読むと、「ピーターは中国が大好き」と思うかもしれない。確かにこの四半世紀の経済成長と、それと無関係ではない人々の前向きの姿勢を高く評価している。しかし、習近平政権は決して好きではない。独裁色がどんどん強くなっている。ニュースで見る限り、どこかの会場に入ると2分間以上も拍手は続いている。金正恩ほどではないが、傾向として似ている。やはり、政治指導者は頻繁に交代される方が良い気がする。


 

香港1

(2018.01.11)

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 明けましておめでとうございます。
 長過ぎた旅行からやっと帰って来た。香港と広州を旅してきたが、やはり季節を誤った。香港も中国本土も10年振りで、興味津々で飛行機に乗った。しかも香港では30年来の親友のフランス人夫婦と待ち合わせていた。国籍はフランスだけれど、彼女はスペイン人の父親とベルギー人の母親の間に生まれたのに対して、彼の父親はオーストリア人で母親はハンガリー人。彼らの息子は幼少期から、母親とはスペイン語、父親とはハンガリー語、幼稚園や学校の仲間とはフランス語で話をしていた。世界屈指の経済大学、London School of Economicsを卒業してから、アメリカの金融機関の香港支店で勤務中。彼は毎晩遅くまで働いているので、両親との楽しい夕食会を期待していた。
 ところが、近年二人とも菜食主義に転じて、広東料理には見向きもしなかった。街を足が棒になるほど歩いた末、エレガントなホテルのロビーでケーキセット。ホテルに戻ったのは遅く、歯を磨いてすぐ寝た。布団は薄く、暖房はなく、夜中は〔寒いな〕と眼が覚めた。しかし起きて何かを着る気力がなかった。それで風邪を引いてしまった!
 考えてみると、日本で引いた最も酷い風邪は冬の沖縄だった。やはり、中途半端に暖かい所は冬に行くべきではない!!!沖縄では、外は陽光で半袖でも気持ち良かったが、大学の研究室はかなり冷え切って、暖房も無く、やられた。
 電車で渡った広州。2時間の旅中はずっと釘付けで車窓からの景色を眺めていた。30年前に初めて行った中国。やはり当時も列車で香港から広州に行った。当時の広州は田舎で、殆どの人は自転車通勤だった。車窓から見たのも農業を営む人や牛ばかり。
 今は東京周辺と同様、沿線にずっと街が並んでいる。しかも30階前後の集合住宅が多い。新開発ということもあって、車用の広い道路もきちんと整備してある。31日の朝は熱も高く、食欲もなく、正に寝正月になってしまったが、その前後の2日間は広州の街を散策してきたので、その話はまた次回に〜
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グルジア2

(2017.11.29)

 二日目は5000メートル級の山、カスベギ山を目掛けてツアーで出掛けた。ツアーと言っても現地の旅行会社で交渉をして、ロシア人のグループに加わって貰った。15分遅れてホテル前に現れたのはマツダのMPVである。3人のロシア人は仲良く後部座席に座っていたので、僕には景色がよく見える助手席が与えられた。
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 運転手は20代のアゼルバイジャン系グルジア人、カマルでロシア語も流暢に話せた。車は日本から渡った中古車で、ハンドルは右側にあった。カマルは対向車線がある片方面1車線の山道でも、前に走っているトラックやバスをどんどん追い越そうとしていた。故にスリル満点のツアーになった。彼は車を道の左側へ出さないと、対向車が来るかどうか判らない(グルジアは右側通行なので)。左側に座っている僕の方が早く対向車に気付く。そして彼に「ダメ、ダメと言う。それを聞くと彼も慌ててハンドルを右へ切る。大型観光バスが滑って道から畑へ落ちた事故現場を通り過ぎると、益々僕達も事故に遭う可能性を実感した。しかし運良くそんなことにならなかった。
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 カマルは運転が上手だったが、ガイドとしての知識に欠けていた。止まるべき遺跡や景勝地をきちんと知っていたが、歴史に対する質問には答えられなかった。最初に止まった遺跡アナプリ(砦兼教会)でも、ロシア人とともにあちらこちらにあったロシア語の説明文を読んである程度の情報を得た。一方、記念写真用の馬に乗る時は快く撮影してくれた。
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 グルジア語を予め学習する暇がなかったので、挨拶程度しか言えなかった。しかしグルジア語で「ガマルジョバ (こんにちはの意味)と声を掛けたグルジア人は皆喜んでくれて、親切に話してくれた。帰り道の途中で遅い昼を食べた時、僕は早めに食事を終えて田舎のレストランの周辺を散策してみた。その際、俄雨に遭遇した。すると目の前の家の奥さんは、親切に自分の家で雨宿りをすることを許してくれた。かなり素朴な家で、居間兼寝室に四つのベッドが四つの壁に沿って並んでいた。そして部屋はこれで殆ど一杯だった。部屋を通って台所に行く時は、ベッドにぶつからないように気を付けなければならなかった。しかもこの家に夫婦と三人の子供が住んでいる。どの二人が同ベッドなのか聞き辛かった。
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 カスベギ山の横を通ったが、雲の中に隠れていた。一方ロシアとの国境まで行って、島国日本では絶対見られない光景を楽しんだ。国境に一番近い駐車場で、二台のお揃いのワゴン車が停まっていた。何の車だろうと横に書かれていたグルジア文字を必死に調べた。(国境までに辿り着く3時間、暇潰しにホテルのパソコンで印刷して貰ったグルジア語の文字表と道沿いに並んでいたグルジア語とローマ字で書いてあった標識を元に、グルジア語の文字を大体憶えてしまった。)  車には何々ポストと書いてあった。なるほど!この車はロシアからの郵便を受け取る為に来ているのだと推理した。確認の為、近くにいた二人の運転手に確認したがやはりそうだった。彼らは間もなく到着する予定のロシアからの郵便物を待っていた。当たり前だけれど、昔は僕が書いていた多くの手紙もこのように、ハンガリーとオーストリアなどの国境を越えていただろう。なぜかこの小さな発見に大きな喜びを感じた。
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グルジア1

(2017.11.01)

