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韓国

(2017.03.13)

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 先週の金曜日、待ちに待ったニュースが報じられた。朴槿恵大統領の罷免である。人の不幸を喜ぶのは美しいことではない。僕も決して朴槿恵さん個人に対して恨みがある訳ではない。そもそも韓国のニュースに深い関心はなかったが、去年の11月から何回かテレビ朝日のワイドショー『ワイドスクランブル』に出演して、コメントを求められた。
 政治的自由がなかったハンガリーに育った僕は、言論の自由がある民主主義国家に憧れていた。(日本に住んでいる大きな理由の一つでもある。)だから自国の大統領について様々な疑惑が浮き彫りになったことを切っ掛けに、その事件の追求、後に弾劾を平和的に求め続けてきた市民に親近感を覚えた。 せっかくの土曜日の夜にテレビや映画を観ず、友達や恋人とレストランやバーに行かず、同様な意見を抱えている仲間と国の為に蝋燭を灯して合法的にデモをやっていた老若男女を、自然に応援するようになった。
 ネットと新聞で崔順実の人物像を調べてから、僕の気持ちも更に強まった。最終的に憲法裁判所も、崔順実被告を私的顧問として扱ったことを罷免の理由として認めた。度重なる報道によって、事件の詳細は日本の皆さんもよくご存じだろう。それを解説しても仕方がない。
 僕が嬉しいのは、国民の八割は〔支持せず〕に回った大統領を、任期の途中で平和的に引退させることができたことである。このニュースを通じて、民主主義は未だ健在だと喜んでいる。逆にフランス人として、オランド大統領のように支持率がずっと一桁でも任期を全うする者の存在は恥ずかしい!
 来月や再来月、フランスと韓国で大統領選挙が行われる。国民の信頼を裏切らない、自国の繁栄と世界の平和に貢献する器が大きい人物が選出されることを願う。



 

関孝和

(2017.02.23)

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 かなり前からダイエット代わりにウォーキングをしている。最近、単純な事実に気づいた。直径は半径の2倍であることだ。つまり2時間かけて12キロを歩いても、家から出発して家に戻って来るならば、網羅できる範囲は家を中心にした半径6キロの円からはみ出ない!そこで行動範囲を広げる為に、行きか帰りは電車に乗ることにした。これでウォーキングはとても愉しくなった。渋谷から池袋や東京駅まで行くこともある。
先週の土曜日は外苑東通りを終点まで歩くことにした。そして新宿区牛込辺りで、『関孝和の墓』という看板に気づいた。そこの寺に入ったら、奥の方で写真の墓石を見つけた。同じ数学者として関孝和の名前を知っていたが、彼の墓が都心にあるとは想像もしなかった。
 講演の際に何回も「関孝和のことはご存知?」や「関孝和の功績はどう思う?」などの質問を受けた。かなり答えに困っていた。日本人の皆さんにとって和算の神様や江戸時代の天才として有名な関孝和だが、日本に来る前にその名前を聞いたこともなかった! 1700年前後に活躍した西洋の大数学者、ニュートンやライプニッツは日本を含む全世界で知名度が高いのに、欧米では関孝和の名前を知っている人がなぜほとんどいないのか?
 一言で言えば、その原因は鎖国である。鎖国にも良い面があったが、学術的研究にとっては悪影響の方が大きい!
 数学者としても物理学者としても偉大な功績を遺したニュートンは、「巨人であった先輩達に肩車してもらったから、他人に見えないものも観察できた」と言っている。数学は高層ビルのような構造で、各世代は先輩達の功績を伝って階上に登り、そこへ新たな階を建てるのだ。英国にいたニュートンの元には、エジプトやギリシャ、インドやペルシャ、アラブと中世ヨーロッパの学術的知識や知恵が集まっていた。
関孝和も同じ状況下ならばニュートンと並ぶこともできたかもしれない。しかし江戸には中国から渡った算木があっても、インドの数学者が発明した十進法さえなかった。いくら一騎当千でも数学の全てを発見できない。言ってみればこれは天才的数学者、関孝和の悲劇である。



 

釣りビジョン

(2017.01.26)

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ちょっと遅いけれど、明けましておめでとうございます。
 年末にBS 釣り専門チャンネル、釣りビジョンでピーターを紹介する番組「Fishing Cafe」が放映された。実はその撮影は、数回に渡って去年の夏に行われた。釣りと共に人物紹介にもかなりの時間を割いている、釣りビジョンとして特別な番組で、年に4回しかない。だから12月の放映になった。
 この番組は僕にとって、松山での釣り友達をテレビで紹介できる凄く嬉しいチャンスであった。彼らがいるから、とても下手な僕も立派な魚を釣れるようになった!因みに今回の写真は、彼らと一緒に船に乗って、12月下旬に松山沖で釣った時のもの。95センチの鰤で、自分にとって素晴らしい記録だ!
 収録の際は真鯛を狙っていた。全く釣れなくて、坊主(一匹も釣れないこと)になれば凄く恥ずかしいし、番組としても大変だと思ってかなり緊張していた。しかし当日は釣り運が良かった!船長のアドバイスをよく聞いてその通りにやったら、すぐさま真鯛を釣り上げた。それで自信が付いたこともあって、バラす(針にかかった魚を釣り上げる途中で取り逃がす)ことも無く、どんどん釣り続けることができた。10枚目の真鯛を釣り上げた時、テレビのスタッフも「これで撮影はもう十二分だ」と、残り時間は彼らも少し釣りを楽しんだ。
 当日の釣りの状況や使っていた道具などについて詳しく紹介してもよいけれども、このHPを読んでくれる方々の大半は釣りにあまり関心がないかな。
 僕としては、今年もほぼ毎月、松山の友達と共に瀬戸内海の美しい景色を眺めながら、真鯛やハマチ、太刀魚や烏賊などをたくさん釣りたいと思っている。大物を抱えている笑顔の写真を、できたら再びHPに載せるぞ!
 因みに一月は寒くて未だ釣りに行ってない。



 

ワイドスクランブル

(2016.11.22)

 先日テレビ朝日の番組『ワイドスクランブル』に生出演した。ネットで常日頃ニュースを注意して見ているけれど、主に外国の新聞のページである。出演の準備として、久々に日本の新聞をゆっくり読んだ。やはり新聞って良いな、と新たに感じた! クリックするのではなく手でページを捲って気持ちが良い。ネットではよく記事の一部を読んだら「残りを3ユーロで購入しますか?」などと表示される。そうではない場合も途中で興味が全くない広告が現れたりする。広告はもちろん新聞にもあるが記事の途中ではない。だから記事を一気に集中して読むことができる。
 とは言え日本の新聞に載っている外国のニュースは限られている。どうしても日本との関係が深いアメリカや韓国や中国が中心になり、ヨーロッパの現状を伝える記事が少ない。
例えば、来春行われるフランスの大統領選挙。トランプ効果は極右政党・国民戦線の勝利に繋がるのか?番組でジャーナリストの池上彰さんはこれを取り上げた。
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 フランス国籍をもったピーターにとっては少し唐突に聞こえた。なぜかと言うとフランスはまだ前大統領、サルコジが作った共和党の予備選挙で盛り上がっている。番組の前夜に第一ラウンドの投票が行われ、当のサルコジは3位で決戦投票に進めなかった。
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 実際この予備選挙でもトランプ効果が現れた!トップに躍り出たフィヨン候補はトランプのスローガン「Make America great again」を下に「10年間でフランスをヨーロッパで一番の国にする」と訴えて投票者の人気を集めた。トランプの大衆迎合主義に似ていて、実態認識に欠けている。
 皆さんご存知のように、ヨーロッパ一の経済大国はドイツである。それを代表する車メーカーVolkswagenは遂にトヨタを抜いて、販売台数で世界一になった。そのドイツをフランスが超えることなんて無理だろう!
 正に大衆迎合主義である。理性ではなく大衆の感情に訴えている。サッカーのヨーロッパ選手権でドイツに(たまたま!)勝ったなら経済でもできる、のレベルの主張だが、ナポレオン以降は戦争で自力でドイツに一度も勝てなかったフランス。国民の心底にドイツに勝ちたい気持ちが潜んでいる。非現実的とわかりながらこの感情に訴えるのは、無責任で大衆迎合主義である。だから国民戦線のルペン党首ではなく、フィヨン氏が大統領になってもトランプ効果と言えるだろう。
 時間の制限がありテレビではしっかり説明できなかったのが悔しいけれど、番組の出演者とスタッフと過ごした時間は凄く楽しかった!



 

アメリカ大統領選

(2016.11.11)

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 昨夜(11/8)寝る前に、BBCのホームページでクリントン候補がリードしていて当選の確率は85%以上だと読んだ。なるほど、アメリカ人はオバマ政権の延長、現状維持を選ぶと思った。ところが数学の論文の直しを終えてNHKラジオの昼のニュースを点けると、トランプ候補の優勢は伝えられた。そして先程(11/9夕)、トランプ氏の当選確定が報じられた。
 先ず思ったのは、これで各種世論調査への信頼が揺らぐだろうということ。確率・統計は立派な学問だけれど、人間という生き物は複雑で扱い難い!日本語の美しい言葉に〔思いやり〕がある。相手に質問された時、多少自分の意見を曲げても完全な対立を避けたい奥ゆかしさに繋がる。 日本人より弱いにはせよ、たいていの欧米人にもそんな傾向がある。その気持ちの世論調査への影響を考えてみよう。
 投票の結果が事前の世論調査と大きく違ったBrexitとアメリカの大統領選挙、その2つには大きな共通点がある。日本を含む先進国の大手マスコミは、どちらの際も安定つまり現状維持を支持していた。過激な発言や不安要素が多いトランプ氏の場合、共和党の予備選挙以降マイナス評価が続いていた。
 そのマスコミから「どちらの候補を支持する?」と聞かれる時、「トランプだ」とは答え難い。おそらくトランプ氏を支持していた多くの有権者は「まだ決めていない」などと返事したと思われる。このような人が一割いれば、予備選挙の結果は大きく変わる!例えば、クリントンとトランプの両候補を50%が支持したとしよう。クリントン候補の支持者たちは堂々とそれを言えた。しかしトランプ候補を支持した人の一割が統計から消えて、50対45とヒラリー氏リードになる。
 こう考えると、選挙結果と事前世論調査の間の矛盾は解消される。やはり結果が信頼できる世論調査のために、完全中立な報道か人間の精神的様子も計算式に織り込む調査方法が必要である。何れもかなり難しい!




 

熊本

(2016.11.01)

 先月は福岡県久留米市で講演会があった。翌日は仕事がなかったので、ちょっと足を延ばして熊本地震の復興状況を自分の目で確認した。
 以前は熊本に行けば市の最大の商店街、上通りと下通りで大道芸を披露した。地元の人々のノリが良くて毎回楽しかったが、今回はそんな気にならなかった。帽子で金を集めるよりは自分から寄付したい気持ちの方が強かった。
 駅からホテルまでのタクシーからも熊本市の中心部に全壊や半壊の建物を見たし、また加藤清正が建てた熊本城の悲惨な状況も確認した。激しい揺れで落下した城壁の石々が、あちらこちらの広場に並べられていた。城壁前の様々な写真を下に各石に番号がふってあった。それを手助けに復元する予定だが、その作業は資格を持った人にしか許されていないので30年も掛かる予定だ!!しかも費用も凄い!  史跡だとわかるけれども、規制を緩めてボランティアの人々に作業を手伝ってもらった方が良いのではないかと思った。30年後なら、僕は両親とも一人でも観光したあの素晴らしいお城の完成した姿を目にすることがないだろう。
 泊まったホテルは築30年で、外壁はほぼ無傷だったが激しい横揺れで中はボロボロになった。一部の部屋を修理して8月に営業再開したが、残りの部分の復元はまだ進行中である。
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 大変な状況の下でも熊本の人々の表情は明るかった。その精神を支えるモノの一つは『くまモン』である。日本中のゆるキャラで最も成功したくまモンの様々なバリエーションを、至る所で見かけた。申請さえすれば誰でも無料で使えるらしい。だからくまモンの姿が見えない商品は珍しいほどだ。あの可愛い姿は熊本の最大のPR大使になっている。
 翌朝、益城町に行くバスの中でも様々な広告のどこかにくまモンがいた。揺れが特に激しかった広崎に降りた。淋しい小雨が降る中どんどん悲しくなりながら、その界隈を歩き回った。
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 半年経った今でも倒壊したままの建物や、「危険」という貼り紙が付いているにも拘わらず中で細々生活を営んでいる人達、考えさせられるものはたくさんあった。倒壊した家と被害が少なかった家の最大の違いは築年数だと感じた。単純に推理すると、古い家に住んでいるのはお年寄りと貧しい人達である。比較的安全と言われた熊本なので、大半は地震保険も掛けていない。この人達にとって自力再建は無理に近いだろう。
 だから、東京オリンピック後は負の遺産になりそうな競技場を建てるより、政府にはもっと災害に遭った人達の支援の為にお金を使って欲しい!




 

Grenoble

(2016.10.25)

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 5月に行ったヨーロッパの旅で全く触れなかったのはGrenobleでの滞在である。フランス国籍を所有しながら、フランスに行ったのはなんと5年振りである!5年も十分長い期間であるが、Grenobleを訪れたのは丁度40年振りであった! 先ず今回は1976年の春の旅について述べよう。
 当時は未だ大学生で国費留学生として7ヶ月間パリ大学で過ごした。『国費留学生』、響きは良いけれど待遇はとても悪かった。可愛がってくれた何人かの先生の誰かに招待されなければ、レストランで食事することはなかった。学生寮の家賃を引くと、1ヶ月の奨学金は当時の為替レートで5万円までいかなかった。
 一方、学生とはいえ既に何遍かの論文をアメリカの雑誌で発表していて、滞在中にフランスでいくつかの大学から招待され講演をした。講演料は僅かだったが、旅費を無駄にせずついでにフランス各地を観光した。  Grenobleに発つ前に、同じ寮に住んでいた僕の懐状況をよく知っていたアメリカ人ジャーナリストに「Grenobleに滞在中のインド人同僚がいるけれど。ピーターを泊めてくれるかどうか、彼に聞いてみようか?」と提案された。
 講演終了後、大学のすぐ側にあるGrenoble駅でそのインド人に会い彼のアパートに行った。1DKの狭いアパートで奥さんと4ヶ月の赤ちゃんが待っていた。食事をしながらアパートを見渡したが、ダブルベッド一台と赤ちゃん用の小さなマットレスしかなかった。 夕飯が終わってから駅に戻って安い宿を探すしかないと思った。
 しかし食後のチャイを飲みながら「そろそろ失礼する」と言い出したら、インド人は凄く驚いて「ここに泊まって大丈夫」と。美味しい料理をご馳走になって彼らを傷つけさせたくなかった反面、どこに寝るのだろうと多少の不安があった。
結局、赤ちゃんはマットレスに寝て、残りの三人は旦那さんを真ん中に決して広くないベッドで夜を過ごした。のちのちインドで3ヶ月間滞在したがその時、お客さんを家族の一員として、自分たちと全く同様に扱うのはインド流のおもてなしだとわかった。
 翌日は朝ご飯を済ましてからヒッチハイクでニース(Nice)へ向かった〜




 

両親

(2016.10.18)