 今回の旅行の華は、コーカサスに臨むグルジア(ジョージア)とアゼルバイジャンへの初の旅だった。グルジアから始めよう。
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 この国旗を見てもすぐわかるように、グルジアはキリスト教の国である。しかも現存する国の中で、キリスト教を国教とする最も古い国の一つである。最も古い国と書いたけれど、ずっと国としてあり続けたわけではない。モンゴルやペルシャ、トルコなどのイスラム勢力に襲われ、占領されてきたとても悲しい歴史を持っている。だからかと思われるけれども、グルジアの教会の多くは山の頂きに建って砦になっている。イスラム勢力が衰退してからロシア帝国、後は旧ソ連邦の一部となった。ある程度の自治権は認められたものの、完全独立を得たのは四半世紀前である。
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 インターネットで首都トビリシの画像を検索して、たくさんの色鮮やかな可愛い建物を見て〔行ってみたい〕と思った。モスクワからの飛行機は超満員で、グルジアはやはりロシア人にとっても人気が高い観光スポットである。
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 トビリシはかなりの都会で、昔からグルジア人以外にアルメニア人やアゼルバイジャン人、ロシア人も大勢住んでいる。アゼルバイジャンとアルメニアの間には大きな領土問題があり仲が悪く、90年代の戦争はいつ再燃してもおかしくない。しかしグルジアは凄く穏やかで、両国と友好関係にある。これはグルジア政府観光局からの情報ではなく、トビリシ在住のアルメニア人とアゼルバイジャン人から直接聞いたことである。彼らと話ができたのは、40代以上の人々はロシア語を流暢に話せるからだ。
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 トビリシの旧市街地は、各国の観光客で夜遅くまで賑わっていた。街を一望できる山に行くロープウェイに乗る為に、長蛇の列があった。例えば、日本でも珍しいサウジアラビアの若い人達と会った。ヨーロッパ各国やアメリカからの観光客、そして中国人やイラン人もいた。日本人だけはどこにも見かけなかった!コーカサス三ヶ国のツアーがあるらしいけれど、日本からの個人旅行者は凄く少ないようだ。治安が良く、ビザも要らなくて物価も安いのに〜。
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 ロープウェイでトビリシを一望できる所に登って、暫くその美しい景色を楽しんだ。暗くなると教会や橋などがライドアップされるから、それを待っていた観光客もあちらこちらにたむろしていた。しかし僕はそれよりも、夕日に照らされている急斜面を飾る色鮮やかな家々を近くから観たいと思って、徒歩で下山した。
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 インターネットの写真で美しく見えたビル群は、近くから観察するとやはり違った!古くてボロボロの建物が多かった。震度5の地震で確実に崩壊するだろうと思った(この辺では地震が滅多に起こらないので、未だ立っているとも解釈できる)。確率から言うと、地震よりずっと危ないモノがあった。その話はまた次回〜。


 

ロシア1

(2017.10.16)

 またまたご無沙汰です。9月1日から2週間をロシアとグルジア、アゼルバイジャンで過ごした。その切っ掛けは、ロシア屈指の大学、MIPT(モスクワ物理・工業大学)に招待されたことである。この大学の最大の功績は、ロシアの核爆弾を開発したことだろう。その 後は、世界初の宇宙への旅も担ってきた所でもある。
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 学生の水準も高く素晴らしい教育機関だが、モスクワの中心から離れていてアクセスが悪い。だから今まで3回も招待を断っていた。やはり空港からタクシーで2時間もかかった。飛行機も1時間遅れ、また入国手続きも凄く遅かった。結局、大学の研究中央塔に辿り着いたのは夜の8時であった。
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 国にとってこれだけ重要な研究をやっている所なので、簡単には建物の中へ入れない。24時間門番がいる。その門番は、数学科の秘書の携帯に電話してくれた。近くに住んでいる彼女は15分でやって来て、僕を徒歩8分の教員寮まで案内してくれた。とても事務的で、愛想笑いも見せてくれなかった。勤務時間外で仕方がないかも。金曜日の夜の楽しい予定が邪魔されたのかもしれない。
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 しかし、遅く着いたのは僕のせいでもなかった。だから、近くの店や駅までの行き方を案内してもらいたかった。ところが彼女は部屋を開けて、鍵を渡してからそそくさと帰ってしまった!先程〔部屋〕と書いたが、1LDKのかなり広いアパートであった。一人にはもったいないと感じた。また料理をしない僕にはDKが要らない。それより、朝ご飯が食べられるレストランの方が嬉しい。
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 結局、月曜日の昼まで、僕を招待してくれた先生も姿を現してくれなかった。だから自腹を切ってでも、最初の3日間はモスクワの中心のホテルに泊まるべきだったと未だに後悔している。続く。


 

ルーマニア3

(2017.09.04)

 ブカレストのホテルに到着すると、荷物を部屋に入れてからすぐ出かけた。ヨーロッパの都市の中では歴史がかなり浅い。19世紀の半ばにルーマニアの首都になって、現存の建物は基本的にその後に建てられた。 ルーマニアの指導者たちは、常に遠い親戚であるフランスに憧れていた。これは東欧のパリとも言われてきたブカレストの広い並木街路と、そこに並んでいる石造りの建物を見ても感じていた。
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 ブカレストで何を観れば良いのかと全く知らなかった僕は、ブダペストの数学会議の際、参加していたたった一人のルーマニア人数学者に聞いた。彼は大学の周辺にある、路上にもテーブルを並べているレストランとバーが集まっている旧市街地を勧めてくれた。だから僕達もその辺りを散策した。
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 土曜日の夜だったので、人はどこでも多かった。観光客も少しいたが、アジア系の人は見当たらなかった。凄く気に入った建物は二軒あった。一軒目は本やレコード、文房具などが売っている現代風の建物だ。村上春樹さんの本もたくさん並んでいた。もちろんルーマニア語だよ!もう一軒は100年ほど前からある、最近修復された巨大ビアホール。メニューで食べてみたい品はいくつもあったが、凄く混んでいたし、騒音でとてもうるさかった。写真だけ撮った。
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 結局、ルーマニアで最も気に入った飲食物は、翌朝綺麗な公園内にあったカフェで飲んだホットレモネードだった。朝ご飯のサラダと一緒に紅茶の代わりに飲んだけれど、レモンの酸っぱさと砂糖の甘さのバランスが絶妙で僕の口にピッタリだった。また飲みたい!
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ルーマニア2

(2017.07.26)

 トランスシルバニア地方からルーマニア大平原にある首都ブカレストに行く為には、2500メートル級の山々が連なる南カルパート山脈を越えなければならない。これだけ高い山だと、人間にも動物にも隠れ易い。オスマントルコの大軍は、現在のハンガリーやルーマニアを制圧した16〜17世紀にも、カルパート山脈に守られた狭い部分だけは独立を保つことができた。その辺りには今なお、ハンガリー系住民が過半数を占めている幾つかの 市や村がある。
 何年か前に、ピシュティは家族とその辺りを旅した。朝早く何かが吠える音に目が覚めて、窓から外を見ると、熊の親子4頭がゴミを荒らしていた。それでも昼間にそこら辺の山を散策したのは、流石ピシュティである。まあ、安全対策としてみなで歌ったり、大声で喋ったりしたらしいが。
 Sibiuからブカレストへ向かうと、カルパート山脈を越える高速道路はない。オルト川に沿って、しばらく上り坂が続いている。スピードはあまり出せない分、景色を楽しめる。
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 左にオルト川、右にどんどん深まる森。ファガラス峠である。峠の頂点のところには、たくさんの出店がある。僕なら日本の木曽路の宿場街を連想してしまう。ピシュティの頭に峠道を上りながら浮かんできたのは、〔ミッチ〕と云う食べ物である。どこもかしこもそれを売っていた。ピシュティが食堂でゆっくり座って食べる間、僕は周辺を巡った。道の左側(谷側)に食堂、右側(山側)に採りたての果物を売っている売店が並んでいた。所々に、割と大きなホテルもあった。そして駐車スペースも殆ど埋まっていた。考えてみると、土曜日かつ晴れで観光地が賑わっている条件は満たされていた。
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 峠を下りて暫く走ると、ブカレスト行きの高速道路が始まった。途中で給油しても、午後4時頃にブカレストで予約したホテルに到着できた。やはり日本に比べて、高速道路を走る車の数が少ない。実は利用できる制度も違う!日本だと、毎回毎回乗った部分に応じて現金かETCカードで決済する。ルーマニアだと、〔定期券〕を購入しないといけない。高速道路沿いのガソリンスタンドには、どこも給油代金を支払う売店がある。そこで車の書類を提出して、利用する期間(最低で1週間)を申し出、一枚の紙切れを受け取る。その紙切れを提出することはどこにもない。車のデータはシステムに入って、所々のライセンスプレートの番号を読み取る機械が支払い済みかどうかと確認する。定期券は驚くほど安いが、違反金はかなり高いらしい。 しかも、請求書は隣のハンガリーまでも届くと、ピシュティが言った!
 ミッチは脂っこくて僕はパスしたが、給油所の売店で濃いチョコレート味のアイスクリームを食べた。かなり大きくて「カロリーが高いだろうな」と認識しながらも、やはり誘惑に負けた。続く。


 

ルーマニア1

(2017.07.21)

 ルーマニアで最初に泊まった街はSibiuで、とても美しい街である。中世はドイツ系職人と住民が多く、彼らが街を築いたと言っても過言ではない。2007年にヨーロッパ文化都市であったこともあり、EUから街の修復のためそれなりの金額が与えられたようだ。街を見れば無駄な投資ではなかったと思う。人口は17万人程度。歴史が800年を超えている。
 戦争が多かったヨーロッパの地方では珍しくなく、街の中心部分は周辺より少し高い所にある。この中心の丘の広さによって、街の大きさまで制限される。極端な場合、丘上の城だけである。Sibiuの場合は割と余裕があって、中心部分にも二つの大きな広場がある。実はそれらの名称は〔大広場〕と〔小広場〕である。僕らの宿は〔小広場〕にあって、それもかなり広くて、〔大広場〕の存在に気づいたのは翌日、朝食後の散歩の際である。建物を説明するよりも写真を載せよう!
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 両広場の接点に、(この街にしては)高い塔があった。ピシュティはパスしたが、僕はきちんと登った。ご褒美としてSibiuの街を上から望むことができた。
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 途中の階で、街の歴史に関する展示もあった。一番恐ろしい物、処刑台の写真も載せよう!どれだけ使われたのかは分からない。今はルーマニアもEU加盟国で処刑はなくなっている。ご安心下さい!
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 旅は東へとまだまだ続く〜


 

ハンガリー1

(2017.07.13)

先月はブダペストで先輩の70歳の誕生日を祝う国際会議があり、僕も招待されたので、去年に続いて再び生まれ故郷のハンガリーを訪れた。数学の国際会議は開催地とほぼ関係なく朝から夕方までいろんな講演が続くものなので、門外漢の皆さんから見てつまらないに違いない!
はっきり言って、僕も会議よりも会議が終了してからの日々を楽しみにしていた。一番の親友ピシュティと、ルーマニアを丸々一週間旅するのを計画したからだ。会議の最終日の金曜日、午前の分が終わったところで数学者仲間にさよならを言い、地下鉄でピシュティの家の近くの集合場所へ向かった。そこを出発したのは午後2時。ハンガリーは日本より狭い国で、首都ブダペストから高速道路を2時間走ればもうルーマニアの国境に着く。
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日本に住んでいると、国境を車で渡ることがない。もっとも、ルーマニアとハンガリーは共にEUに所属しているので、パスポートの顔写真を見る程度でチェックが済んだ。高校時代の親友ピシュティの車だったので、国境で彼に運転席を譲った。
ルーマニアに入っても、日本では想像できないほど起伏がないハンガリー大平原が続く。実はこの部分は第一次世界大戦まではハンガリーの領土だった。天気が一変して、風が強まり空は黒い雲に覆われ、大粒の雹が降り出した。車の屋根に落ちる音が強く、ピシュティは傷つけられるのではないかと心配していた。周りがよく見えない状況で、車の流れがほぼ停止した。
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道では至る所に、不思議な形をした長さが1メートルで横幅10センチ余りの緑色のプラスチックの板が散乱していた。これらを巧く避けながらゆっくり進んでいくと、やっとこれらの由来が解った!高速道路は片側2車線で、両方面は低い鉄製の塀で分かれていた。
向こう方面の車のライトに邪魔されないよう、この塀の上に例の板が30センチ間隔で設置されていた。そして突風で一部は外れて飛ばされてしまったのだ!!状況から判断して、それからはまだ30分も経っていなかった。
雹は止まったが、車の流れはどちらかと言うと更に遅くなった。そしてその原因も判った。なんと片車線をピッタリ覆う形で、大きなコンテナトラックが横転していたのだ!幸いなことに運転手は怪我も無く、悲しそうに割れたフロントガラスを眺めていた。もう少し短い横転トラックの横を通ってから、車の流れは次第に早くなった。
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僕たちは運が良かった。早めにこの辺りに着けば危なかった(実際、道沿いに故障やパンクして停まっている乗用車をたくさん見た)。またもう少し後なら、警察が到着して道を通行止めにしただろう!
ガソリンスタンドがあるパーキングエリアに入って、給油とともに車の屋根も調べたが傷はなかった。続く。