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 先月、日本経済新聞夕刊の「それでも親子」という欄の取材依頼があり、両親との思い出を色々語った。記事は9月末に掲載された。僕は今でも両親への強い感謝の気持ちでいっぱいだが、今日(10月18日)の両親の結婚記念日にちなんで、若い親に少しでも参考にしてほしいことを紹介したい。
 医者としてたくさんの人と深く接してきた二人から教わったのは、この世で最も素晴らしいもの、また一番恐ろしいものは、人間だということ。二人とも皮膚科医で、患者の病を根治するためには原因になった生活環境を調べる必要があると考えていた。特に、入院患者担当の父は彼らとたくさん話をして、ジグソーパズルのように患者と病の全体図を組み立てようとした。
 皮膚科の患者は包帯を変えるなどの処置をしていれば元気そうな人が多かったので、父はよくそんな患者を家に連れて帰ってきた。母が作った料理を患者一人を交えて食べるのも珍しくなかった。食事の際、父は患者が自分の家族や仕事についてたくさん語れるようにどんどん質問した。農家や猟師、運転手や工員など、様々な職業の人たちの人生と考え方からいろいろ学ぶことができた。
 ヒトラーが首相になった年に小学校に入った母は、ユダヤ人として日々苛められたそうだ。高1の時、家族とともにアウシュヴィッツに搬送され、彼女だけが生還した。働きながら復学し医学の道へ進んだ母は、自分の経験を晩年まで語ってくれなかった。十八歳年上の父が強制収容所で九死に一生を得たのは、医者として必要とされ、陽気で周囲と良い人間関係を築いたからだそうだ。
 夏中の週末を過ごした別荘で、母は料理や庭の手入れなど随時家族のために尽くしていた。父は僕を連れて知り合いめぐり。どこでも歓迎され、ベランダに座りながら話に花を咲かせた。次の場所まで歩く間は、その家族の詳細を僕に紹介してくれた。
 戦争の教訓として、真の財産は頭と心にあると親は信じていた。だから日本の言葉と文化をよく学び、地元の人々と温かい人間関係を築きなさいと言われた。大勢の日本人に優しくされて、またユダヤ人として差別を受けたこともない。アメリカやフランスではなく日本を選んだのは正解だった。
 それでも日本人が家族ぐるみの付き合いをしないことを残念に思う。片付いていないことを言い訳に他人を家に呼ばない。同僚や友達と外で食事を済ませて一人で帰る。これでは核家族が主流の今日、子ども達が親と先生以外の大人と触れ合う機会は滅多にない。親の言うことを聞いてくれない子供でも他の大人の話に素直に耳を貸すことはよくあるのにもったいない。




 

秋田県鹿角市

(2016.09.26)

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 先週は秋田県鹿角市まで講演に行った。二年前に秋田市で講演した際、レンタカーで男鹿半島まで足を延ばしてとても楽しい船釣りができた。今回もそうしようと凄く楽しみにしたところ、前線や台風の影響で釣りを諦めざるを得なかった。
 主催者に盛岡駅まで迎えに来てくれることを頼んでみたら、快く応じてくれた。新幹線の改札口を出ると、70前の男性が元気良く出迎えてくれた。通路を通ってエレベーターを降りて駐車場に入ると、そこに待っていたのはかなり古いスバルであった。僕の鞄をトランクに収めることができたので、それで特に問題がなかった。しかし運転席に座っていたのは背骨がかなり曲がったよぼよぼのおじいさんであることに驚いた。
駐車券を出口の機械に入れることもできなかったので、助手席に座った僕は券を取って車から降りて券と代金の100円を機械に投入した。 おじいさんは道もよくわからなく、後ろ座席からの指示がなければすぐ迷子になりそうだった。
 「何歳ですか」と訊いてみたら、「81」と答えてくれた。トランクに荷物を入れた時に高齢者マークが貼ってあると気付いたけれど、運転するのは改札口で出迎えた男性だと思っていた。東北道の入り口にも気が付かず、僕が「ここは左じゃない」と教えると、慌てて車線を変更した。後ろの車はいらいらしながらクラクションを鳴らしたが、どんどん減速しながら高速の入口に向かった。ETCカードがなかったのは言うまでもない。しかも通行券の発給機械から1メートル以上離れて止まったので、またもや僕が降りてボタンを押して券を受け取った。
 ところが一旦高速に乗ると、速度をだんだん上げて最大で110キロまで出した!はっきり言って少し怖かった。反射神経が弱っている人が出すべきスピードではなかろう。 後ろに座っていた主催者は何も言わなかったので、僕も口出しをしなかった。
ちょっと計算してみたら運転手さんは終戦時に10歳、つまり小学生。そこで彼に当時の食料事情を話してもらった。秋田こまちで有名な地帯なのに、当時は米がなかったようだ。「野菜ばかり食べさせられた」、「南瓜の食べ過ぎで顔が黄色くなった」などと話してくれた。蝗(いなご)の佃煮もよく食べたらしい。「それは甘くて美味しい」と相槌を打った。
 あれこれ話をするうちに、高速の鹿角・八幡平出口に到着した。会場になっていたホテルの道にも上手く入れなかったので、国道でちょっとバックする羽目になった。荷物を下ろした時、無事でよかったとホッとした!!!
 翌朝の見送りを頼まず、バスで盛岡駅に向かった。写真はバス券売り場で、名前が池袋になっていることに驚いた!




 

富士山2

(2016.09.20)

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 日本に長く住んできた僕は、富士山に登るなら山頂から御来光を見るのが一番大切だと当然のように思った。ところが外国人の友達は違う!山小屋での夕食の際、アリアに「明日は起床が1時半と言ったら、「それは無理、1時半に起きることを想像するだけで精神的な苦痛だと返ってきた。ヤノシュは「ギリギリで起きて、日の出を八号目から見てから登るぞと宣言して、早く寝袋に入り込んだ。汗でびしょ濡れになったポロシャツやズボンを干しながら、「まあ、明日は別々で行動すれば良い」と諦めて、ヤノシュとアンドレイの間の狭い場所へ入った。時間が早くて全然眠くなかった。お互いに色んな笑い話を語ったりして、時間を潰して眠気到来を待っていた。
 目覚まし時計を1時半に設定したが、もっと早く起きる人が大勢いた。彼等のガシャガシャする音でやはり目覚めて、カロリー源として持っていたチョコレートビスケットをゆっくり食べていた。ビスケットが底を突いたので、仕方なく起きて支度を始めた。そして予定通り1時45分に頭のライトをONにして出発した。外は真っ暗だったが、星空はとても綺麗に見えていた。九号目辺りで休憩していた時は、流れ星もはっきり見えた。頂上の方を見上げると、たくさんの蛍のように登って行く人々のライトが暗闇の中をゆっくり動いていた。神秘的な雰囲気!
 九号目辺りから風はどんどん強くなった。空気が薄くなったとは全然感じなかったが、寒かった。濡れたポロシャツはリュックに積んで、ヒートテックの長袖のTシャツを重ね着して、その上に合羽を着ただけだった。
 だから頂上まで後30分と言われた所で時間調整をした。することがなかったので、警備員とあれこれ話をした。今日は頂上で風が秒速15メートルで危ないとか、この夏落石で怪我した人は数人いるとか、風で火山灰が飛んでいるのでマスクをした方が良いなどと言われた。確かにヘルメットにマスクをしていた登山客も少なくなかった。マスクは売ってなかったので、寒さ対策として軍手を買って山頂を目指して登り始めた。
 最後の30分は一番きつかった。道幅が狭く人の密度が高く、思う通り前へ進めなかったからだ。しかしこれでも御来光に十分間に合った。 雲も火山灰もあり太平洋など下の景色は見えなかったが、太陽光が次第に差してくるのを見て感動した。
 日焼けを避けたい僕は頂上周辺を少し散策しただけで、6時に下山を始めた。火山灰で柔らかい下山道をゆっくり走りながら下りると早い且つ楽と感じたが、暫くしたら靴でしっかり固定されていない足の指が痛くなった。紐をいくら縛っても変わらない。そこで前日の靴下を重ね履きにして、無理矢理登山靴を履くことにした。痛さはあまり和らがなかったが、我慢するしかなかった。
 結局8時過ぎに五合目のバス停に着いた。同じバス停を2時間後に通過したアンドレイとアリアも、頂上からの御来光を見たらしい!他人の音で自然に目が覚めた二人は、2時過ぎに山小屋を出てあまり休憩しなかった。山頂でたくさんの写真を撮りながらうどんも食べた。ヤノシュがバス停に着いたのは午後3時で、かなり遅かった。家に着いたのは午後7時過ぎで、かなり疲れていた。軽い高山病か頂上で吐いたらしい!
 しかし最も綺麗な日の出を見たのは彼である!八号目は雲一つ無く、千葉の向こうから太陽が昇ってきた。 四半世紀前から抱えていた富士山に登る夢を叶えた彼は、凄く嬉しい表情だった!
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富士山

(2016.09.12)

 9月の頭に外国人3人を連れて富士山に登った。今回はその話をしよう。
5月にスイスで訪れた数学者、ヤノシュが来日した。大学時代からの友人なので、何か彼を喜ばせるプログラムを組もうと思った。四半世紀も前の国際会議の際、アメリカ人と富士山に弾丸登山しようとバスで五合目まで行ったらしい。豪雨に遭って登れなかったことをスイスでも悔しそうに話してくれた。そこで富士登山をメールで打診したら、二つ返事で「是非!」と。山よりも海を愛している僕は、必死にあれこれ調べた。丈夫なリュックや合羽を買ったし、以前テレビの取材の為に購入した登山用の靴を点検し、ネットで四つのルートを較べた。登山と下山の道が分かれている吉田ルートを選び、八号目の山小屋も予約した。
 同じ時期に、アンドレイというロシアの若手数学者と彼のベルギー人の彼女アリアも来日して僕の家に泊まっていたので、彼らも誘った。スイスの大学で教えているヤノシュは62歳、これから彼の下で研究するアンドレイは26歳。年齢だけではなく、体格も対照的だ。アンドレイは筋肉質で、ヤノシュは丸々太っている。だから日曜日の朝は先ず、ヤノシュを新宿の新しいバスターミナルへ送った。 家に戻ってアンドレイ達を起こした。ヤノシュより2時間遅れて登山を始めた。それでも八号目の直前で、岩の上に座って休憩している彼に追い付いた。登山を始めた時は雨足が強く20メートル先が見えなかった。しかし八号目に着いた5時前に晴れてきた。
 荷物とヤノシュを山小屋に置いてから、余力があった3人は後40分登った。高山病がちょっと怖かった僕は、標高が更に200メートル高い所に行って、少し下山して山小屋に泊まった方が安心と考えていた。 理屈はともかく、少し登って良かった!富士山から素晴らしい景色が見えた。相模湾や三浦半島と江ノ島もとても綺麗にくっきり見えたし、そして後ろに東京や房総半島もはっきり映っていた。しかも陽が沈むと共に、富士山の影もどんどん東の方へ伸びながら現れた。景色の美しさに若い2人も凄く感心した。
 今まで読むと、かなり順調な登山と思われるだろう。ところが違った!登山を始めて10分余り、二回連続して自慢の登山靴の方からはじけるような音が聞こえた。原因を調べたらびっくり。靴紐を固定する為の穴はそれぞれ小さなプラスチックの板の中にあり、これらの板は接着剤で靴の本体にくっ付けてあった。20年間の劣化で、板が次から次へと剥がれてきた!ショックは大きかった。これで僕の登山はどうなるの?いくら何でも裸足では登れない!
 不幸中の幸いで、靴紐は劣化していなかった。その長い靴紐を、足首の高さで直接靴に巻いて結んだ。靴紐も切れたらどうするのかとの不安に脅かされた二日間になったが、富士山の影などに癒やされた。(続く)
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タンチチ高校

(2016.09.02)

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 僕が通ったタンチチ高校は200年の歴史を持つ、ハンガリー南西のショモジ県下一番の進学校である。僕たちが入学した1967年当時、建物は既に100歳を超えていたが今でも変わらない!震度5の地震で倒壊するだろうがハンガリーは地震が全くないのだ。
 一学年180人で5クラスに分かれていた。トップはAクラスで数学と物理学専攻。Bクラスは化学と生物学に力を入れて、医学部に進む生徒が3割ほどいた。Cクラスは語学の教育が他クラスより長かった。DとEは普通クラスで進学率も低かった。 普段Aクラスの担任は数学と物理を教えている先生だったが、なぜか僕たちの学年は違った。担任のシアルト先生は文学が専門で、バリバリの文系だった。大学を卒業して2年、クラスの担任を任されたのも初めてで、エネルギーに溢れてやる気満々だった。そして彼は、僕たちを専門馬鹿にさせないと決めていた。理系志望の男子26名と女子12名にとって、予想外のことだった。
 演劇を観に行ったことも、クラシックのコンサートを聴いたことも、また純文学の本を殆ど手に取ったこともないクラスメートが多かった。 僕も理系人間だったが、医者でありながら各種の文化へ旺盛な興味を持った父の影響で、古代ギリシャやシェークスピアなどの戯曲を本で台詞を確認しながら観るテレビの劇場中継が好きだったし、三歳上の姉の影響で毎週映画を観に行ったし、またハンガリーの詩人のたくさんの作品を暗誦できるほど憶えていた。それでもシアルト先生から学んだことは多かった。
 彼の授業は、今日本でも流行りの総合学習的ものだった。文学の教科書を各々家で読むのが前提で、彼は作家が生きていた時代について説明したり、当時の音楽や美術を紹介したり、時々我らを劇場や映画館に誘ったり、とにかく理系の輩の視野を広げようと努めていた。
 親の転勤で他の街に移った子と成績が悪くて普通クラスに移された子もいたが、卒業できた34名は文化への関心を植え付けられた。
(続く)


 

クラス会

(2016.08.29)

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最近、釣りに行くことが多い。去年はあまり行かなかった分も頑張ろう、いや、楽しもうと思っている。
 この間、出発の準備中にラジオ深夜便を聴いたら、『高校三年生』という半世紀前に大ヒットした歌が流れていた。「いつまでもクラス仲間」という歌詞はとても印象的だった。
もしかすると当時の日本は今と違ってクラス替えをしなかったのかな、と思った。
 クラス替えというやり方はアメリカ的で、〔平等〕を目指しているらしい。クラスによって能力に差が出ないよう、学力や運動能力が平均となるように振り分けられているようだ。また、いじめの継続を絶つ意味もあるらしい。しかしヨーロッパでは、それよりもずーっと同じ仲間と一緒に過ごしたことによって一生続く深い親友関係が築かれる可能性を重要視するためか、敢えてクラス替えを行わない。
 ハンガリーもそうだった。しかも小中高は全て4年制で、14歳から18歳まで同じ担任の下で育ったクラス仲間は僕にとって、今になっても掛け替えのない友人達である。
 高校を卒業してから5年毎にクラス会を開いている。今年の5月はその9回目に当たり、仲間は僕の都合に合わせて開催日を一週間ずらしてくれた。前回と前々回は日本での仕事の影響で参加できなかったので、皆に逢えたのは15年振りだった!
尤もクラス仲間とは言え、その中でも凄く仲が良い人達からあまり関心のない人達までピンキリである。
 凄く仲が良い5人全員が、この10年間で少なくとも一回日本に来てくれた。彼らに日本を案内するのは、僕にとっても凄く愉しいかつ有意義な経験となった。しかし、この5人以外は15年振りだった。そして15年は永い年月である。自分のことはさておき、彼らの顔を観て痛感した!
 次回は僕のクラスをちょっと紹介させて下さい。


 

英国2

(2016.07.11)

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 英国のEU離脱をヨーロッパ他国はどう見ているのか?
市民の中では「出たいなら早く出ろ」という意見が多いらしい。それには二つ理由がある。
一つは離脱によって英国経済が悪くなり、生活水準が下がると信じて、これを通じて自国の離脱派の勢いを止めたい。もう一つは単に、今の中途半端な状況の中でEU(ブリュッセル)も対策を打てない、また株価や為替レートも不安定である。
ところが英国の離脱は本当に実現するのか疑問である!次期首相の最有力候補は残留派であるし、最大野党の労働党も残留を支持してきた。
一方、国民投票後にポンド安が進み、そしてこれによって株価が上昇し不動産市場への海外からの投資も増えてきた。日本での円高株安と正反対の動きである。今のところBrexitの経済への悪影響は、日本で一番大きいかもしれない〜。
 それに較べてEU諸国でBrexitの悪影響はまだ感じられない。ユーロ対ドル相場は多少ドル高に動いても、EU経済への悪影響がない。またこの時期、市民の最大の関心事は夏の大旅行、バカンスだ。相場は1ヶ月で、日本やアメリカから見てとても羨ましい長さである!
 だからヨーロッパの新聞には、ビザ無し渡航がどうなるのかと、不安を呼びかける記事も見かける。けれどもこれには根拠が無い!EUに加盟していない日本とアメリカの国民も、EU諸国などへビザ無し渡航ができるからである。手続きすれば正規就労も問題ない。Brexitの実現後、ポーランドやハンガリーの若者は英国でフリーターとして働けるのか?かなり先のことなので、彼ら自身も「今年の夏はどう過ごす?」の方に関心が高いだろう。


 

英国

(2016.06.30)

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 英国民はEU離脱を選んだ!国民投票はサッカーEU選手権〔EU2016〕の結果よりも世界中に注目された。日本の新聞も揃って一面に大きな文字で伝えた。直前の世論調査で残留派が優勢と伝われたこともあって、株式や為替市場への影響が大きい! 今回はピーター流に残留派の敗因を分析したい。
 人間、とりわけ大人は保守的なところが強い。これは政治思想ではなく、「未体験の悪より知っている悪の方がまし」という精神的なものである。現状維持=安心、変化=危険という訳。これを踏まえて離脱派の52%対48%の勝利を考えると、離脱を真剣に考えた人は3分の2以上いたと思われる。但し、その2割程度は土壇場で棄権や残留へ回ったりした。
 そこまで英国人はEUが嫌だったのか?違うと思う。僕は離脱票の過半数が反EUではなく、反グローバル化の気持ちを原因に持つと思う。この四半世紀、世界中で急ピッチで進んだグローバル化。その影響で、大企業の生産拠点は東南アジアや中国など、とにかく労働者の賃金が安い所へ移ったり、事務拠点は税金上で非常に優遇されている国々へ代わったりした。それによって先進国の一般市民の生活水準は、永い停滞の期間を辿っている。 同じ期間中にコンピューターや技術の発展は目覚ましく、生産性は向上した。しかし労働階級などの一般市民の暮らしは、全く向上しなかった。
社会の二分化、いわゆる貧富の格差の拡大だ。忍耐力の極めて強い日本人を除いて、どこでも国民の不満が強い。アメリカでトランプ氏が大統領候補になれた原因もそこにある。
 英国では、国民の不満に訴えて支持層を伸ばした国粋主義政党UKIPに加えて、首相Cameronの保守党内ライバル、Boris Johnsonも離脱派に回ってこんな結果になった。
 次回はEUの未来について鑑みよう!