 

フランス大統領選

(2017.06.01)

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 先日行われたフランス大統領選挙について毎日新聞の取材を受けた。写真入りの記事を御覧になった方々もいるだろうが、もう少し詳しくピーターの見解を紹介しよう。
 1.フランスの選挙制度の良さ。大統領選もそうだけれど、日本の衆議院に当たる議会選挙も一回選で、過半数に届く候補がいなければ決戦投票が行われる。これにどんな利点があるのか?第一に、決戦で過半数に達した候補が当選するので、投票した人の半分以上にとっては自分が選んだ人の勝利になり、納得。今回の大統領選挙で最終的に当選したマクロン氏は、一回戦で23パーセントに留まった。その時点で〔当選〕になったら(棄権を含む)有権者の8割以上にとって不本意の結果であった。第二に、この制度下でフランス人は一回戦は心、二回戦は頭に従って投票するらしい!理想的選挙制度について200年以上前からかなりの数の本や論文は発表され、最近は心理学の観点からも研究が進んだ。そこで言えるのは、日本の小選挙区のように、一回だけの投票だと本音が現れ難い。心で支持する人より当選する確率が高い人に一票を投じる傾向があるからだ。
 2.世界のマスコミの共通点は、センセーショナルニュースを伝えたいことである。例えば、史上最年少の大統領やフランス初女性大統領など。しかし一般のフランス人にとって、こんなことはどうでもよい。奥さんはマクロン氏より年上か年下か関係ない!フランスの経済はどうなるのかが最大の焦点になる。日本などのマスコミに「EU離脱か否か」と書いてあった。しかしルペン候補もEU離脱を掲げたのではない!ユーロからの離脱を模索していた。EUに関しては、イギリス人とフランス人の考え方は大きく違う。欧州の大国の中で、EUの更なる統合を目指してきたのはドイツとフランスであり、それを妨げたのはイギリスである。おそらく、イギリス抜きならベルリンの壁崩壊前に西ヨーロッパ合衆国のような組織が出来上がったのだろう。毎日新聞の記事にも書いてある通り、EUの最大の問題は統合や統治が中途半端であること。それぞれの国とEU全体の行政組織は混合している。今や国の数も増え、経済のレベルも様々で、ルールを変えない限り問題解決能力は極めて低い。それでも第一次、第二次世界大戦の主要舞台になっていたフランスの人々にとって、昔の敵、ドイツ人との友好関係は非常に貴重なものである。(余談になるけれど、イギリスがイラク戦争を支持した時も、フランスとドイツは手を結んで反対していた。)だからフランスはEU離脱を望んでいない。
 因みに、皆さんはマクロン氏の内閣の顔ぶれを御覧になった?名前を見ても知らない人ばかりだろう!しかし一つだけ言えるのは、22人の大臣中に男性も女性も丁度11名。これに拍手を贈りだい〜



 

エクアドル

(2017.04.06)

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 南米の小国、人口1600万人余りのエクアドル。その大統領選挙のニュースが、意外にも世界中のマスコミで取り上げられている。その最大の理由は、ウィキリークスのアサンジ氏が在英エクアドル大使館でアメリカから身を隠していることだろう。ここでは政治的な話を控えて、一般の日本人にとって馴染みが薄いエクアドルについて、自分の想い出を含めて紹介したい。
 国名は赤道を意味している。その通り、国土は赤道を挟んでいる。僕も赤道記念館を訪問して、子供のように何回も赤道の上を超えて遊んだ。 赤道というと凄く暑いイメージがある。しかし首都のキトは海抜2800メートル位でとても過ごし易い。夜は涼しくてセーターを着たくなる。
  そしてすぐ側にコトパクシという標高5,897メートルの山がある。晴れた日は街からもよく見える美しい雪山である。富士山よりもずっと高いこの山の話を後にしよう。なにしろキトの市街地の海抜も街として凄い。これをサッカーを通じて説明したい!
  南米の強豪といえばブラジル、アルゼンチンや、ワールドカップで二回優勝した経験があるウルグアイだろう。しかしエクアドルではナショナルチームになかなか勝てないのだ。その原因は海抜である。海抜が0に近いブエノスアイレスからキトに飛んで来ると、高山病にならなかったとしても動きは酸欠で鈍くなる。一週間程現地で過ごせば大丈夫だが、サッカー選手は国内外のリーグ戦で忙しくそんな暇がない。だから、そこそこ上手いエクアドルのチームに負けても不思議ではない。
  因みにコトパクシ登山に挑戦したのは、キトで7日間毎日大道芸をやってからである。そもそも南米で登山すると想定していなかったので、いつものウォーキングシューズを履くしかなかった。タクシーに乗って車で行ける限りの所まで登った。4200メートルから登山開始。真上から注ぐ太陽の下でもやはり寒い。早く歩けば身体がすぐ温まるが、酸欠で普通歩きもやっと。しかも登れば登る程、空気は薄くなる。海抜4800メートルにある山小屋は見えるのに、なかなか近づけない。周りに世界中からの登山家がいるけれど、声を掛ける余力はない。
  山小屋は結構広く、廊下やいくつかの部屋の壁際に数十人が寝袋で寝ていた。大きな四角いテーブルの周りのベンチには、ぎっしり人が座っていた。そしてリュックからテーブルに出した持参の食べ物をゆっくり食べていた。席が空くのを待ってから、僕も市内で購入したフランスパンとシチューの缶詰めを食べ始めた。疲れを取る為に、やはり一口一口を味わいながら時間を掛けて頂いた。もう少し休みたい気持ちはあったが、席が空くのを待っている人がいたので、パンの最後のひとかけらを口に入れると共に立ち上がった。ゴミを平気で捨てる人が多いせいなのか、富士山と違って外に大きなくず入れがあった。ゴミをそこへ捨てて登山を再開した。
火山灰でできたフワフワした登山道であった。ジグザグでゆっくり登る道ではあったが、進むのはスローモーションのようだった。息苦しいと直接感じないのに、より早くは動けない。本当に不思議な気持ちだった。周りの人も皆そうだった。頻繁に足を止めて写真を撮ったり、振り返って山麓にあるキトの街を眺めたり、一時間が経ってやっと雪の境界線である5000メートルを超えた。リュックを下ろして中から5つの柔らかいボールを出した。何回か落としたが、結局ある程度安定してジャグリングができた。しかも記念写真も撮ってもらった。
 もうちょっと頑張ったが、靴はどんどん滑るようになった。軽装備で頂点まで登るのは無理だと最初から分かっていたので、暫く立ち止まって美しい景色を味わった。そして下山を始めたが、驚く程に楽だった。小走りするように、たちまちタクシー乗り場に到着した。
 この登山のお蔭で、エクアドルの次に訪れたボリビアとペルーも高山病に苦しむこともなく満喫できた。やはりエクアドルが好き。機会があればこの国の最大の名所、ガラパゴス島も行ってみたい〜。