 

ただいま。

(2016.06.21)

 ただいま。四週間のヨーロッパ訪問から帰って来た。去年に続き、スイスと数学が中心の滞在だった。
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 写真はスイスで一番有名な大学、ETH(Zurich連邦工科大学)での講演の様子だ。昔アインシュタインがいた大学で今でも世界トップクラスで、街の中心部に位置する建物は古くてとても雰囲気が良い。小高い丘の上にあり、鉄道の中央駅から坂道や長い階段を登って15分で到着できる。
エレベーターはたくさん並んでいるけれど、中のボタンには世界中で見慣れた数字ではなく、文字が書かれている。例えば、数学研究所はG階である。これは何階なのか確かに数字で表し難い。建物は斜面に建っていて入口は一階と言いきれない。それでも僕が入ったのはE階で「Erdgeschoss」(ドイツ語で一回の意味)の頭文字でピッタリ。E階の中央にはF-1に使用された古い車が10台ほど展示されていて、大学の太っ腹ぶりを象徴していると感じた。
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僕が参加した国際会議の主催者Sudakov先生は、日本人にも名高いUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授を10年以上務めたが、高い給料に釣られてここにやって来た。冷たい雨の多いチューリッヒで、年がら年中太平洋で泳げるロスが5年経った今でも恋しいらしい・・。
 HPをご覧になっているみなさんに、国際会議や数学の話よりも6月5日に投票が行われた「最低生活保障(ベーシック・インカム)」の話題を提供したい。日本のマスコミでも伝えられた、国民投票で否決されたがとても面白い法案である。内容はいたって簡単で「全ての国民と永住権を持っている外国人に月給2,500スイスフラン(およそ28万円)を支給する」ことであった。
 日本語には「働かざる者は食うべからず」と言う諺がある。実はハンガリー語でも同じ言い回しがある、多くの国で道徳として教えられてきた。しかし21世紀のIT革命後の世界には合わないかもしれない。農業人口は先進国で数パーセントに過ぎず、ロボットなどの影響で工場などでの生産に係わる人口もどんどん減っている。国民の大半が働いている「サービス」産業も、通信販売などITの発展によって危うくなりつつある。一例を挙げよう。
 日本で多くのフリーターはコンビニなどの店員として働いている。ベースアップや有休もなく将来性は乏しいと言われているけれど、よりショッキングな話を紹介しよう。右の会議に参加したイスラエル人教授の近所のスーパーのことである。買い物カートを押しながらそれに様々な商品をいれた末、出口の近くで地面に描かれた四角い枠にカートを停めると、瞬時に払うべき金額は数字や音声で提示され、クレジットカードをかざせば支払い終了。前に進んで商品を持参か買い付けの袋に入れて帰宅。店員とのやり取りがなく、凄く早いらしい。バーコードの代わりに使用している小さなチップをコンピュータは読み取り、間違いの恐れもない。スイスや日本でもいずれ主流になりそう!
 つまりスイスの法案の元になったのもここにある。近未来、おそらく多くの人は仕事を探しても働く場所を見つけられない。先進国としてこの人々を見捨てられない。恥ずかしくて面倒な手続きを通れば今でも生活保護を受けることができるが、真面目な国民が圧倒的に多い、かつ非常に豊かな国では全員に基本給を与えた方が理に適うのではないか、というのが国民投票の対象だった。今回は初提案で否決されたが、多少形を変えて再び出てきそう!
 ※注:月給28万円なら日本では余裕で暮らせるけれどスイスは物価が高く、ETHのドクター生がもらう奨学金はこれの二倍以上である!
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熊本地震

(2016.05.10)

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 熊本地震が起きてからHPの更新はなかった。数十回訪れた熊本、両親も大好きだった阿蘇山の麓、こんなに大きい被害にあったことはショックで、書く気にならなかった。
 先ずは亡くなられた方々の冥福を祈りながら、被害に遭遇した皆さんへ心からお見舞い申し上げます!

 今回は一学者としての意見を述べさせて下さい。学者の殆どがどこかの大学で教えながら自分の専門の研究を進めている。文系と理系はその研究の仕方が大きく異なっているだけではなく、理系の中でも学問によってかなりの差がある。数学の真実は定理と呼ばれていて、その信憑性は話の対象にならず、一度証明されたものは定まった理で、永遠に変わらない。
 それに一番近いと言われている理論物理でも、ある理論は正か否か最終的に実験によって確かめられる。最近話題になったgravitational wave (引力の波)はEinsteinが100年程前に予測したものである。彼が生み出した一般相対性理論に基づいて考えたもので、恐らく大天才の彼はその存在について微塵も疑問はなかっただろう。しかし引力の波を測定するまでは「定理」ではなかった。

 前振りが長くなったが、理系の研究で昔から疑問に思っているのは、地震の予知に対する研究である。いつも思い出すのは、東大の物理学の教授だった友達の言葉である。「政府が幾ら投資しようが、その研究には無理がある。例えば、今なら地震が起こってから2分後に震源地やマグニチュードを正確にわかるとしよう。数十兆円を使って何百人が何年間か研究し続けたら、もしかするとその2分を2秒にできるかもしれない。しかし地震が起こる2分前は無理だろう。」と言っていた。つまり「予知」という言葉は当てはまらない。予知の「予」は予め、予て(かねて)の意味だから。
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 確かにその通りだと思う。そして今回の熊本地震の際もこの事を痛感した。4月14日に起こった一回目の地震は益城町で震度7と云う凄まじい揺れがあったこともあり、僕も皆さんと共にあれは本震だったと確信した。次の大地震はどこに起こるのか、それを予測するのが不可能であっても、既に起こった地震が本震であるかどうかさえを予知できないのが地震予知の現状である!!!
 誤解しないで欲しい。地震関連の研究を続けている大勢の優秀な研究者を馬鹿にしているのではない。問題は地震予知の難しさである。

 数学の未解決問題の中でも、学問の現状ではそれを解決するのが無理だと皆認めている問題も多々ある。地震予知もそのタイプの問題だと僕は思う。なぜかというと、天体望遠鏡などのお蔭で人類は近年、広い宇宙に関するたくさんの情報を集めてきた。しかし地球の中核に関する定かな情報を得るのは更に難しい。月や惑星などに較べてすごく近いのに、見ることができない。
 穴を掘れば良いと思うかもしれない。しかし何百メートルはともかく十キロの穴はとても無理だ。ところが大抵の地震の場合震源の深さは十キロ程度である。だから月に人間を送ることができても地震の震源地にはできない。
 まあ、難しい話をここまでにして結論を言おう。当分の間は「次の大地震はここそこで起こる」というような噂程度の情報を気にせず、日本列島のどこに住んでいても、予算の許す限り耐震性が強い建物の中に暮らした方が良い。熊本県だって大きな地震が起こる確率は低いとされていて、地震保険の料金は他県より少なかった。これはいかに地震の予測が難しいかを物語っているだろう。



 

福井

(2016.04.11)

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 先週は久し振りに大学の入学式で講演をした。場所は福井県立大学で、今までその存在もあまり知らなかったところである。主催者からは新入生の志を高めて欲しいということもあって、演題は『明るい未来へコツコツと〜福井から世界に羽ばたくために〜』に決まった。なかなか良いタイトルだと、それを考えついた時は満足した。しかし演題は良くても内容がそれに釣り合わないと駄目だ。という訳で何を話そうかと必死に考えた。

福井と聞いたら皆さんは頭に何が浮かぶのだろうか?日本人は意外と地名と食べ物を連想する人が多い。だから越前蟹や若狭鰈などの水産物を答える人もきっと多い。僕は日本食が大好きだけれど、特定の物に拘らない。頭に浮かぶのは、福井を訪れた時の様々な経験である。
 福井大学医学部の学園祭で講演した前日に永平寺をゆっくり観光したことや、福井テレビの仕事の前に東尋坊を案内してもらった時。小浜高校で講演したついでに三方五湖を堪能してから、釣り船に乗って3キロ前後の真鯛を3枚釣った時の感触。敦賀での講演の前には小さな店でアンパンを買った。街を散策しながら食べていたら何者かに襲われ、首に軽い怪我をした。ビックリして周辺を見渡すと誰もいない。しかし首を触ると指は赤く染まるしあんぱんも消えた!そこで僕のあんぱんを木の上で美味しそうに喰っている鳶に気付いて謎が解決した。

 このような話は各県について幾らでも持っている。現地の人に親しみを覚えてもらう為に有効だが、あまり長く話すと本題から離れてしまう。結局、自分が新入生だった頃をはじめ、大学時代の話を中心に講演を構成した。
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 大学に入った時は土竜になった気分だった。それを聴くと誰もが驚く。しかし真実である。両親は医者で、彼らを見て医学部に入って、医者になって人を助けるのは素晴らしいだろうと思った。経済学部を卒業した従姉妹は当時、旦那と国から派遣されてブラジルで貿易代表を務めていたので、それもまた魅力的に映った。語学にも強い関心があった。小学生の頃からアインシュタインを始め色々な学者の人生を紹介する本を読んで、自然科学の道を歩みたいとも考えた。成績はオール5でどの大学にも入れる自信はあった。しかし『二兎を追うものは一兎も得ず』、ある程度の成功を収めたいならば一つに専念しないといけないとわかった。
 大学を卒業する時はどうなるのか、どんな仕事を見つけるのかは分からない。しかし沢山ある可能性の内の一つを選ばないといけない。当時これをイメージとして、目の前に沢山のトンネルの入口が見えるけれどそれぞれの出口はあるのか、またあってもそこにどんな景色が広がっているのか、18歳の僕にはわからなかった!まさに土中にいる土竜が無闇にトンネルを掘っているように、標識に『数学』と記してあったトンネルに首を突っ込んだ。

 日本の若い学生に信じて欲しいのは、全力投球で一所懸命邁進すると必ずトンネルの出口に到達できる。また大学には道案内を務めてくれる立派な先生が何人もいる。その先生方が最も切望しているのは、自分たちがやってきた研究を継続してくれるまたは実践に移す弟子である。だから先生方を恐い存在と思わないで、自分たちの将来への夢の実現を手助けする人間だと考えて下さい。彼らと良い関係を築く為に必要なのは、学生の強い意欲である。若くてエネルギー溢れる18歳の皆さんに伝えたいのは、自分たちの将来が明るいものになるのか否かは、グローバル化が進んでいる世界の中、また自由な国日本に住んでいるから、何よりも自分自身の努力による。
 大学時代は人生の中で最も自由な時期である。朝寝坊して授業をサボっても自由、ゲームやネットサーフィン、クラブや飲み会ばかりに時間を費やしても自由。しかし将来に後悔したくなければ自分の時間をしっかり管理して、大学が提供してくれる沢山の可能性をしっかり生かして、熱中できる進路を見つけて欲しい〜などと熱意を込めて80分間話を続けた。



 

3月26日

(2016.03.29)

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 今年も3月26日はやってきた。皆さんもこの日付は見覚えがあるはず!今年に入ってから僕は何十回も見た。主にJR駅構内だよ。 解った?3月26日は北海道新幹線が開通した日である。黒字になるのかな?

 2年前に開通した北陸新幹線は乗車率も高く大成功だと思う。やはり観光名所である金沢は凄く行き易くなった。以前は小松空港からバスかタクシーで一時間程度掛かるか、または小松駅まで行ってそこからそう頻繁に来ない特急列車に乗るか、不便と感じたのはきっと僕だけではない。
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 ところが北海道新幹線はどうだろう?前にはやぶさ号で青森まで行ってリレー特急に乗り換えて函館まで行ったことがある。リレー特急の乗車時間は短縮される一方、新函館駅は函館の中心から相当の距離がある。北海道新幹線の本当の目的地は札幌なので、仕方がないかもしれない。但し新函館−札幌間の開通は、まだだいぶ先である。
 北陸新幹線の前身、長野新幹線は長野オリンピックに合わせて開通したこともあって乗車率は低くなかった。長野までは飛行機で行けないし。函館までなら飛行機も結構便利。そして北海道を観光したい人は大抵、函館よりも札幌に行きたい。JRには大きなお世話かもしれないが、僕なりに赤字になるのではないかと心配している。
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 因みに僕は1984年に初めて訪れて以来、北海道が大好き!当時は青森から函館まで連絡船で行ったが、函館の街に一目惚れした。仕事を含め十数回も行った。もっとも北海道は全部で94回訪れているよ!その半分は札幌かその周辺。もちろん夜行列車でも数回行った。

 とりあえず次回は北海道新幹線に乗って新函館まで行こうと思っている。
 とあれこれ書いたけれど、僕にとっての3月26日は北海道新幹線よりも大切である!僕の誕生日である。たまたま北海道新幹線の開通と同じ日付で、ポスターの上に何十回も『3月26日』と見て何となく嬉しかった〜。




 

ソウル

(2016.02.29)

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 数学の国際会議の為にソウルに行って来た。 会議が開催されたのは韓国名門の梨花女子大学である。四半世紀前に行ったことがあるけれど、変化が大きくて凄く驚いた。キャンパスは綺麗で、とても雰囲気が良かった。

 日本の女子大は門番がいて正式の用事がなければ入ることもできないところが多いが、梨花女子大学は出入りが自由で、写真を撮ったり見学したりする観光客が多かった。最も写真の対象になっていたのは、レストランと様々の店が入っている、山を掘って建設された斬新なデザインのガラス張りのビルだった。
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 昼飯を毎日そこで食べていて、僕もそのビルはとても気に入った。因みに唐辛子が苦手な僕は毎日ビビンバを食べていた〜。日本人はビビンバを食べる時にご飯とおかずを混ぜない様だが、韓国人はよく混ぜてから食べる。実は〔ビビンバ〕はハングル語で〔混ぜご飯〕を意味する。
 会議中に泊まっていたのもキャンパス内の新築のゲストハウスで、ソウル近辺に住んでいる参加者を除いて、先生方は皆そこに泊まった。一室、一室は綺麗なワンルームマンションになっていた。ビル内に小さなコンビニやコンピュータルーム、洗濯機や卓球台もあった。日本から来た先生は、予算がどんどん削られ学生寮も無いと嘆いていた。

 日本との大きな差はこれ以外にもあった。例えば留学経験である。日本の大学で教鞭をとっている先生の殆どは、国内の大学で博士号を取得している。しかし韓国では少数派になっている(あくまでも理工系の話)。今回の会議の責任者も僕の友人の指導下、米イリノイ州で数年学び、博士号取得後カリフォルニアで一年間研究を続け、祖国の大学の教員になった。日本だと大学教員のポストが少なく、外国で長年学んだ優秀な若者を雇うことは珍しい。ネットで調べたけれど、今のところ韓国人は自然科学の分野でノーベル賞を受賞していない。だからまだまだ日本の方が成績で優位に立っている。
 しかしこれからも教育や基礎研究の予算を削るばかりならば、将来は楽観できない!




 

東京オリンピック2

(2016.02.16)

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 2020年のオリンピックの開催で日本は世界に何をアピールできるのか?ピーターの考えを紹介しよう。

 今更とわかりながら、どうしても伝えたいことがある。それは一極化が進む中で、敢えて首都圏で開催することである。地方の衰退が早いペースで進行するのを問題視して、政府は地方創生担当大臣まで設けている。どこの地方においても、そこでオリンピックが開催されたら大きな活性源となる。どこの地方にするのか、それを決めるのは難しいかもしれない。クジで選択するのも一手だが、誰もが認める選択として東北がある。
 大震災であれだけ凄まじい被害を受けた地域の再生を促す素晴らしい機会になっただろう! メインスタジアムを杜(と東北)の都、仙台にして、柔道やレスリング、卓球やテニスなど大きな会場を必要としない競技を東北各地で催せただろう。安倍さんは招致の際、福島について〔under control〕と宣言した。それを世界に示すチャンスにもなった筈。
 僕は広島長崎共同開催でも文句無しの、唯一の被爆国日本からの〔平和祈願〕のメッセージになって嬉しかった。でも開催は東京に決まっている!
 オリンピック開催を通じて、開催場所は関係なく日本ならではのメッセージがあると思う。 最も相応しいメッセージは、『高齢化が著しく進行している日本の年配者は世界一元気だ』ではないだろうか?世界を旅するピーターも、日本の年寄りの元気振りに敬服している。
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 これをオリンピックで訴える簡単な方法は〔シニア・オリンピック〕である。オリンピックの後にパラリンピックを開催する。それが終わったら、オリンピックの施設を使用してシニア・オリンピックを開催すれば良い。皆さんは60歳や70歳以上の競技って面白いと思わない?日本人なら80歳以上でも参加したい人は殺到するだろうが、大抵の国は無理!70歳以上の部門でも、日本人が獲得する金メダル数は驚くほど多いだろう。それによって世界中の大人の日本への憧れも増強確実。健康で長生きしようとの国民へのメッセージにもなって一石二鳥だ。




 

東京オリンピック

(2016.02.09)

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 まだまだ先のことだが、2020年の東京オリンピックのことはよくニュースで聞く。僕はもうなんとなく、東京開催は嫌になってきた!

 1964年の東京オリンピックは素晴らしかったと思う。当時日本を訪れたハンガリー人夫妻の紀行本が家にあって、改めて読んでみた。二人は予算が無く、ロシア経由の船で来日して、滞在中もずっと東京湾に停泊する船で宿泊していた。スポーツには全く関心がなく、競技場に足を踏み入れなかったらしい。毎日足が棒になるほど歩いて、東京と関東一帯を観光していた。日本語は全然解らないのに、大勢の日本人と接していた。彼らに助けてもらった場面が多く、とても良い印象を受けて感謝の気持ちで胸が一杯である心持ちは、本を読んで伝わってくる。
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 当時小学生だった僕にとっても、東京オリンピックは日本との出会いになった。スポーツが好きでテレビの中継も観ていたが、それよりも記憶に残っているのは、この一大イベントをきっかけに映画館で上映されていた、日本を紹介したドキュメンタリーである。書店でも、日本文学の作品や日本を紹介する書物は人気を呼んだ。それまではあの酷いヒトラードイツの同盟国だったイメージが強かった日本について、人々は考えを改めた。世界中でたくさんの日本贔屓が誕生した。
 日本の良さを世界にアピールした1964年の東京オリンピックは本当に大成功だった!しかし今回はどうだろう?先進7ヶ国の一角である日本。技術大国日本。日本の文学、とりわけアニメは世界的に愛読されている。街が綺麗で治安が良くて、食べ物が美味しくて、日本人は優しくて、近年は日本の知名度と観光価値も急上昇した。オリンピックを開催して世界に新たにアピールすべきモノは何だろうか?皆さんはどう思う?

 次回はピーターの考えを紹介しよう。




 

釣り運

(2016.01.29)

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 去年の釣り運は良くなかった。シイラを狙った時は、隣で釣っていた友達のルアーに大きな鮪が掛かった。ヘトヘトになりながら一時間ほど闘った末、53キロの鮪を上げた。僕が持っていたシイラ用の細い糸では絶対上がらない大きさだったから、『コウジさんに掛かって良かった』と思いながら、ファイト中の彼にペットボトルからビタミン飲料を飲ませつつ応援していた。
 その2週間後、相模湾で僕にも遂に鮪が掛かった。物凄い勢いで270メートルも糸と錘を引っ張りながら走っていたことから、船長は「30キロオーバーの鮪だろう」と言ってくれた。気合いを入れて一所懸命頑張った。ところが一進一退が続いた末、鮪はようやく40メートルまで近づいた時に、なんと大型鮫に食べられてしまった!ショックが大きくて、また10月からは講演会も忙しくて、それから釣りをしていなかった。
 そこで2週間前は今年の初釣りに行って来た。アクアラインを通れば意外と近い千葉県の勝山港で船に乗った。海も穏やかで船長も優しくて、とても楽しい釣りになった。狙ったのは鬼カサゴと云う高級魚なので、一匹でも釣れたら恥ずかしくないと満足ラインをちょっと低めに設定した。
 結局6匹を釣って船宿のHPにも載った!その写真のピースサインからもピーターの喜びが伝わると思う。初回から一年の釣り運を占うならば、今年は悪くない筈!寒さに負けず色んな魚に挑戦したい。応援のほどヨロシク!




 

選挙権

(2016.01.22)

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 先日NHKラジオ第一放送で日曜討論を聴いた。普段は政治家が出演するけれど、今回は若者を中心に一般人が選挙年齢の引き下げについて意見を述べた。彼らの話を聴きながら僕もあれこれ考えていた。
 ヨーロッパの国々で選挙できる年齢は、昔から18歳になっている。だから僕も18歳で選挙デビューした。尤も同時のハンガリーは一党支配で、候補者は1人しかいなかった!選挙用紙にその人の名前が記載されていた。選挙ブースに入ってその名前を消して別の人の名前を記入しても良いと言われたが、そうしても何の効果も無い。他の立候補はいないから。それぞれの有権者はバラバラの名前を書いてもね・・。
 ベルリンの壁が崩壊してハンガリーも民主主義になったが、僕は日本に住んでいて、ハンガリーよりずっとこの国の選挙に関心がある。
 選挙に適する年齢はそもそもあるのか疑問がある。成長の速さには結構差がある。また政治に関心がない人に選挙権を与えても仕方がないとも思う。しかし民主主義社会では法律によって平等に様々のことを定めなければならない。そこで戦後日本がとってきた『成人男女』という線引きには何の問題もない。寧ろなぜ今の政権はこれを変えようとするのかが不思議である。
実は選挙年齢を引き下げる機会があったと思う。2000年に少年法を改正して刑事処分の可能年齢を引き下げた際だ。子育てや教育に関連して、よく『飴と鞭』と言われる。若年層への責任が厳しく問われるという『鞭』を定めた際に、選挙に早くから参加できるという『飴』を与えたならば、なるほどと納得した国民も多かったのではないだろうか。
 今回はちょっと固い話で失礼した。次回はもっと柔らかいテーマを選ぼう!




 

トルコ

(2016.01.15)

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 最近は明るいニュースがない。ほぼ毎日どこかでテロ事件が起こる。先日もイスタンブールの中心部、Sultan Ahmet 広場で自爆テロによって観光客ら25人が死傷した。これでトルコを訪れる日本人も減るだろう。あれだけ観光資源の多い国で、しかも外国人に対してとても友好的な国民が圧倒的に多数であるトルコだから、特に残念に思う。
 イスタンブールと聞くと思い出すのは1997年の事である。まだ現役の医者であった母と一週間ばかり、イスタンブールを徹底的に観光した。泊まったホテルは街の中心部で、今回のテロ事件があった広場で何回か大道芸を披露した。トルコ語は学んだこともなく、滞在中パフォーマンス中に使える簡単な言葉をホテルの従業員やタクシーの運転手などに教えてもらったり、辞書で調べたりしていた。
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 滞在の終わりの頃には観客を笑わせることもできて凄く愉しくなった。一方、英語もトルコ語も全く解らないだけではなく僕のショーを何回も見た母にとっては、ワクワクするどころか、後々現像した写真を見て悟ったが、かなりつまらない一時だったようだ。 しかし一回だけ母が主役に回ったことがある。その事を話そう。
 芸が終わって何人かのトルコ人に声を掛けられ、向こうは下手な英語こちらは片言のトルコ語とレベルの低い会話が続いた。そこで一人がベンチに座っている母に気づいて、「Mother?」と聞いた。「evet」(トルコ語でYes)と、トルコ語の貧しい語彙力を見せびらかすために「dermatolog」(トルコ語で皮膚科医)と加えた。それを聞くと相手が興奮して「僕の病気を診てもらえる?」と迫ってきた。
 母は喜んで応じて、その場で彼の腕と肩を診て僕に病名を言った。トルコ語どころか英語でも分からなかった。母はラテン語名も言ってくれたが、相手の小型の英語トルコ語辞書にはそれらしい単語が載っていなかった。 必要な薬名も同じようでどうしようと困ったが、患者のトルコ人のアイデアで、彼と3人で近くの薬局に入った。この病気の場合に母が処方する軟膏はなかったが、市販の薬の主成分を調べた結果、症状にピッタリの軟膏を見つけた。
 トルコ人が払おうとする金は断ったが、ホテルまでの帰り道で母の満足した笑顔は眩しくて幸せだった!




 

明けましておめでとうございます

(2016.01.08)

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 明けましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします。

 今回の年末年始は旅行もせずにゆっくり過ごしていた。主には1月15日が締め切りである数学の長い論文の作成で忙しかったが、やはりネットで世界のニュースも毎日チェックした。
 11月にパリで起こった悲惨なテロ事件の影響もあって、ヨーロッパの主要都市では例年通りの、安心して何も気にせず多くの人が集まる広場などでバカ騒ぎをして楽しんで年越しをする野外イベントが減ったようだ。ベルギーなどでは厳戒体制でできなかったし、他の街でも身の上の安全を重んじて自粛した人が多かったと思われる。新たにテロ事件が起こらなくても、住民の心に当分不安は残るだろう。それでもなお、ヨーロッパは世界的に見れば治安が良い方である!シリアやイエメン、リビアやナイジェリアなど、内戦がなかなか収まらない国も多々ある。だから世界平和を祈っても、残念ながら無駄なような気がする。
 一方、内戦どころか過去20年間テロ事件も起こらなかった日本は、平和で幸せな2016年を期待できるかもしれない。だから僕も、2016年が日本と日本人にとって素晴らしい一年であるように願っている。




 

内股歩き

(2015.12.25)

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 先週末は沖縄へ行って来た。皆さんが「いいな」「私も行きたかった」と思う前に言っておく。遊びではなかった。かなり密度の高い仕事である。
 日曜日は午前と午後、うるま市にあるインターナショナルスクールで生徒向けに英語でそしてPTA向けに日本語で、二回に渡って講演をした。しかも両方の講演の間はゆっくり休んで午後の分に備えたいと伝えたのに、校長やカナダ人の先生、PTAの会長は次々に控え室に現れ、会食の形になった。講演後は琉球大学に行き、日曜日であるにも拘わらず、親友である先生と夜まで研究活動を続けた。ヘトヘトになってホテルに戻った時、「僕もどこかで日本人特有の『忙しい遺伝子』を保有している」と思った。
 翌朝は別の大学の先生である友達が迎えに来て、その人の家へ行った。次から次へと先生のゼミ生がピンポーンとやって来た。〔広島風お好み焼きパーティー〕(沖縄なのに?!)の名目で、7名の学生と半日間を過ごした。日本人として海外で活動したい素敵な男女だったが、彼らの質問に答えたり、進路についてアドバイスを言ったりして、遊びと程遠い時間だった。
 広島風お好み焼きはかなり美味しかった。それを作った広島出身の四回生の女子学生は、将来海外で出店したいらしい。甘くないと思うけれど、彼女の成功を願いたい!驚いたのは、7人中3人が16日夜の『水曜日のダウンタウン』で僕を観たと言うことであった。賽銭箱の話をしっかり覚えていた!

 その番組で、実は賽銭箱以上に話したかった話題がある。それは『内股歩き』についてだ。33年前の初来日以来、日本女性は世界一可愛いと思っている。暫く海外にいて日本に戻って来る時、空港から街に入る電車を目の正月と感じている。旅先と較べて素敵な女性が凄く多いと感動している。この気持ちは昔も今も変わらない。
 しかし昔に較べて、今の若い女性の方がスタイルが良い。また歯並びも綺麗になっている。意外と変わらないのは、内股歩きである。歯を矯正する費用は100万円を超えているに対し、歩き方を変えるのは無料、本人の努力で足りる。つまり、未だに内股歩きが多い理由は、本人達がこれを格好悪いと思わないから。
 一方、僕が日本で案内してきた数十人の外国人(学者や作家、ビジネスマンと普通の旅行者)がみんな内股歩きを見て驚いて、その不格好さを指摘している。だから番組を通じて呼びかけたかったのは、着物を身に付けている以外は内股歩きをやめた方が、日本女性の評判の更なる向上に繋がることであった。番組のプロデューサーは賽銭箱を選んだので仕方がない〜。

 それではみなさん、良いお年を!




 

賽銭

(2015.12.22)

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 16日の夜ダウンタウンの番組に出演したら、翌朝すでにHPへメッセージが届いた。やはりテレビの影響力は強いと改めて感心した。僕の出演したコーナーは厚切りジェイソンの『why Japanese people ?』である。家にはテレビがないので知らなかったが、出演依頼が来てからYouTubeで見たら結構面白かった。
 僕に求められたのは、長年日本に住んでいてなかなか納得いかないことを提案するものであった。日本が好きだからこの国を選んだけれど、それでも気に入らないところも多々ある。
 例えば、夫婦選択別姓を国が認めてくれないことだ。男女共同参画社会について講演をする時も、この課題をよく取り上げる。何しろこの制度を断固として採用しない先進国は他にどこにもない!しかし政治的な問題はバラエティー番組に向いていないので、あれこれ考えて2つの提案を出した。
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 一つ目は、放送された『賽銭箱にお札を入れるのはなぜなのか』であった。
初来日の際、恋に落ちた女性と新宿の花園神社に入った。やり方を彼女に教えてもらって、賽銭箱に10円玉を投げ入れてから手を合わせて、『この女性とずっと付き合えるように』とお願いした。希望が叶って5年以上も恋愛関係が続いた。そのことで神々や日本国と彼女に感謝しているが、夢が叶ったのは10円玉の代価だとは到底思わない。
 賽銭箱に硬貨を投げるのは僕にとって、日本人などの観光客が『またこちらを訪れるように』とローマの噴水に金を投げるのと同じ、軽い気持ちである。だから初詣で隣の人が五千円札を入れたのを見て、凄くびっくりした。善良な神々に賄賂を払っても仕方ないと思った。日頃の行いを改善した方が、よほど効果がありそうである。
 自分が通っている神社や仏閣、教会やモスクに寄付することは素晴らしいと思う。このように神(とその使い)に対する気持ちを表しているのもわかる。しかし、出している金額とこれからの好運に関係があるとは、絶対思って欲しくない。それなら神々は悪徳の政治家とほぼ同様になって、『地獄の沙汰も金次第』だけでなく、地と共に天まで全て金次第になってしまう!貧乏人にとっての救いが消える〜
 だからもしあなたが感謝の気持ちを籠めて賽銭箱にどうしてもお札を入れたいなら、それを小さく畳んで、目立たないよう、周囲にプレッシャーを掛けないでお願いします。




 

師走

(2015.12.15)

 日本語の不思議な表現の中で、12月を師走と言うことを昔から〔WHY〕と疑問に思っていた。先ず、師は教師を指すのなら、欧米の先生方はクリスマスの前からおおよそ2週間の冬休みを楽しんでいる!忙しいどころか家族とゆったりした時間を過ごせるのだ。後々判ったのは〔日本が違う!〕。生徒は休んでも先生方はほぼ毎日出勤。このことは今でも納得いかない。夏休みもそうだけれど学校は休みなのになぜ先生方は出勤するのか?!
 尤も、お正月は先生方もサラリーマンやOLのように、何日間かの休暇を貰って帰省したり、旅行に行ったりする。つまり先生方も世間一般の労働者より特段忙しい筈がない!やはり、なぜ師走なのか僕にとって今でも謎だ!
 話が変わるけれど、ピーターにとっての師走は人権講演会などで割と忙しい時期だが、周りの日本人に較べると〔走る〕必要はない。日本人にとっては忘年会のシーズンである。人によって同じ日に2つや3つはしごすることもある。過去五年間は忘年会への誘いは一度も受けたことがない!ちょっと寂しいけれど、とても楽である。
 お酒を飲んだり大勢で騒いだりするのを好まない僕にとって、日が暮れてから起きている時間が最も長いこの時期は、数学の研究に向いている。その日の仕事が終わってから真っ直ぐ帰宅して、暖かい部屋で座り心地の良いリクライニング椅子に座って、論文を書いたり問題を考えたりして、愉快な時間を過ごしている。尤も、良いアイデアが浮かばなくて寝てしまうこともある。それでも夏よりうんと書く仕事は捗っている〜