 

韓国

(2017.03.13)

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 先週の金曜日、待ちに待ったニュースが報じられた。朴槿恵大統領の罷免である。人の不幸を喜ぶのは美しいことではない。僕も決して朴槿恵さん個人に対して恨みがある訳ではない。そもそも韓国のニュースに深い関心はなかったが、去年の11月から何回かテレビ朝日のワイドショー『ワイドスクランブル』に出演して、コメントを求められた。
 政治的自由がなかったハンガリーに育った僕は、言論の自由がある民主主義国家に憧れていた。(日本に住んでいる大きな理由の一つでもある。)だから自国の大統領について様々な疑惑が浮き彫りになったことを切っ掛けに、その事件の追求、後に弾劾を平和的に求め続けてきた市民に親近感を覚えた。 せっかくの土曜日の夜にテレビや映画を観ず、友達や恋人とレストランやバーに行かず、同様な意見を抱えている仲間と国の為に蝋燭を灯して合法的にデモをやっていた老若男女を、自然に応援するようになった。
 ネットと新聞で崔順実の人物像を調べてから、僕の気持ちも更に強まった。最終的に憲法裁判所も、崔順実被告を私的顧問として扱ったことを罷免の理由として認めた。度重なる報道によって、事件の詳細は日本の皆さんもよくご存じだろう。それを解説しても仕方がない。
 僕が嬉しいのは、国民の八割は〔支持せず〕に回った大統領を、任期の途中で平和的に引退させることができたことである。このニュースを通じて、民主主義は未だ健在だと喜んでいる。逆にフランス人として、オランド大統領のように支持率がずっと一桁でも任期を全うする者の存在は恥ずかしい!
 来月や再来月、フランスと韓国で大統領選挙が行われる。国民の信頼を裏切らない、自国の繁栄と世界の平和に貢献する器が大きい人物が選出されることを願う。



 

関孝和

(2017.02.23)

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 かなり前からダイエット代わりにウォーキングをしている。最近、単純な事実に気づいた。直径は半径の2倍であることだ。つまり2時間かけて12キロを歩いても、家から出発して家に戻って来るならば、網羅できる範囲は家を中心にした半径6キロの円からはみ出ない!そこで行動範囲を広げる為に、行きか帰りは電車に乗ることにした。これでウォーキングはとても愉しくなった。渋谷から池袋や東京駅まで行くこともある。
先週の土曜日は外苑東通りを終点まで歩くことにした。そして新宿区牛込辺りで、『関孝和の墓』という看板に気づいた。そこの寺に入ったら、奥の方で写真の墓石を見つけた。同じ数学者として関孝和の名前を知っていたが、彼の墓が都心にあるとは想像もしなかった。
 講演の際に何回も「関孝和のことはご存知?」や「関孝和の功績はどう思う?」などの質問を受けた。かなり答えに困っていた。日本人の皆さんにとって和算の神様や江戸時代の天才として有名な関孝和だが、日本に来る前にその名前を聞いたこともなかった! 1700年前後に活躍した西洋の大数学者、ニュートンやライプニッツは日本を含む全世界で知名度が高いのに、欧米では関孝和の名前を知っている人がなぜほとんどいないのか?
 一言で言えば、その原因は鎖国である。鎖国にも良い面があったが、学術的研究にとっては悪影響の方が大きい!
 数学者としても物理学者としても偉大な功績を遺したニュートンは、「巨人であった先輩達に肩車してもらったから、他人に見えないものも観察できた」と言っている。数学は高層ビルのような構造で、各世代は先輩達の功績を伝って階上に登り、そこへ新たな階を建てるのだ。英国にいたニュートンの元には、エジプトやギリシャ、インドやペルシャ、アラブと中世ヨーロッパの学術的知識や知恵が集まっていた。
関孝和も同じ状況下ならばニュートンと並ぶこともできたかもしれない。しかし江戸には中国から渡った算木があっても、インドの数学者が発明した十進法さえなかった。いくら一騎当千でも数学の全てを発見できない。言ってみればこれは天才的数学者、関孝和の悲劇である。



 

釣りビジョン

(2017.01.26)

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ちょっと遅いけれど、明けましておめでとうございます。
 年末にBS 釣り専門チャンネル、釣りビジョンでピーターを紹介する番組「Fishing Cafe」が放映された。実はその撮影は、数回に渡って去年の夏に行われた。釣りと共に人物紹介にもかなりの時間を割いている、釣りビジョンとして特別な番組で、年に4回しかない。だから12月の放映になった。
 この番組は僕にとって、松山での釣り友達をテレビで紹介できる凄く嬉しいチャンスであった。彼らがいるから、とても下手な僕も立派な魚を釣れるようになった!因みに今回の写真は、彼らと一緒に船に乗って、12月下旬に松山沖で釣った時のもの。95センチの鰤で、自分にとって素晴らしい記録だ!
 収録の際は真鯛を狙っていた。全く釣れなくて、坊主(一匹も釣れないこと)になれば凄く恥ずかしいし、番組としても大変だと思ってかなり緊張していた。しかし当日は釣り運が良かった!船長のアドバイスをよく聞いてその通りにやったら、すぐさま真鯛を釣り上げた。それで自信が付いたこともあって、バラす(針にかかった魚を釣り上げる途中で取り逃がす)ことも無く、どんどん釣り続けることができた。10枚目の真鯛を釣り上げた時、テレビのスタッフも「これで撮影はもう十二分だ」と、残り時間は彼らも少し釣りを楽しんだ。
 当日の釣りの状況や使っていた道具などについて詳しく紹介してもよいけれども、このHPを読んでくれる方々の大半は釣りにあまり関心がないかな。
 僕としては、今年もほぼ毎月、松山の友達と共に瀬戸内海の美しい景色を眺めながら、真鯛やハマチ、太刀魚や烏賊などをたくさん釣りたいと思っている。大物を抱えている笑顔の写真を、できたら再びHPに載せるぞ!
 因みに一月は寒くて未だ釣りに行ってない。