 

質問

(2015.12.09)

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 一年で講演会が最も多い11月も無事終了して、ちょっとホッとしているところだ。舞台上に立ってお客様の表情を見ながら、日本や世界、教育や子育て、英語やコミュニケーション、数学や人生設計などについてゆっくり話をすることが一番好きだ。大好きなことをやるだけで生計を立てるのができる!恵まれた人生だと自画自賛している。 講演会のテーマによって予め内容を考えるのも面白いけれど、講演後の質疑応答で興味深い質問が出るのは更に楽しい!
 大道芸をやってきたお陰で、想定しなかったことが起こるのには慣れている。アドリブで応えなければならないプレッシャーもあって、脳味噌(中国語で脳筋)をフル回転させてその場を凌ぐ。 しかしそれだけでは終わらない。質問によって、それの正しい答えを講演後に何日間か考えることもある。
 先日ある高校のPTAが対象で講演したところ、話し方も服装もとても上品なお母様からかなり難しい質問があった。講演中に「旺盛な好奇心と物事への強い関心があれば、学習能力(特に記憶力)も向上するし、毎日ワクワクする場面が増える」と話した。そこで彼女は「子供が無関心で好奇心がないと、どうすればよいか?」と聞いた!「小さい時から国内外を問わず子供とたくさん旅行して、色んな体験をさせたのに学習には興味がなく、家ではテレビばかり観ている」と更に状況を説明してくれた。
 正直言って〔困ったな〕、〔ピーターではなく児童心理学に詳しい専門家に聞いた方が良い〕と先ず頭に浮かんだ。親子の会話がまだあると確認した上で、「テレビを必死に観るならば、モノによって興味がある。観ている番組を糸口に会話して、子供との信頼関係を深めて、彼女の頭(心)の中がどんな状態にあるのか調べたらどうだろう。なにか関心があるモノが出てくれば、一歩前進だ。」また「テレビを修理に出して(友人宅へ何日間か預けてもいい)、テレビに邪魔されず人生などについて話し合えば良い」とも言った。
 その場ではその程度の答えしかできなかったことを恥ずかしく思っている。だからそれからも〔正解〕を探している。
 HPを御覧になっている皆さんで、なにか良いアイデアがあれば是非教えて下さい!




 

宴会

(2015.12.01)

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 大規模な国際会議の殆どは月曜日から金曜日までで、初日の夜にwelcome partyがある。今回はそれ以外に木曜日の夜、ロンを祝う夕食会もあった。それは僕にとって大道芸を披露する最高のチャンスだった。
その一回だけの無料の出演の為、日本から講演会に常に持って行く大きなトランクを運んだ。バンクーバーの中心からキャンパスまでのバスでも結構苦労したし、「やはりきちんとやらないと」と思って、木曜日の午後は早めに部屋に戻って芸の練習をした。それから荷物をキャスターに乗せて宴会場に向かった。キャンパスの端っこにある、山の斜面に建てられた三階建の木造の家で、バルコニーから街も海もとても綺麗に見える。

 階段を避けるつもりで、一階の搬送口から入ってみた。扉を開けるとすぐにキッチンがあって、シェフを始めみんな忙しく料理の準備をしていた。宴会場の責任者に「後程パフォーマンスをする者なので通らせて下さい。」とお願いしたら、丁度サーモンの刺身を準備中のシェフが頭を上げて、僕の顔を見つめた。そして「あなたは寿司のビデオの出演者でしょう!」と言う。
凄く驚いた。バンクーバーの街を散策した時、何人かの日本からの観光客に「一緒に写真を撮らせて」など声を掛けられたが、大学のキャンパスでは僕のことを数学者仲間以外に誰も知らなかった。ところが白人のシェフは僕の顔を少しだけ見て、四年前に出た六本木の寿司屋の紹介ビデオの出演者だと判るなんてビックリ!
「あのビデオは面白い。何回も観た。」
と、驚く僕を見て説明してくれた。日本に行ったことがないらしいが、寿司をはじめ日本料理が大好きだという。暫く会話してから二階に上がった。エレベーターが無く、階段を避けられなかったが、勝手口から入って来て良かったと思いながら荷物を運んだ。




 

カナダ

(2015.11.27)

 カナダの話に戻ろう。広くて豊かな国、カナダ。
日本でニュースに載ることは少ない。ちょっと前の話になるが、そのカナダから嬉しいニュースが届いた。新しい内閣の発足である。支持する政党かどうかは別として、30人の大臣達の男女比が半々であるのは素晴らしい。〔女性が輝く社会〕を作りたい安倍さんに、是非とも参考にしてもらいたい!
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新首相は平和路線で、イスラム国との戦いからも撤退すると宣言した。アメリカとカナダ、同じ北米の広い国だが雰囲気は違う。僕の性に合うのは、やはりカナダである。

 今回の国際会議に参加したフランス人で、妻子を連れて来た人もいた。妻子は数学を解らないので、レンタカーでシアトルまで観光しに行ったが、帰って来た時の話は印象的だった。「アメリカに入る時の入国審査が厳しくて、国境を越える為に3時間も費やした!ところがカナダに戻る時は、車の数が同じであるにも関わらず10分も掛からなかった!」と。
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 テロ防止などとよく言うけれど、テロリストはカナダに入ってしまえばアメリカにも入国できるだろう。両国の5000キロに及ぶ国境線を、検問所も何もない所で渡れば簡単だ。つまりテロ防止にはあまりならないのに、善良な観光客には多大な迷惑になる。まあ、今回の国際会議は80歳の誕生日を迎えたロンをはじめ、親切で友好的なアメリカ人が大勢いたので、アメリカの悪口を止めよう。
 実は数学などの国際会議の数が夥しい。年に十回程度参加する友達もいる。どちらかと言うと、学問の為よりも旅行気分で参加する人が多い。講演の間もパソコンを開いてあれこれ書いたり調べたりする人が多い。休憩時間には、用意してあるコーヒー類とお菓子をいただきながら、知り合いと話をする。
その会話の内容は数学よりも「明日の午後はバンクーバーを一緒に散策しない?」や「来月のローマの会議は参加する?」のような内容の方が多い。そして国際会議で一番盛り上がるのは、立食パーティーである。食事は豪華でお酒も出る。
やはり僕もその場を選んでジャグリングを披露することにした。その詳細はまた〜



 

ルーロ

(2015.11.24)

 この何日間か、20人ほどの知り合いから「CMを見たよ」「格好良かった」などの優しいメールをいただいた。とても嬉しいけれど不思議に思うところもある。
 CMはパナソニックのロボット掃除機ルーロである。掃除が苦手な僕も愛用している。
どうして掃除が苦手な僕がこの商品のCMの出演者に選ばれたのか?その答えはルーロの形に隠れている。 家電店で真ん丸いロボット掃除機を何年か前から見かけることがある。しかしルーロは違う。ルーロの形は幾何学でよく知られている、いわゆるルーローの三角形である。その図形に出会ったのは高一の時に読んだ幾何学の本である。円と同様にどんな方向から計っても幅が変わらない、不思議な図形である。しかもこの性質を持つ図形の中で最も経済的(面積は最小)である。
 この図形の名前は最初の発見者、ドイツの工学博士ルーロー博士の苗字に由来する。この形は車のエンジンなどにも活躍している。それにしてもこの可愛い図形が好きになった高一の時は、将来ルーローの三角形に絡んだ仕事をすると言われても、「まさか」「嘘だ」と絶対信じられなかっただろう!
 さて、不思議に思っているところだが、このCMの撮影はGW中に行われた。つまり半年も前である。その後は山手線などで、僕も何回か中吊り広告で自分の顔を見たことがある。しかし知り合いからのメールは2通しかなかった。確かに最近は車内テレビでもCMの動画が流れている。やはり写真と動画のインパクトの違いだろうか?
 もっとも、3日前は車内テレビで目の前にルーロ君とピーター君が現れた。同じ車両に乗っている人もかなりいた。一生懸命周りを「僕だよ」と訴える表情で見回した。しかし誰も声を掛けてくれなかった。かなり淋しかった・・。



 

金沢

(2015.11.16)

 カナダの話の途中だが、先日は金沢で講演会があって、初めて北陸新幹線に乗った。金沢はもちろん何回も行ったことがあるけれども、以前は北陸新幹線が開通していなかった。小松まで飛行機で行ったり、越後湯沢から特急はくたかで行ったり、移動に結構時間が掛かった。はくたかに乗った時は、建設中の北陸新幹線の線路を見て「いつになったら完成するのかな」と思ったことをよく憶えている。「森さんがもっと長く首相を務めていたら、もう開通したのかな」などとも思った。
それはともかく、北陸新幹線のおかげで金沢はだいぶ近くなった。〔かがやき号〕で大宮から2時間7分で着いた!トンボ帰りでも疲れない。但しかなり混んでいる。平日にも関わらず、行きも帰りも全席が予約で埋まっていた。JRにとって嬉しい話である。
ちょっと振り返ってみると、初めて金沢を訪れたのは同じ季節である。時は1986年11月で、まだ日本に住んでいなくて、両親と共に1ヶ月を掛けて、この美しい島国を北海道から九州まで観光したのだ。
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 ガイドブックを読んで兼六園に興味を覚えた母の要望で、金沢まで足を運んだ。父も僕も日本庭園の美しさに感動した。紅葉真っ盛りの兼六園は最高の想い出になった。
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 五年後に初めて講演会の仕事で金沢に行った時も、やはり一泊して兼六園や武家屋敷などをゆっくり廻った。今年の金沢は昔よりもずっと賑やかだ。新しくてとても綺麗になった駅ビルの土産物屋も混んでいて、出発時間が迫っていた僕は九谷焼を買い損なった。交通の便が良くなって日帰りにしたことを反省しつつ、「次回は金沢の街をゆっくり散策して泊まって来よう」と考えている。



 

(2015.11.06)

 これまでの人生で一度も、野生のというか檻に入っていない熊を見たことがない僕は、まさかと思った。しかし目を凝らして、のそのそ歩く姿を確かめると、疑いが消えた。どうすれば良いのかと必死に考えた。逃げ込めるような建物は近くにはなかった。木がいっぱいあるが、熊の方が木登り上手。一目散に走り出しても、熊にはとてもかなわない。そこで五年ほど前に北海道で会った、山歩きのガイドさんの話を思い出した。彼は「敵意がないと、掌をちょっと見せながら後ろへ下がるべきだ。」と言っていた。
その策を実行して、後ろ向きで道路の柵沿いを来た方向へと静かに歩き続けた。熊もこちらへ向かっているので、距離はなかなか変わらない。しかし運良くこちらを見向いてなくて、狭い歩道の両脇の伸びた草を嗅ぎながらゆっくり進んでいる。走り出したらどうしようと怖かった一方、自然にいる熊の姿はとても可愛かった。このように3分程が過ぎたところ熊は車道に出て、それを斜めに越えて、茂みへ消えた。僕の興奮状態はなかなか収まらなかった!
国際会議の初日であった翌日、色々の人に熊に遭遇した話をした。その中のペニーというカナダ人のとても優勝な女性数学者は、一番熊に詳しかった。オンタリオ州の町外れの家の庭で、何回か熊の姿を見たことがあると言う。それでも年に一度あるかないかなので、僕の話に半信半疑だった。
しかし、カナダで伝わる熊対策を教えてくれた。熊をその色によって3種類に分ける。
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(1)は手を上げたり、ジャンプしたり、体を実際より大きく見せたり、また大声で叫んだりすることによって、退ける可能性もある。
(2)徹底的に死んだ振りをするしかない。
(3)死ぬのは確実!絶対殺される。
会議の二日目の昼、ペニーは「ピーター、ピーター」と僕を呼んできた。あなたが熊に遭遇したのを信じるようになったと、前日の態度を謝ってくれた。「朝6時にピーターと同じ道をジョギングして、やはり熊を見た。成獣の黒熊で百キロを越えていた。」などと、自分の熊遭遇体験をつぶさに語ってくれた。
その後キャンパスでアライグマに三回逢って、4匹の小鹿の群とも戯れた。カナダは自然が豊かな国だなと、身をもって確認できた!
次回は会議(人間)について報告しよう。



 

バンクーバー

(2015.11.02)

 飛行機がバンクーバーに到着したのは昼頃だった。入国審査に時間が掛からず、そのまま郊外にある大学のキャンパスまで行くのはもったいないと思った。インフォメーションで行き方を聞いて、街の地図を貰った。カナダは国民の医療費がただである程の福祉国家なので、アメリカ合衆国と違って、公共交通も安くて発達している。空港から街の中心まで列車が走り、同じチケットで2時間以内ならそのままバスにも乗り換えができる。週末は利用者が少ないからか、平日よりも安い。
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 講演会に常に持って行くトランクなど荷物がかなりあったが、とりあえず列車に乗って中心地まで行った。時期は6月中旬でとても過ごし易い陽気である。キャスターを引っ張りながら一時間程見物した。途中、カフェテラスでサンドイッチを食べた。
バンクーバーの街はほとんど初めてだった。と言うのは丁度30年前に一回訪れたが、当時は招待してくれた数学者の家に泊まり、家と大学の往復を繰り返すばかりだった。車に乗せて美しい海外線を見せてくれたが、車中でも数学の話ばかりをして、景色はあまり記憶に残っていない。
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  カフェを出て再び歩き出した時、大きなリュックを背負った二人の男に声を掛けられた。「Are you professor Frankl?」
って。とてもびっくりしたが、やはり同じ会議に来た30代の数学者で、僕の論文をいくつか読んだことがあると判明した。一度も会ったことがなかったが、インターネットで写真を見たようだ。結局、一緒にバス停を探してキャンパスまで行った。一人は一年間ブダペストに留学した経験があり、話がけっこう盛り上がった。
それでもバスを降りてからはよそよそしく、「ではまた明日」
と、夕御飯を一緒に食べようとか連絡先を交換するとかしないことは、如何にもアメリカ人らしいと感じた。
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 ホテルにチェックインできたのは午後3時過ぎだった。日本時間は(翌日月曜日の)朝5時。飛行機が混んでいてなかなか眠れなかったので、広いベッドを見ると突然眠気に襲われた。1時間ほど寝るつもりだったが、目が覚めたのは7時!ホテルの学生食堂も売店も閉まっていた。フロントの女性に尋ねると、広いキャンパスの反対側にある10時閉店のレストランを勧められた。
建物がずっと並んでいるほぼ真っ直ぐな行き方もあったが、まだ明るかったし、どんな木や花があるのかと興味があって、回り道して周囲の森を観察しながらレストランに向かった。時々鳥の囀りが聞こえるので目を凝らして音源を探したが、なかなか鳥は見当たらなかった。ある時視線を再び前方へ戻すと、50メートル先から大きな黒い物体がのそのそこちらへ向かってゆっくり歩いてくるではないか!熊?まさか!どうしよう?(続く)



 

ロン

(2015.10.26)

 僕の自叙伝「数学放浪記」を読んだことのある方がだいたい覚えている登場人物に、ロナルド・グラハム、通称ロンがいる。
彼はなんと今月の末で満80歳になる。
 彼と出逢ったのは40年も前、僕が二十歳の時である。先輩に誘われ、地元ハンガリーで行われた数学の国際会議に出席した。出席と書くと偉く聞こえるが、当時はまだ学部の学生で、発表するどころか講演の大半は理解もできなかった。
語学力を先輩に買われ、様々な国から訪れて来た先生方を案内したりするのが役割だった。
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   ロンがブダペストの空港に着いた時も、僕は出迎えて彼をホテルまで連れて行った。偉い先生らしく、チェックインが済んでからすぐ客室へ消えた。 詳しい話は「数学放浪記」にあるので延々と書いても仕方がない。とにかく二日後に会場近くの芝生広場でいろんな人にジャグリングの基礎を教えていた時、僕もロンに弟子入りした。
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ハンサムで背が高くて話し方が優しくて女性にも大変人気があるロンは、僕にとっても憧れの的となった。「How old are you」と聞いてみた時に、答えてくれなかったのが不思議だった。
30歳位かなと思っていたが、実際は38歳で、自分の歳を気にしていた。世界屈指の研究機関、世界初の通信衛星を造ったことでも有名なベル研究所に務めていた。そして数学部のボスに就任した直後、僕も研究員として招待された。

時は1985年。10月31日、ロンの50歳の誕生日、彼に首ったけだった中国出身の女性は、プレゼントと共に『over the hill』と書かれた横断幕を置いた。日本でもよく使われている孔子の言葉〔不惑〕や〔知命〕のように、アメリカでも様々の年齢を表す表現がある。over the hill は『これからの人生は下り坂だよ』と警告の意を持っている。決してめでたい言葉ではない。彼女がこんな横断幕を置いたのも、ロンは別の中国系女性と再婚したばかり、彼女に対する恋心を抱いていなかったからであろう。
 ところがロンの場合は違った!それからも優秀な数学者である妻などと素晴らしい論文をたくさん発表したし、僕とジャグリングの新しい技を色々練習した。
そして何よりも五年後に全米数学会のpresidentに選出され、
二期務めた。正に八面六臂の大活躍である。
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 因みに彼は、毎年夏は気候が最適のバンクーバーで6週間を過ごしている。避暑の旅ではあるが、普通の夏休みではない。バンクーバーの有名な大学での研究活動である。
このような縁もあって、ロンの80歳を祝う大きな国際会議は、彼と奥さんが今でも教授であるカリフォルニア大学ではなくバンクーバーで開催された。


 

フィンランド

(2015.10.16)

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 スイスへの行きも帰りも、フィンランドの首都ヘルシンキで一泊した。空港からの市営バスの終点は中央駅である。大きな広場に佇む幾つかの彫刻で飾られているが美しくない。どちらかと言うと白夜の時期も暗い雰囲気であった。
やはりフィンランドの暗い歴史を感じさせられた。中世はスウェーデン、19世紀からは帝政ロシアに支配され、厳しい自然環境の中で国民の暮らしも苦しかった。
実は日露戦争で日本が勝利したことをヨーロッパで最も喜んでいたのはフィンランドである。スーパーでは今でも〔東郷平八郎〕ビールが販売されている。
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帰りの便は夜だったので時間に多少余裕があり、港まで散策した。キリスト教の国で日曜日が安息日なので大きな店は全部しまっていたが、船着場の周辺の市場はとても賑やかだった。観光客も多く土産をたくさん売っていた。僕は買い物をしないで島巡りの船に乗った。フィンランドの歴史の詳しい話を聴きながら海から眺めるヘルシンキは、なんとなく美しく見えた。
 船着場から再び駅に戻る道を歩き出して一番驚いたのは、先まで閉まっていたデパートがみな開店していた。やはり信仰と消費のバランスと言おうか、ルールが変わり、午後からの営業は許された。つまり良い市民に求められるのは午前は教会、午後は買い物に行くことだ! 僕はどちらにも行かず、オープンカフェのテラスでサンドイッチを食べながら行き来する人々を観察していた。
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リヒテンシュタイン

(2015.10.06)

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 リヒテンシュタインと聞いたことがありますか?知らない人も多いだろう。スイスとオーストリアに囲まれた小国である。今回のスイス滞在中にやはり行ってみることにした。
 リヒテンシュタインという小さな国の名前は小学生の頃から知っていた。その訳は父が熱心な切手収集家で、日曜日はよく僕を切手を買ったり交換したりするクラブに連れていってくれた。切手には必ず発行した国の名前が書いてあるので、その場でたくさんの国名を覚えた。後々高校で立地条件や首都の名前(ファドゥーツ)も学んだが、それ以外の知識は殆どなかった。
 ネットで調べると、海に囲まれた日本の正反対で、世界で二つしかない doubly landlocked country の一つである。つまりその国は海に面していないだけではなく、隣の国も海がない。(因みにもう一つは解るかな?最後に答を書いておく)。
リヒテンシュタインはどこまで小さいのか?その面積はたったの160㎢で東京都の1/13にも満たない。そして人口は4万人未満だ!しかし税制の関係で、欧州連合の様々な国から色々な会社が支店を置き、一人当たりの(物価水準に合わせた)実質GDPで世界トップである。

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 スイスからリヒテンシュタインに入るためのサルガンス駅からの路線バスは安くて便利。どこまでスイスなのかどこからリヒテンシュタインなのかと気になっていたが、意外と簡単だった。両国の国境はライン川である。だから橋を渡ればリヒテンシュタインである。
 ホテルに翌日の着替えや洗面道具などを置いてから、殆ど空っぽになったリュックを背負って国の探索に出た。住宅の殆どが庭付きでとても綺麗で、街を走る車も高級車ばかりであった。さらに高級な(?)乗り物として馬もいた。特にライン川沿いの道で何人も乗馬を愉しんでいる人を見た。牧場にもかなりの数の馬がいた。国境の警備は全くなく、僕も新しい橋を渡ってスイスに入国したり、またリヒテンシュタインに戻ったり、橋の真ん中にある国境表示の写真を撮ったりして楽しんだ。天気は快晴で気温は20℃位で、ウォーキングに適していた。そして綺麗な家々は個性があっていつまで見ても飽きなかった。
 首都ファドゥーツの中央広場に幾つかの店があった。一番豪華なものはスイスの時計を売っている店だった。僕も入ってみてびっくり!中国人観光客がいっぱいいて、販売員の半分は中国人であった。時計の中には数百万円の品もあったが、バスで来た団体観光客は2〜3万円の時計を一瞥して、何人かは買っていた。店から出てきた中国人と話してみた。こちらが流暢に中国語を話せることに驚いて、とても親切に僕の質問に答えてくれた。中間層の素朴な人々で、バスのツアーでドイツやオーストリア、スイスを八日間で旅していた。買い物が終わると皆バスに乗り込んで次の目的地へ向かった。
 欧米人の観光客で自転車で道を走る人を十数人見たが、僕のように歩いている人は出稼ぎ労働者しかいなかった。お城を見たり、山に登ったりして遂にリヒテンシュタイン唯一の鉄道駅がある街、シャーンまで辿り着いた。リヒテンシュタインで人口が一番多いとはいえとても長閑で、中央広場でイタリア食材の祭りをやっていた。猪のソーセージを試食したが、豚肉と変わらないと感じた。スーパーでパンとチーズと七面鳥のハムを買って、広場のベンチに座って遊んでいる子供たちを眺めながら遅い昼にした。
 大通りでファドゥーツに戻った。今度は土産屋に入った。やはり切手も売っていた。但しその中で一番多かったのは、戦時中のヒトラーの顔だけが載っているものだった。がっかりして全部破りたい気持ちで胸が一杯になった。こんなにたくさん置いてあるということは、それを買う人も相当いるのだと思って更に悲しくなった。しょんぼりして店を出た。そして雪を被った綺麗な山々を眺めながら宿に戻った。  夕飯は食べなかったので翌日の朝ご飯は余計に美味しく頂いた。僕以外はスイスから来たビジネスマン一人しかいなかったのに、色々な食べ物が大きなホテルに負けない程広いテーブルの上に置いてあった。やはりリヒテンシュタインの豊かさを感じさせた。
 最後に、クイズの答えはウズベキスタンである。


 

エストニア

(2015.09.30)

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 今回のヨーロッパの旅はマルタ以外にまだ行ったことのなかった小国を訪ねた。エストニアとリヒテンシュタインである。
エストニアはバルト三国の一つで、人口は僅か134万人である。公用語のエストニア語はフィンランド語に近く、両国の民族が親戚であることの証でもある。この親戚関係はエストニアがソ連の解体によって独立した時、大きなプラスになった。フィンランドの経済援助や投資によって急激な成長を果たしたのだ。両国の首都ヘルシンキとタリンの距離は90キロ未満で、毎日たくさんのフェリーが往来している。僕もヘルシンキ空港から街の中心までバスで行き、荷物を引っ張りながら散策してから路面電車で港に向かった。波も殆どなかったフィンランド湾を三十分ほど航海すると、もう対岸のタリンが見えてくる。  僕が乗った大型フェリーは10階建てでレストランや売店などがあり、金曜日の夕方ということもあり凄く混んでいた。乗っていた人の大半はフィンランド人観光客と、フィンランドで働いて週末を利用して帰国するエストニア人であった。前者は殆ど荷物を持たないのに対して、後者はフィンランドからの家族への土産をたくさん抱えていた。因みに日曜日の午後、ヘルシンキに戻る時は状況が逆にならず、殆どの人は大量にビールなどの酒を運んでいた。EU内なので関税がなく、しかもエストニアの方がずっと物価が安い。  泊まったホテルはフェリー乗り場のすぐ近くで長旅の疲れと時差もあり、九時過ぎにはもう爆睡していた。
 ホテルの朝ご飯は北欧らしいニシンの三種類のサラダなどもあり、いろんな国の観光客と触れ合いながら腹十二分目になった。
 世界遺産にもなっているタリンの旧市街地まで徒歩20分。天気も良く、海辺を散策しながらゆっくり向かった。人口は42万人で道路が広く人に会うことも少なかったが、小高い丘を登って旧市街地に入った途端、たくさんの観光客が眼についた。方々に停まっている車から判断すると、彼らは観光バスやタクシーで来たらしい。GWの最中とのこともあって日本人もけっこういたが、中国人の方が多かった。ヨーロッパ各国の言語を聴きながらずっと街を歩いていた。旧市街地の道は石畳みで狭いけれども雰囲気は非常に良く、昔ながらの色鮮やかな家々が佇んでいる。  中央広場にレストランとカフェがたくさん並んでいたが、朝ご飯の食べ過ぎでメニューを読むことだけで満足した。観光客の目を引く為に殆どのレストランで鹿や兎と猪の料理、二か所で熊肉もあった。これをエストニアの伝統的料理だと思わないでほしい。普段は彼らも牛肉や豚肉、鶏肉を食べている。バルト三国でちょっと変わった食べ物と言えば、秋になると森でのキノコ狩りが人気で、それを料理して食べたり市場で売ったりする。毒キノコの見分けができないと話にならない!数が減っているけれど年々死者が出るそうだ。

 午後は街角で面白い物を発見した。セグウェイの貸し出しである。
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以前に成田空港で警備員が乗っているのを見たが、自分が乗ったことはなかった。二時間で2000円程度なので、やはり挑戦した。意外と簡単で坂道を登るのも楽で、すごく愉快な気持ちでそれまで散策した道を走り回った。ヨーロッパでもやはり珍しいらしく、僕の写真を撮る人や、乗り心地はどうかと尋ねてくる人も数人いた。 陽が差しているうちはぽかぽか暖かったが、夕方になると広場のレストランでは皆、貸し出しの毛布を背中や膝に掛けていた。しかも翌日は雨でかなり寒かった。その日は歴史などに関するいろいろな博物館を巡ってから、夕方のフェリーでヘルシンキに戻った。


 

マルタ

(2015.09.11)

 スイスから三泊四日の短い予定でマルタへ行った。地中海に浮かぶとても小さな島国で、人口は僅か36万人。半世紀前まで英国の植民地であったこともあり、高校以降の教育は全て英語で行われる。気候は温暖で英国よりずっと過ごしやすいこともあって、英語学習で長期滞在する外国人が多い。中には日本人もいる。 もっともマルタ人の母国語はあくまでもマルタ語で、英語とかけ離れた独特の言葉である。だからマルタ人の英語は文法が正しくても英米とだいぶ違う。
 マルタに行こうと決めたのは去年の夏。国際会議で僕の論文をよく知っているマルタの若い数学者に逢ってからである。彼の名前はPeter Borg 。北欧っぽいがBorgの発音はボルジュである。Borgさんはマルタ大学の数学科の先生で、メールで「是非来てくれ」と招待してくれた。
 旅費も滞在費もこちら持ちだったが、滞在中に島全体を案内してくれた。昭和天皇が皇太子時代に植樹なさった木をはじめ、面白いものをたくさん見せてくれた。日曜日はBorgさんの彼女も一緒に、マルタの有名なレストランに行った。「何を食べる?」と聞かれ、「できればマルタの独特な食べ物を」と返事した。
 前菜はエスカルゴでメインディッシュは兎になった。もっとも彼らはスパゲティやスープなどのイタリアンを食べた。 エスカルゴは時々日本でも食べる。殻から取り出されてガーリック風味で調理され美味しく感じる。 ところがマルタのエスカルゴは小さな蝸牛を殻のまま茹でて、ソースもなしで僕の前に置かれた。しかも量が多くて50個を下らなかった! 「あなた達もどうぞ」と言ったが、Borgさんは一匹だけ、そして彼女は「蝸牛は嫌だ」と全く食べなかった。 マルタの料理なのであまり残してはいけないと思って、「美味しい、美味しい」と言いながら30匹を片付けた。正直言って何の味もなかった!兎もまあまあだったが、夜はお腹が痛くなった・・。
 しかしマルタの風景や古い砦などの歴史的建物は素晴らしかった。 小さな島なので住んでいる動物が少なくて、その中でも大切にされているのは針鼠である。大学の掲示板にも『負傷した針鼠を見つけたらこの番号へ電話下さい』と書いてあった。怪我の最大の原因は、もちろん車に轢かれることである。野生動物が少ないこともあって、マルタには人口とほぼ同数の猫がいる。それを観に来た日本人観光客にも逢った。


 

スイス

(2015.08.24)

 今年はスイスの大学で1ヶ月間過ごした。場所はローザンヌで、スイスの最も有名な大学の一つである。広いキャンパスはレマン湖の湖畔に位置して、対岸のフランスの山々は美しく見える。晴れた日はヨーロッパ最高峰のMONTBLANC(4807m)も雪を被った姿を見せてくれる。 因みにフランス語でmontは山、blancは白の意味である。ほかの季節はわからないけれど、5月は周りの山には雪が見えなくMONTBLANCだけは白かった。
 スイスは2002年まで国連にさえ加盟しなくて、かなり閉鎖的であるイメージをもっていた。しかし大学は僕の想像とは逆に、非常に国際的だった。僕がいた数学科ではスイス人教授が一人しかいなかった!僕の集中講義を受けた大学院生は、ヨーロッパ各国を始めインド人、韓国人、中国人、ベトナム人にエクアドル人もいた。残念ながら日本人はいなかった。
 日本とスイスが似ている点は幾つもある。先進国で、治安が良くて清潔である。そして日本人にスイス人を真似してほしいところもある。スイス人はできる限りスイス産の農業製品を消費している。フランスの隣なのにフランスのチーズやワインは殆ど見当たらない!TPPなどの農業への悪影響を最低限に抑える為に、日本人の国産嗜好の向上に期待したい。
 もう一点を紹介しよう。スイス人もしっかり仕事をやっているのに、日本人ほど忙しくない。一刻を争う雰囲気はない。電車の例で較べてみよう。スイスの列車もほぼ時刻表通りに動いている。しかし所要時間を極限に押さえようとはしない。各駅での停車時間を長めにして、客はゆとりを持ってゆっくり乗り降りできる。スイスは小さな国で日本に較べて乗る距離が短いことも確かだが。
 続きはまた。


 

☆グーグル

(2015.03.19)

 先日、こんな記事を読んだ。

 『政府が、ICT(情報通信技術)分野で世界的影響力を強める米グーグルに対抗する戦略づくりを進めていることが分かった。官民一体でグーグルに対抗できる環境を整えることで新産業を生み出し、成長戦略につなげる狙いがある。

 政府は、〈1〉グーグルに対抗しうる企業の育成・支援に向けた取り組み〈2〉グーグルによる市場独占を防ぐための法規制のあり方〈3〉ICTサービスの利用履歴などの個人情報保護に向けた方策――をテーマに、今夏をメドに戦略の方向を固める。

 戦略策定に向け、経済産業省は昨年10月に「データ駆動型経済社会における競争政策を考える懇談会」を非公開で設け、工学、法学などの学識経験者4人の委員による検討を進めてきた。4回目の会合を開き、業界関係者から意見を聞いた。

 グーグルは、世界の検索エンジンの市場占有率(シェア)が60%、スマートフォンの基本ソフトウェア(OS)のシェアは78%に上る。膨大な電子データ「ビッグデータ」を蓄積し、欧州でも市場独占への警戒感が広がっている。』

 この記事を読んで嬉しかった。日本政府もやっと目が覚めた!一昨年ロシアの研究所の招待でモスクワを訪れた。招待者はYandexであった。皆さんにとってあまり見慣れた名前ではないと思うけれど、ロシア版Googleである。中国にもだいぶ前からBaiduという中国特有のサーチエンジンがあり、韓国も同様だ。

 アメリカなどの情報機関はもちろんYandexやBaiduなどの情報をしっかり把握していると思われる。だからこれらは秘密保護の為ではなく、経済的に重要である。インターネットによって発生する莫大な広告料。そのほとんどはGoogleやYahoo、FacebookやYouTubeなどのアメリカの企業に流れている。技術大国日本としては本当にもったいな過ぎる!