 

ワイドスクランブル

(2016.11.22)

 先日テレビ朝日の番組『ワイドスクランブル』に生出演した。ネットで常日頃ニュースを注意して見ているけれど、主に外国の新聞のページである。出演の準備として、久々に日本の新聞をゆっくり読んだ。やはり新聞って良いな、と新たに感じた! クリックするのではなく手でページを捲って気持ちが良い。ネットではよく記事の一部を読んだら「残りを3ユーロで購入しますか?」などと表示される。そうではない場合も途中で興味が全くない広告が現れたりする。広告はもちろん新聞にもあるが記事の途中ではない。だから記事を一気に集中して読むことができる。
 とは言え日本の新聞に載っている外国のニュースは限られている。どうしても日本との関係が深いアメリカや韓国や中国が中心になり、ヨーロッパの現状を伝える記事が少ない。
例えば、来春行われるフランスの大統領選挙。トランプ効果は極右政党・国民戦線の勝利に繋がるのか?番組でジャーナリストの池上彰さんはこれを取り上げた。
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 フランス国籍をもったピーターにとっては少し唐突に聞こえた。なぜかと言うとフランスはまだ前大統領、サルコジが作った共和党の予備選挙で盛り上がっている。番組の前夜に第一ラウンドの投票が行われ、当のサルコジは3位で決戦投票に進めなかった。
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 実際この予備選挙でもトランプ効果が現れた!トップに躍り出たフィヨン候補はトランプのスローガン「Make America great again」を下に「10年間でフランスをヨーロッパで一番の国にする」と訴えて投票者の人気を集めた。トランプの大衆迎合主義に似ていて、実態認識に欠けている。
 皆さんご存知のように、ヨーロッパ一の経済大国はドイツである。それを代表する車メーカーVolkswagenは遂にトヨタを抜いて、販売台数で世界一になった。そのドイツをフランスが超えることなんて無理だろう!
 正に大衆迎合主義である。理性ではなく大衆の感情に訴えている。サッカーのヨーロッパ選手権でドイツに(たまたま!)勝ったなら経済でもできる、のレベルの主張だが、ナポレオン以降は戦争で自力でドイツに一度も勝てなかったフランス。国民の心底にドイツに勝ちたい気持ちが潜んでいる。非現実的とわかりながらこの感情に訴えるのは、無責任で大衆迎合主義である。だから国民戦線のルペン党首ではなく、フィヨン氏が大統領になってもトランプ効果と言えるだろう。
 時間の制限がありテレビではしっかり説明できなかったのが悔しいけれど、番組の出演者とスタッフと過ごした時間は凄く楽しかった!



 

アメリカ大統領選

(2016.11.11)

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 昨夜(11/8)寝る前に、BBCのホームページでクリントン候補がリードしていて当選の確率は85%以上だと読んだ。なるほど、アメリカ人はオバマ政権の延長、現状維持を選ぶと思った。ところが数学の論文の直しを終えてNHKラジオの昼のニュースを点けると、トランプ候補の優勢は伝えられた。そして先程(11/9夕)、トランプ氏の当選確定が報じられた。
 先ず思ったのは、これで各種世論調査への信頼が揺らぐだろうということ。確率・統計は立派な学問だけれど、人間という生き物は複雑で扱い難い!日本語の美しい言葉に〔思いやり〕がある。相手に質問された時、多少自分の意見を曲げても完全な対立を避けたい奥ゆかしさに繋がる。 日本人より弱いにはせよ、たいていの欧米人にもそんな傾向がある。その気持ちの世論調査への影響を考えてみよう。
 投票の結果が事前の世論調査と大きく違ったBrexitとアメリカの大統領選挙、その2つには大きな共通点がある。日本を含む先進国の大手マスコミは、どちらの際も安定つまり現状維持を支持していた。過激な発言や不安要素が多いトランプ氏の場合、共和党の予備選挙以降マイナス評価が続いていた。
 そのマスコミから「どちらの候補を支持する?」と聞かれる時、「トランプだ」とは答え難い。おそらくトランプ氏を支持していた多くの有権者は「まだ決めていない」などと返事したと思われる。このような人が一割いれば、予備選挙の結果は大きく変わる!例えば、クリントンとトランプの両候補を50%が支持したとしよう。クリントン候補の支持者たちは堂々とそれを言えた。しかしトランプ候補を支持した人の一割が統計から消えて、50対45とヒラリー氏リードになる。
 こう考えると、選挙結果と事前世論調査の間の矛盾は解消される。やはり結果が信頼できる世論調査のために、完全中立な報道か人間の精神的様子も計算式に織り込む調査方法が必要である。何れもかなり難しい!




 

熊本

(2016.11.01)