 近い将来日本版サーチエンジンを使ってメールの送受信とネット検索をやれると嬉しい!


 

☆カジノ

(2015.03.05)

 ちょっと前に大マスコミの新聞記事に目が留まった。その内容を短くまとめるとこうなる。『有力議員グループは今国会に「カジノ法案」を提出する。その法案通りにいけばとりあえず関東と関西、具体的に横浜市と大阪市の埋め立て土地で大型リゾート施設を建設し、その中にカジノを入れる。』

 東京に住んでいることもあって、僕の記憶には石原都知事(当時)のカジノ構想が強く残っている。何を隠そう僕はカジノ反対派である。ドストエフスキーが自分の経験に基づいて書いた小説「賭博者」を読んだことがあり、何人かの知り合いの人生を見ても賭博依存症の恐ろしさをわかっているからだ。しかしこちらでは倫理的な観点から意見を述べたくない。

 全国津々浦々を講演会や釣りで旅して大都市圏以外の地方財政の苦しさ、人口流出の悲しい現状をよく目の当りにする。当然ながら日本の政府は僕よりずっとこの事実を知っている。だから「地方再生省」まで設けているのだ。安易な収入源、訪れる人の数を増やす新しい魅力としてのカジノを、地方再生政策の一環として扱うべきだろう。

 世界で最も有名なカジノを中心として造られた大型アミューズメント施設はラスベガスではないかと思う。ネバダ州の大半は砂漠や山で覆われていて収入源も少なかった。ラスベガスなどのカジノプロジェクトは大当たりで、世界中から人を呼び込む効果を発揮している。医者をはじめ様々な学者たちはそこのホテルと会議場(コンベンションセンター)の割安さに目を付けて、たくさんの国際会議が開かれている。

 日本でも土地が安い過疎地で建設すればかなり割安くできるはず。莫大な経済効果も間違いない。問題はどこにするか!公募すれば手を挙げる自治体はたくさんありそう。カジノの建設なので、くじで決めるのが一番公平かもしれない。それとも東日本大震災からの復興を促す為に、東北にするのも一つの可能性だろう。それなら他の自治体も納得してプロジェクトを応援してあげるのではないか?!何れにしても人口も産業も集中している横浜市や大阪市などではおかしいと僕は思う。


 

☆バレンタイン

(2015.02.13)

 今年もバレンタインデーの季節がやってきた。先日、僕が大好きなドイツ製板チョコを売っている店で大変びっくりした。

 前から販売中のスイスやベルギー、フランス、ドイツの世界的にも評判の良いチョコの中で、見たことのない板チョコを発見した。しかも同じメーカーの何種類ものチョコが大々的に並んでいた。包装紙毎に色は異なっていて、それぞれにココアを生産している国の名前が大きな文字で書いてあった。

 「これってどこの国のチョコレートだろう?」と手に取って見たが、表に表示されていなかった。 裏を見るとロシアの文字で何かが記されていると気づいた。読んでいる途中でロシア語ではなくウクライナ語だとわかった。

 旧ソ連邦に数ヶ月滞在したことがあるが、チョコレートが大好きな僕には苦しい時期だった。チョコレートはとてもまずかったからである。父がたまたま治療に来ていた在ハンガリーロシア軍の将校に頼んで、モスクワにハンガリー製板チョコ20本を届けてくれた。

 ところがハンガリーやポーランド、ブルガリア製板チョコを日本の店で一度も見たことがない。ウクライナのチョコレートを売り出す理由はと考え始めたら、すぐポロシェンコ大統領のことが頭に浮かんだ。

 去年行われた臨時選挙でウクライナの大統領に選ばれたのは、チョコ レート王と言われてきたペトロ・ポロシェンコ氏である。 旧ソ連解体に伴う混乱の中、巧い具合に国営チョコレート工場を自分の私産にしてしまい、次第にウクライナ一の億万長者になった男である。ロシアとの戦いが続く中、先進国の援助を受けている。それもまた巧い具合に自分の工場の売り上げ向上に利用する。

 まあ、これはあくまでも僕の憶測に過ぎないので、もし間違っていたらごめんなさい! 調べたら楽天でも販売中だが、彼のチョコレートの値段はドイツやスイスの板チョコの1.7倍で、僕は絶対買わないつもり〜


 

☆サッカー

(2014.07.23)

本当にお久しぶりです。なかなか更新しなくてごめんなさい!

サッカーのワールドカップもついに終わってしまいました。ドイツが優勝して、個人的には日本が消えてからドイツを応援することにしたのでよかったと思いました。準決勝でブラジルに大勝したので、決勝はかなりの接戦でしたがドイツが勝って納得している方も多いでしょう。

 それはさておき、今回はサッカーについて書こうと思っています。そのきっかけは、ワールドカップが始まった直後の一本の電話であった。フランスの通信会社から、サッカーと数学というテーマで取材されました。それで僕もいろいろ考えたので、サッカーの面白さ・人気を数学的に解いてみようと思います。ラグビー、アメフト、野球、バスケ、バレーなど様々なチームで行われる球技がありますが、やはり世界的に最も人気が高いのはサッカーです。それはなぜか。

ワールドカップ決勝は、アルゼンチンが勝ってもおかしくありませんでした。べつにアルゼンチンの方が良かったわけではないですが、メッシなどが決定的なチャンスにシュートを外してしまいゴールを揺らすことがなかった。つまり僕が思うに、サッカーを面白くさせる、特に国際試合の場合に人々を熱狂させるのは、必ずしも強いチームが勝つわけではない点にあります。 例えば、バスケットの試合で点を入れる確率がAチーム55%、Bチーム45%とすると、Aチームの方が10%程度強いことになります。合わせて200点入ったとしましょう。平均的にAチーム110:Bチーム90で勝ちます。時には102:98や120:80にもなりますが、基本的に強いチームが毎回勝つでしょう。点数が多いバレーボールでも、たったのプラスマイナス5%の差が決定的で勝負の行方を決めます。ところがサッカーの場合、ドイツ対アルゼンチンの試合がもし最初から1点しか入らないと決まっているとし、得点確率をドイツ55%アルゼンチン45%にすると、アルゼンチンが勝つ確率が45%もあったのです。つまり、弱いチームが強いチームに勝つ確率がかなり高くなります。実際、日本対コートジボワールの試合でも、2点を入れられた魔の二分間がなければ十分勝つことが可能でした。だからといって、僕から見てもやはりコートジボワールの方が強かったと認めます。でももうちょっと運がよければ、日本は勝てたかせめて引き分けにできました。結局、実力に差があっても入る点数が少ないから、弱いチームでもだいぶ勝つ可能性が高くなる。これこそ、サッカーの人気につながるのです。

世界のマスコミ報道を読むと、『ブラジルが昔からやってきたサッカーが見られなかった、ブラジルの時代は終わりだ』と嘆かれています。何しろ僕が子供だった1960〜70年代は、ブラジルのサッカーは世界を圧倒するとともに人々を楽しませていました。英語のプレーには遊ぶという意味もありますが、本当に遊びのような楽しいサッカーでした。個人の技がすごくて、力のサッカーではなくもっと遊び心のあるサッカーが、今回ブラジルが勝った試合でも見られなかった。どちらかというとヨーロッパのサッカーのようになってしまいました。

日本にも関係ないわけではない。日本チームの結果が振るわなかった要因も同じところにあると僕は思います。サッカーの中心はお金の掛け方が半端ではないヨーロッパに移ってしまい、ブラジルの代表選手のほとんど、また日本代表の主力選手もヨーロッパのクラブチームでプレーして、ヨーロッパ式のスタイルが身についている。一年間のうち、自国の代表チームでプレーする時間は極めて少ない。ブラジルのスター選手だったペレはサントスというチームでずっとプレーしていました。ネイマールは同じサントス出身ですが、バルセロナに行ってしまいました。アルゼンチンのメッシも同じです。結局、自国を離れてプレーしていると、自国の選手と阿吽の呼吸が合わなくなる。逆に優勝したドイツの場合、スタメンの半分ほどが同じチーム、バイエルン・ミュンヘンでプレーしています。彼らこそ普段から毎日一緒に練習していて、お互いのことをよく知っていて良い連係プレーができるはずです。これからも日本のいい選手がどんどんヨーロッパに出て行ってしまうと、次回のワールドカップもあまり期待できないのではないかと悲観しています。
 

☆ソチオリンピック

(2014.03.07)

 新年が始まって既に二ヶ月も過ぎましたが、新年最初のメッセージなので明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 ソチオリンピックも無事に終わりましたが、開会式閉会式を含めて一秒たりともテレビで見なかったことを誇りに思います。なぜかというと、オリンピックはスポーツの国際祭典と言われていますが、僕ははっきり言って国粋祭典としかみなすことができません。ロシアはプーチン大統領が自国の素晴らしさ(?)を見せるためにやったのはもちろんのこと、各国の報道を見ても非常に国粋色が強い。何しろほとんどの新聞の大見出し小見出しはもちろんのこと、内容もほとんど自国の選手の活躍にしか触れられていません。テレビは見ていないけれども、ラジオのニュースは一日何度か聞いていました。一例として挙げたいのは、僕が同じ日に五回聞いたNHKラジオのニュースで毎回、小野塚彩那選手がスキーハーフパイプで銅メダルを取ったことが全く同じ内容で繰り返されていました。ところが、金メダルと銀メダルの選手に関しては一度たりとも報道されませんでした。当然中継で見ている人は知っているでしょうが、ニュースの場面ではそれはどうでもよくて、いかに日本のメダルが一つ増えたことだけが重要かを物語っています。

 そのメダル数ですが、アルベールビル大会を超えて自国開催の長野大会を除いて冬季五輪では過去最高の8つで、いかにも日本人選手の活躍は素晴らしかったと強調されていました。これは間違いなく各国同様、政治家たちにとって国民へ発する内閣支持率を高めそうなメッセージとなっています。数字は数字でその通りですが、アルベールビル大会の時は57競技に対して7つのメダル、ソチでは競技数が98にも増えているので、そう単純にメダル数が増えたとは言えないのではないでしょうか。同じ割合でメダルを取ったとすると、7×98÷57≒12.03。つまり12個ならアルベールビル大会と同じ活躍ぶり、12個を超えていたらアルベールビル大会以上の活躍ぶりと言えるわけです。今大会から正式な種目になった競技で獲得したメダルもあります。

 いずれにせよ、オリンピックからますます“参加することに意義がある”という本来の精神が消えつつあり、残念に思われます。とはいえ、ラジオでいいニュースも聞きました。ロシアで大会を開催するために、18,000人ものボランティアの若者が参加したそうです。現地での宿泊は組織委員会が用意して旅費は自己負担で、たくさんの応募者から選ばれた若者達が選手団の世話をしたり通訳をしたりして、多くの外国人選手と接して素晴らしい国際体験をしたでしょう。2020年の東京オリンピックの際には是非ともこれを参考にしてもらい、日本の若者にも国粋体験ではなく本物の国際体験になるように、日本人と外国人の心に響くふれあいが増えることを願います。
 

☆ロシア

(2013.11.22)

 36年ぶりにロシアを訪れました。僕が以前行った時はソビエト連邦の首都の頃なので、その間の変化は非常に大きかったといえます。ソビエト連邦が崩壊し様々な共和国が独立したとはいえ、ロシアは今でも世界で最も面積の広い国です。その首都モスクワを訪れるのは三回目ですが、前の二回は冬でとても寒くて外を歩くのも大変で、今回初めて初秋の心地よい季節に行き、毎日何時間か街を散策して色々なものを見ることができました。そして感じたのは、モスクワはまさに帝国の首都にふさわしい街だということ。スターリンの時代からとんでもなく大きなものを作ることに熱心だったようで、昔も今も驚いたのは建物の長さでした。日本にも集合住宅のように長い建物はありますが、長くて50mくらいじゃないでしょうか。ロシアでは200mを超える長さのビルも珍しくなく、一つ一つのビルが非常に大きい。モスクワの街の中央にあるのは赤の広場で、その一部は政府の中心クレムリンです。そこから放射線状にいくつか道が伸びていますが、日本では想像もつかないくらい広く、片方で6〜8車線もあります。環状になっている道もあり、最も遠いのは首都圏で今も建設中の圏央道とほぼ同じで半径が中心から50km離れているので、道路の長さはちょうど314km(円周率の100倍)になります。日本の圏央道や環八は完全に丸い形ではありませんが、モスクワではほぼ丸い形です。ロシアの人口は日本の約1.2倍、面積は約40倍もあるので、人口密度は日本が30倍以上にもなり、地形もモスクワ周辺は平坦で、道を作りやすいからです。

ロシアは環境汚染や大気汚染がないわけではないけれども、意外と緑が多く、モスクワ川には魚が生息していて、政府は観光資源としてのモスクワを活かそうと力を入れているようです。ビザの発給を以前よりかなり簡単にしていて、西洋からの観光客も大勢いましたが、観光客で圧倒的に多かったのはロシア人です。多くの場合は、大型バスでモスクワに来て何日間か観光して帰るそうです。旧ソ連時代はこういった観光は難しかったので、かなり自由になりました。街の見た目で大きく変わったのは、ロシア正教会です。以前はほとんど人が通わず古びたまま放置されていましたが、今は独特の玉ねぎ型の屋根が色鮮やかに塗られて綺麗にされています。36年前に三ヶ月間モスクワに滞在した時は、赤の広場にある聖ワシリー大聖堂以外の教会はあまり目に入りませんでしたが、今は街の至るところで教会が目立つようになりました。人々の一部はかなり宗教に熱心で、政府も一種の精神安定剤として利用しているように思われます。PUSSY RIOTというパンクロックグループが教会を馬鹿にするような歌を歌って、神への冒涜として逮捕され服役するという事件もありました。プーチン大統領は、国を安定して治めるためにロシア正教会を役立てているのでしょう。なぜそのようなことが必要になるかというと、東欧諸国も同じですが、共産主義がなくなってから突然貧富の差が広がりました。道を走っている車を見ると、まだ旧ソ連時代に作られた古い車もありますが、製造は中止されています。世界最大の面積を持ちG8にも入っている大国が、国産車の製造は止めて、様々な国の会社がロシアで車を組み立てたり輸入したりしています。日本、アメリカ、ドイツなどの大きな新車がたくさん走っていました。これらの車はもちろん安くありません。同じく、日本ではあまり見ないリムジンもモスクワでは結構走っていました。共産主義が終わって、新しいビジネスチャンスに機敏だった人はこういう高級車に乗るお金持ちになりましたが、もちろんそうではない人の方が大半です。ロシアでも高齢化が著しくて、老人で年金暮らしの人はかなり苦しい生活を強いられています。そういう人たちの慰めのためのロシア正教会だと僕は見ています。

ロシアは矛盾の国でもあります。どんな矛盾を一番感じたかというと、国家はアメリカに対立して人々もアメリカは嫌いだと言いますが、一方、暮らしの上では非常にアメリカに憧れています。日本でも嫌なほど和製英語が増えていますが、ロシアも負けない勢いで、昔はなかったロ製英語を街でたくさん目にしました。マクドナルドは非常に賑わっているし、バーガーキングやサブウェイもあります。一方、ロシア生まれのファーストフードのチェーン店も結構あります。因みに、日本食は人気が高くて、SUSHIという名前のチェーン店もあればWABISABIというチェーン店もあります。すしといっても日本の握り寿司とはだいぶ違い、ご飯を丸くしたものにいくらやサーモンが巻いてありました。郊外に行くと、車のショールームやイケアや大きなスーパーがたくさん並んでいます。人々の一番大きな出費は日本と同じく住宅で、モスクワのアパートは数が足りなくて高いので、大学を卒業した優秀な人が大学に就職できないことも多いそうです。というのも、大学は先生に住むところを提供しなければならないという法律があるので、大学側にとっては割に合いません。ですから、モスクワ出身の人は大学に就職できますが、地方出身の人はなかなか難しい。そこで、ちょっとでも豊かな暮らしをしたい人は、仕事を掛け持ちしています。実際、僕をロシアに呼んでくれた教授も五つのところで働いています。一つは民間のコンピューター関係の会社で、あとは週に一日ずつ別々の二つの大学で正式な教授としてゼミを持っていて、さらに定期的に他の二つの大学で教えています。だから、信じられないほど忙しい。ロシアでは一部の人は非常に仕事熱心でお金を稼いでいますが、ほかの多くの人はあまり働かなくて給料もとても安いようです。

赤の広場にはグム百貨店というデパートがあります。昔はロシア唯一のデパートで、他にはない様々なものを売っていました。実際僕も1977年つまり36年前に留学した時、ハンガリーに戻る前に両親にそこでお土産を買いました。父はカメラを所望していたのでロシア製のカメラを買いましたが、母が一番欲しがっていたものはなんと食器洗い機でした。僕は20kgほどの重さがあるものを買い、頑張ってホテルまで運び、電車でハンガリーの母のところまでなんとか届けました。母は感動の涙を流してくれ、僕も息子としての達成感に満たされましたが、実はその機械が家で使われたことは一度もありません。なぜなら、水道からお湯が出ないと使えない機械でしたが、当時我々が暮らしていた団地では台所の水道からお湯が出なかったのです。捨てるわけにもいかず、それから10年以上もただ物を置くだけの役割で置いてありました。このような思い出のあるデパートを見に行ってみると、昔とは比べられないほど綺麗になっていて、世界中の有名ブランドのお店ばかりで、売っているものは一般のロシア人にはとても手の出ない値段です。知人のロシアの地方都市で働いている大学教授は「博物館のようだ」と言いました。ロシアで貧富の差が広がって、ほんの一部のお金持ちだけがこういうところでお金を使い、ほかの大多数の人はただ見るだけという状況を上手く言い表しています。                     
 

☆TV出演情報

(2013.9.26)

10月〜12月のNHK Eテレの絵本を作る番組に出演しています。絵が下手で、しかも中学校以降は筆や色鉛筆を手に取ったこともない僕で、番組はどうなるのか凄く心配した。しかし荒井良二先生の自由な態度とおおらかな指導の下、非常に愉しい講座になった。絵を描くことや絵本を作る面白さもわかった。詳細はぜひブラウン管でご覧下さい!