 先月は福岡県久留米市で講演会があった。翌日は仕事がなかったので、ちょっと足を延ばして熊本地震の復興状況を自分の目で確認した。
 以前は熊本に行けば市の最大の商店街、上通りと下通りで大道芸を披露した。地元の人々のノリが良くて毎回楽しかったが、今回はそんな気にならなかった。帽子で金を集めるよりは自分から寄付したい気持ちの方が強かった。
 駅からホテルまでのタクシーからも熊本市の中心部に全壊や半壊の建物を見たし、また加藤清正が建てた熊本城の悲惨な状況も確認した。激しい揺れで落下した城壁の石々が、あちらこちらの広場に並べられていた。城壁前の様々な写真を下に各石に番号がふってあった。それを手助けに復元する予定だが、その作業は資格を持った人にしか許されていないので30年も掛かる予定だ!!しかも費用も凄い!  史跡だとわかるけれども、規制を緩めてボランティアの人々に作業を手伝ってもらった方が良いのではないかと思った。30年後なら、僕は両親とも一人でも観光したあの素晴らしいお城の完成した姿を目にすることがないだろう。
 泊まったホテルは築30年で、外壁はほぼ無傷だったが激しい横揺れで中はボロボロになった。一部の部屋を修理して8月に営業再開したが、残りの部分の復元はまだ進行中である。
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 大変な状況の下でも熊本の人々の表情は明るかった。その精神を支えるモノの一つは『くまモン』である。日本中のゆるキャラで最も成功したくまモンの様々なバリエーションを、至る所で見かけた。申請さえすれば誰でも無料で使えるらしい。だからくまモンの姿が見えない商品は珍しいほどだ。あの可愛い姿は熊本の最大のPR大使になっている。
 翌朝、益城町に行くバスの中でも様々な広告のどこかにくまモンがいた。揺れが特に激しかった広崎に降りた。淋しい小雨が降る中どんどん悲しくなりながら、その界隈を歩き回った。
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 半年経った今でも倒壊したままの建物や、「危険」という貼り紙が付いているにも拘わらず中で細々生活を営んでいる人達、考えさせられるものはたくさんあった。倒壊した家と被害が少なかった家の最大の違いは築年数だと感じた。単純に推理すると、古い家に住んでいるのはお年寄りと貧しい人達である。比較的安全と言われた熊本なので、大半は地震保険も掛けていない。この人達にとって自力再建は無理に近いだろう。
 だから、東京オリンピック後は負の遺産になりそうな競技場を建てるより、政府にはもっと災害に遭った人達の支援の為にお金を使って欲しい!




 

Grenoble

(2016.10.25)

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 5月に行ったヨーロッパの旅で全く触れなかったのはGrenobleでの滞在である。フランス国籍を所有しながら、フランスに行ったのはなんと5年振りである!5年も十分長い期間であるが、Grenobleを訪れたのは丁度40年振りであった! 先ず今回は1976年の春の旅について述べよう。
 当時は未だ大学生で国費留学生として7ヶ月間パリ大学で過ごした。『国費留学生』、響きは良いけれど待遇はとても悪かった。可愛がってくれた何人かの先生の誰かに招待されなければ、レストランで食事することはなかった。学生寮の家賃を引くと、1ヶ月の奨学金は当時の為替レートで5万円までいかなかった。
 一方、学生とはいえ既に何遍かの論文をアメリカの雑誌で発表していて、滞在中にフランスでいくつかの大学から招待され講演をした。講演料は僅かだったが、旅費を無駄にせずついでにフランス各地を観光した。  Grenobleに発つ前に、同じ寮に住んでいた僕の懐状況をよく知っていたアメリカ人ジャーナリストに「Grenobleに滞在中のインド人同僚がいるけれど。ピーターを泊めてくれるかどうか、彼に聞いてみようか?」と提案された。
 講演終了後、大学のすぐ側にあるGrenoble駅でそのインド人に会い彼のアパートに行った。1DKの狭いアパートで奥さんと4ヶ月の赤ちゃんが待っていた。食事をしながらアパートを見渡したが、ダブルベッド一台と赤ちゃん用の小さなマットレスしかなかった。 夕飯が終わってから駅に戻って安い宿を探すしかないと思った。
 しかし食後のチャイを飲みながら「そろそろ失礼する」と言い出したら、インド人は凄く驚いて「ここに泊まって大丈夫」と。美味しい料理をご馳走になって彼らを傷つけさせたくなかった反面、どこに寝るのだろうと多少の不安があった。
結局、赤ちゃんはマットレスに寝て、残りの三人は旦那さんを真ん中に決して広くないベッドで夜を過ごした。のちのちインドで3ヶ月間滞在したがその時、お客さんを家族の一員として、自分たちと全く同様に扱うのはインド流のおもてなしだとわかった。
 翌日は朝ご飯を済ましてからヒッチハイクでニース(Nice)へ向かった〜




 

両親

(2016.10.18)

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 先月、日本経済新聞夕刊の「それでも親子」という欄の取材依頼があり、両親との思い出を色々語った。記事は9月末に掲載された。僕は今でも両親への強い感謝の気持ちでいっぱいだが、今日(10月18日)の両親の結婚記念日にちなんで、若い親に少しでも参考にしてほしいことを紹介したい。
 医者としてたくさんの人と深く接してきた二人から教わったのは、この世で最も素晴らしいもの、また一番恐ろしいものは、人間だということ。二人とも皮膚科医で、患者の病を根治するためには原因になった生活環境を調べる必要があると考えていた。特に、入院患者担当の父は彼らとたくさん話をして、ジグソーパズルのように患者と病の全体図を組み立てようとした。
 皮膚科の患者は包帯を変えるなどの処置をしていれば元気そうな人が多かったので、父はよくそんな患者を家に連れて帰ってきた。母が作った料理を患者一人を交えて食べるのも珍しくなかった。食事の際、父は患者が自分の家族や仕事についてたくさん語れるようにどんどん質問した。農家や猟師、運転手や工員など、様々な職業の人たちの人生と考え方からいろいろ学ぶことができた。
 ヒトラーが首相になった年に小学校に入った母は、ユダヤ人として日々苛められたそうだ。高1の時、家族とともにアウシュヴィッツに搬送され、彼女だけが生還した。働きながら復学し医学の道へ進んだ母は、自分の経験を晩年まで語ってくれなかった。十八歳年上の父が強制収容所で九死に一生を得たのは、医者として必要とされ、陽気で周囲と良い人間関係を築いたからだそうだ。
 夏中の週末を過ごした別荘で、母は料理や庭の手入れなど随時家族のために尽くしていた。父は僕を連れて知り合いめぐり。どこでも歓迎され、ベランダに座りながら話に花を咲かせた。次の場所まで歩く間は、その家族の詳細を僕に紹介してくれた。
 戦争の教訓として、真の財産は頭と心にあると親は信じていた。だから日本の言葉と文化をよく学び、地元の人々と温かい人間関係を築きなさいと言われた。大勢の日本人に優しくされて、またユダヤ人として差別を受けたこともない。アメリカやフランスではなく日本を選んだのは正解だった。
 それでも日本人が家族ぐるみの付き合いをしないことを残念に思う。片付いていないことを言い訳に他人を家に呼ばない。同僚や友達と外で食事を済ませて一人で帰る。これでは核家族が主流の今日、子ども達が親と先生以外の大人と触れ合う機会は滅多にない。親の言うことを聞いてくれない子供でも他の大人の話に素直に耳を貸すことはよくあるのにもったいない。




 

秋田県鹿角市

(2016.09.26)

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 先週は秋田県鹿角市まで講演に行った。二年前に秋田市で講演した際、レンタカーで男鹿半島まで足を延ばしてとても楽しい船釣りができた。今回もそうしようと凄く楽しみにしたところ、前線や台風の影響で釣りを諦めざるを得なかった。
 主催者に盛岡駅まで迎えに来てくれることを頼んでみたら、快く応じてくれた。新幹線の改札口を出ると、70前の男性が元気良く出迎えてくれた。通路を通ってエレベーターを降りて駐車場に入ると、そこに待っていたのはかなり古いスバルであった。僕の鞄をトランクに収めることができたので、それで特に問題がなかった。しかし運転席に座っていたのは背骨がかなり曲がったよぼよぼのおじいさんであることに驚いた。
駐車券を出口の機械に入れることもできなかったので、助手席に座った僕は券を取って車から降りて券と代金の100円を機械に投入した。 おじいさんは道もよくわからなく、後ろ座席からの指示がなければすぐ迷子になりそうだった。
 「何歳ですか」と訊いてみたら、「81」と答えてくれた。トランクに荷物を入れた時に高齢者マークが貼ってあると気付いたけれど、運転するのは改札口で出迎えた男性だと思っていた。東北道の入り口にも気が付かず、僕が「ここは左じゃない」と教えると、慌てて車線を変更した。後ろの車はいらいらしながらクラクションを鳴らしたが、どんどん減速しながら高速の入口に向かった。ETCカードがなかったのは言うまでもない。しかも通行券の発給機械から1メートル以上離れて止まったので、またもや僕が降りてボタンを押して券を受け取った。
 ところが一旦高速に乗ると、速度をだんだん上げて最大で110キロまで出した!はっきり言って少し怖かった。反射神経が弱っている人が出すべきスピードではなかろう。 後ろに座っていた主催者は何も言わなかったので、僕も口出しをしなかった。
ちょっと計算してみたら運転手さんは終戦時に10歳、つまり小学生。そこで彼に当時の食料事情を話してもらった。秋田こまちで有名な地帯なのに、当時は米がなかったようだ。「野菜ばかり食べさせられた」、「南瓜の食べ過ぎで顔が黄色くなった」などと話してくれた。蝗(いなご)の佃煮もよく食べたらしい。「それは甘くて美味しい」と相槌を打った。
 あれこれ話をするうちに、高速の鹿角・八幡平出口に到着した。会場になっていたホテルの道にも上手く入れなかったので、国道でちょっとバックする羽目になった。荷物を下ろした時、無事でよかったとホッとした!!!
 翌朝の見送りを頼まず、バスで盛岡駅に向かった。写真はバス券売り場で、名前が池袋になっていることに驚いた!




 

富士山2

(2016.09.20)

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 日本に長く住んできた僕は、富士山に登るなら山頂から御来光を見るのが一番大切だと当然のように思った。ところが外国人の友達は違う!山小屋での夕食の際、アリアに「明日は起床が1時半と言ったら、「それは無理、1時半に起きることを想像するだけで精神的な苦痛だと返ってきた。ヤノシュは「ギリギリで起きて、日の出を八号目から見てから登るぞと宣言して、早く寝袋に入り込んだ。汗でびしょ濡れになったポロシャツやズボンを干しながら、「まあ、明日は別々で行動すれば良い」と諦めて、ヤノシュとアンドレイの間の狭い場所へ入った。時間が早くて全然眠くなかった。お互いに色んな笑い話を語ったりして、時間を潰して眠気到来を待っていた。
 目覚まし時計を1時半に設定したが、もっと早く起きる人が大勢いた。彼等のガシャガシャする音でやはり目覚めて、カロリー源として持っていたチョコレートビスケットをゆっくり食べていた。ビスケットが底を突いたので、仕方なく起きて支度を始めた。そして予定通り1時45分に頭のライトをONにして出発した。外は真っ暗だったが、星空はとても綺麗に見えていた。九号目辺りで休憩していた時は、流れ星もはっきり見えた。頂上の方を見上げると、たくさんの蛍のように登って行く人々のライトが暗闇の中をゆっくり動いていた。神秘的な雰囲気!
 九号目辺りから風はどんどん強くなった。空気が薄くなったとは全然感じなかったが、寒かった。濡れたポロシャツはリュックに積んで、ヒートテックの長袖のTシャツを重ね着して、その上に合羽を着ただけだった。
 だから頂上まで後30分と言われた所で時間調整をした。することがなかったので、警備員とあれこれ話をした。今日は頂上で風が秒速15メートルで危ないとか、この夏落石で怪我した人は数人いるとか、風で火山灰が飛んでいるのでマスクをした方が良いなどと言われた。確かにヘルメットにマスクをしていた登山客も少なくなかった。マスクは売ってなかったので、寒さ対策として軍手を買って山頂を目指して登り始めた。
 最後の30分は一番きつかった。道幅が狭く人の密度が高く、思う通り前へ進めなかったからだ。しかしこれでも御来光に十分間に合った。 雲も火山灰もあり太平洋など下の景色は見えなかったが、太陽光が次第に差してくるのを見て感動した。
 日焼けを避けたい僕は頂上周辺を少し散策しただけで、6時に下山を始めた。火山灰で柔らかい下山道をゆっくり走りながら下りると早い且つ楽と感じたが、暫くしたら靴でしっかり固定されていない足の指が痛くなった。紐をいくら縛っても変わらない。そこで前日の靴下を重ね履きにして、無理矢理登山靴を履くことにした。痛さはあまり和らがなかったが、我慢するしかなかった。
 結局8時過ぎに五合目のバス停に着いた。同じバス停を2時間後に通過したアンドレイとアリアも、頂上からの御来光を見たらしい!他人の音で自然に目が覚めた二人は、2時過ぎに山小屋を出てあまり休憩しなかった。山頂でたくさんの写真を撮りながらうどんも食べた。ヤノシュがバス停に着いたのは午後3時で、かなり遅かった。家に着いたのは午後7時過ぎで、かなり疲れていた。軽い高山病か頂上で吐いたらしい!
 しかし最も綺麗な日の出を見たのは彼である!八号目は雲一つ無く、千葉の向こうから太陽が昇ってきた。 四半世紀前から抱えていた富士山に登る夢を叶えた彼は、凄く嬉しい表情だった!
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