「趣味Do楽 荒井良二の絵本じゃあにい」

<放送日時>
2013年10月1日〜11月26日(全9回)
NHK Eテレ 毎週火曜日21:30-21:55

<再放送>
NHK総合 毎週水曜日10:15-10:40
NHK総合 翌週火曜日11:30-11:55
 

☆ブラジルでの釣りについて

(2013.9.6)

 まずブラジルでの釣りについて話したいと思います。ほぼ毎週海釣りに行っている僕は、ぜひともブラジルでも釣りをしたいと考えましたが、思ったほど簡単ではなかった。僕をサンパウロ大学に呼んでくれたヨシが、本屋で釣りに関するパンフレットをもらってきてくれてインターネットでもいろいろ調べたところ、サンパウロの港サントスでは釣り船を探すのも簡単ではなく、しかも釣果情報を見るとスズキどころかフッコのような50cmくらいの魚が何匹か釣れるくらいで興味を持てませんでした。他に見つけたのは、昔海から石油を採った施設の跡の周りでシイラを釣るところでしたが、サンパウロとリオデジャネイロの中間位の場所から船を出すために少なくとも10人必要で、しかも一人700レアル(日本円にして三万円以上)かかり、無理でした。一番可能性を感じたのは、釣り堀のようなものでした。YouTubeで動画を見ると結構大きな魚が釣れるようです。昼ごはんを食べながら釣りに行きたいという話をしたら、ヨシの親友で大学の情報科学科の日系人教授が「もしかしたら手伝えるかもしれません」と言ってくれました。そして、釣り上手という評判の元弟子ヴェロニカに、僕を釣りに連れて行ってくれるように頼んでくれました。

地下鉄の駅で待ち合わせをすると、彼女は30代半ばの綺麗な女性で、一緒に来てくれたご主人は奇遇にもピーターと同じ名前のペドロといい、弁護士で車も立派でした。話をするとペドロは釣りをするのが初めてで、わざわざ釣竿を3本買ってきてくれたそうです。サンパウロから北へ高速道路を60km走りさらに山道を15分程走って、着いてみるとびっくり。日本の釣り堀とは雰囲気が全然違って、高いフェンスに囲まれて、完全なリゾートという雰囲気で、レストランや釣具屋や子供向けの遊園地のような遊び場や乗馬や山登りなど、様々な施設があります。大小二つの池があり、我々はまずは大きな池に行って釣りを始めました。ヴェロニカが仕掛けに餌を付けて投げてみると全然飛ばず、あまり釣りをしたことがない感じだった。よく話を聞いてみると、彼女は子供の頃ゴイアス州に住んでいて、釣り好きのおじが船で川に連れて行ってくれてよく釣りをしたそうで、小魚を釣って餌にして大きな魚を狙い、彼女も何度も釣ったそうです。その話を大学でしたので彼女は釣り名人というイメージができましたが、実際は釣り堀での釣りは経験がない。結局、釣り堀とはいえどこでも魚がいるというわけではなく、どの深さまで餌を下げるのか、ぶっこみと言って底に置いておくのか、餌は何がいいのか等、どういうやり方がいいのかよくわからず、あまり釣れそうもありませんでした。他の人に聞くのが一番いいのだけれど、周りの人も釣れていない(笑)。

しばらくやってから二人を残して僕は散歩に出かけて、大きい池を一周すると一人だけ魚を釣り上げている人を見たけれど、私たちと道具が違っていたので参考にはなりませんでした。次に山に登ってみると、日本で言うと11月の後半なので、綺麗な鳥は見たものの珍しい動物や虫は見られなかった。それから小さい池に行ってみると、一家族がティラペヤという魚を釣っていました。いいなあという顔で見ていると、一人の子供がやめたので、お父さんが「やりますか」と誘ってくれ、僕は喜んでやらせてもらいました。お父さんが教えてくれたやり方は、3m位の一本竿に2m50cm位の糸の先の針に練り餌を付けて水に入れてうまく誘ったら、ティラペヤが食ってくれる。もちろん逃げようとするけれども、竿の柔らかさを武器に上手にやり取りすれば1,2分でティラペヤが疲れて上げることができる。僕もコツを掴んでから10匹以上釣ることができて、一番大きいのは1,5キロくらいでファイトも楽しかった。ご家族ともいろいろ話して、とても良い時間を過ごしました。彼らは、ティラペヤは持って帰って食べようとしたので、僕が釣った魚ももちろん献上しました。そこにペドロが心配して探しに来たので、ご家族にお礼を言ってレストランに昼食を食べに行きました。美味しいものをたくさん食べ、午後からは三人でティラペヤを釣ろうということになりました。彼らが持っていたのは投げ竿二本と一本竿一本だったので、僕が一本竿と練り餌を買い、餌の練り方を教えてもらって小さい池に戻ると、先ほどの家族は帰っていたので、僕が先生の役割で二人に釣り方を教えました。結局、三人で十数匹釣って捌いてもらって持って帰りました。僕は以前、エチオピア人がナイル川でティラペヤを釣って食べるのを見ましたが、そこの人たちだけが食べるのだと思い、普通に食べられている魚とは知りませんでした。サンパウロのスーパーでもたくさん売っていて、ヨシに話すと買って刺身にして食べさせてくれて、意外と美味しかった。
 釣りに関して感じたのは、貧富の格差がすごくあることでした。田舎の方に行くと川で釣って食べるのでしょうが、サンパウロでは普通の人は釣りとは縁がなく、お金がある人は趣味として釣りをして、会員制のクラブみたいなところで一日楽しく過ごしながら釣りもする。日本のように、釣り堀に行くと上手な人ばかりで、様々な職業の人がお互いと技を競い合うという雰囲気ではない。しかし、絶対に行ってみたいところを釣り雑誌で見ました。エコロッジといってアマゾン川の上にあるホテルです。アマゾン川の上にあるといえば皆さんどんなことが頭に浮かびますか?実はアマゾン川は一年のうちに10m以上の高低差があり、場所によって乾季には水がないが、雨季には5m以上の水があり、植物や動物がたくさん現れてくる。そういうところでは、水の上に浮いている船のような建物が作られます。エコロッジもかなり大きな水に浮くホテルで、木で出来た三階建てで、玄関から船に乗ってすぐに釣りができるそうです。ブラジルにまた行く際には、是非泊まって体験してみたい。

 釣りといえば、リオデジャネイロでも釣りをしている人を見ました。リオデジャネイロで最も有名なコパカバーナというビーチの近くのホテルは一泊2〜3万円ととても高いので、安く泊まれないかと探していると、登録したメンバーに世界中で家の一室を貸したい人を紹介してくれるAirbnbというサイトをヨシが教えてくれた。そこでコパカバーナから徒歩10分ほどの家を一泊五千円程度で見つけ、三泊しました。素敵な家族で、60歳位の女性に二人の子供と大きな犬がいて、トイレバス付きの独立した部屋を貸してくれて、鍵をもらって夜遅く帰っても問題なく、家族といろいろ話して情報を得ました。夕方リオデジャネイロに着いてすぐにビーチに行くと、様々なスポーツをやっている人がいて、ヤシの実を割ったジュースを飲んでとうもろこしを食べながら歩いていくと、釣りをしている人がいた。膝まで海に入って遠くまで投げて、竿を竿立てに差して当たりを待つことを繰り返しています。何にも釣れなかったそうですが、ガッカリしている様子もありません。
 リオデジャネイロは世界一綺麗な街だと以前に数学者の友人から聞いていましたが、僕もやはり世界一美しい都会だと思います。これだけ自然が美しい街はないでしょう。リアス式海岸なのに、とても綺麗な砂浜が至るところにある。年中暖かくて、市内に熱帯の原生林まであります。数学の研究所の近くにもあって、晴れた日には猿などの動物も見えるそうです。僕も見たいと思っていましたが、着いた夜の翌日から熱帯のスコールが降り、猿は残念ながら見えませんでした。研究所は世界的にも高いレベルの素晴らしいところで、行く途中にはいくつも海岸を走ってトンネルを抜けて、美しい湖のそばを走りました。シュガーローフという山からは街が綺麗に見渡せ、船や橋からも美しい街並みが楽しめ、皆さんにもいつか是非訪れてほしいと思います。
 この間、ローマ法王がリオデジャネイロを訪問し、ミサを開くはずの郊外の場所が集中豪雨で水浸しになって急遽コパカバーナに変更され、法王を乗せた車が握手を求める人で止められて、新聞には安全性が十分じゃなくオリンピックは大丈夫かと書かれていました。しかし、人が攻撃されたわけでもなく、何が悪いのか僕にはわかりません。実際は、以前に比べるとかなり治安が良くなったらしい。犯罪は30年前にオリンピックの開かれたロサンゼルスより少ないらしいが、当時ロサンゼルスは犯罪が多いからオリンピックはどうかという話は見聞きしませんでした。悲しいことに、殺人事件などの犯罪の大半は経済的に恵まれない人が起こすことが多い。彼らが暮らす地域と立派なスタジアムがある地域は異なります。ローマ法王はファベラと呼ばれるスラム街にも行きましたが、普通の観光客が足を踏み入れるところではない。オリンピックがブラジルの一般の人にどれくらい恵みをもたらすかはわかりませんが、治安がそんなに影響するとは思えません。思い出すのは、2010年にサッカーのワールドカップが南アフリカで開催された時にも治安に対して非常に不安視されたが、全く問題ありませんでした。基本的に人はよほど運が悪くなければ事件に巻き込まれることはないと、世界100カ国を旅したピーターは思っています。
 

☆ブラジルについて

(2013.7.17)

 アトランタから向かったのはブラジルです。はっきり言ってブラジルのことは、恥ずかしいくらい知りませんでした。僕のいとこが昔ハンガリーの共産主義時代に、国営商社の代表として5年間ブラジルに滞在し、その両親である叔父と叔母がブラジルを訪れた際の写真を見たのが、僕とブラジルの唯一の関係だったと言っても過言ではない。今回は、ボイタを通じてサンパウロに住んでいる日系人数学者ヨシのところに二人で行くことになりました。そこで、ブラジルに行く前にポルトガル語を勉強したり、ブラジルの新聞をインターネットで読んだりしました。ところがみんなに、僕のいとこも駐在していたブラジル最大の都市サンパウロは、とてもつまらない汚い街でしかも危険であると言われました。一方、第二都市リオデジャネイロは、世界一美しい都会であると評判がとてもよかった。そこでリオデジャネイロは必ず訪れようと心に決めて行きました。
 空港に着いてまず驚いたのは、いかに簡単に入国できたかということです。日本やアメリカでは指紋押捺、写真撮影など様々な嫌な入国手続きを経てやっと入国できますが、ブラジルではビザが要らない関係を持っている国の人なら、ほとんど顔パスという感じでした。パスポートを渡すとチラッと顔を見て、すぐにスタンプを押してくれ入国できました。ちなみにアメリカはブラジル人にビザ無し渡航を認めていないので、対抗してブラジルもアメリカ人にビザ無し渡航を認めず、アメリカ人はビザを取得しなければなりません。そこで友人ボイタはアメリカを出国するときはアメリカのパスポートで出て、ブラジルに入るとEU加盟国チェコのパスポートを使いました。パスポートを二つ持つと便利だなあと痛感しました。
 ヨシは空港の出口で待っていてくれて、彼の車に乗りました。僕から言わせると、とっても愉快な車で、かなり古い赤いルノーでもう20万キロくらい走っていました。ブラジルは新しい車ばかりなので、非常に目立ちます。10年前にもすでに古かったヨシの車に乗ったことのあるボイタは、駐車場で遠くからすぐに「あれがヨシの車だ」と見つけて指差していました(笑)。街に入ると、サンパウロがいかに大きな街かと感じました。空港から街の中心に向かう高速道路は、片側6車線ほどもあり、それでもよく渋滞するそうです。サンパウロは、世界の人口が多い都市トップ10に入っていて、東京の23区に相当する部分でも1100万人の人がいるそうで、極めて大きな街です。最近は中年米の他国でもそうらしいが、高層マンションが増えています。ヨシが住んでいるのも高層マンションでした。車の入口はリモコンでしか開けられず、地下1階から地下4階まで駐車場で、一家に2台分の駐車スペースが与えられています。言うまでもなくヨシは1台しか持っていないので、いつも堂々と2台分のスペースに斜めに車を停めていました。歩いて帰ると、入口に守衛さんがいて、住人であることを顔で確認するか、住人から○○が来るという情報を基に入れていました。チェックが厳しいということは、街がそこまで治安が良くないことを物語っているかもしれません。ヨシのマンションは3台のエレベーターがあって、各階に三軒の住居しかなく、エレベーターから降りると直接自分の家に入れるようになっています。彼の家は23階で3LDK位の広いベランダ付きのとても立派なマンションで、街を見渡すことができました。ちなみに、東京も非常に車が多く、日本ではほとんどの人が車を買うことができるが、ブラジルは車もガソリンも高く、中流より上の人たちだけが車を持っているらしい。どのガソリンスタンドでも、エタノールというトウモロコシから作られた燃料を売っていました。世界で初めて第三燃料を導入したのがブラジルです。しかし、値段は決して安くはないので、環境には優しいが利用者にとってメリットはあまりなく、相変わらず普通のガソリン車が多い。
 ヨシが私たちを案内してくれたのは、サンパウロのシャンゼリゼとも言うべき一番の中心部で、そこにホテルを取ってくれていました。10日ほど滞在するので、アパートメントタイプのホテルにしてくれて、2LDKのマンションのようで、その割に一泊一万円くらいで手頃でした。サンパウロのシャンゼリゼ通りはパウリスタアベニューという名前で、サンパウロの大通りという意味です。サンパウロに住んでいる人たちもパウリスタと呼ばれます。ボイタが最初に行った頃は治安が悪かったそうですが、最近はだいぶ良くなって、私たちも毎晩食事をした後に、10時や11時頃に一時間以上もパウリスタアベニュー周辺を歩いても平気でした。土曜日の午後は、大道芸としてバレエをやっている人も見ました。道に大きな絨毯を敷いて、音楽をかけて、三人の女性が踊りましたがかなり上手で、しっかり帽子に投げ銭を入れてきました。サンパウロは東京に負けないほど高い建物が並んでいて、デパートや専門店やオフィスやホテルが多く、大都会でした。
 その日はホテルにチェックインを済ませてから、すぐにUSPサンパウロユニバーシティーに行きました。USPはブラジルの一番いい大学で、非常に広いキャンパスで、緑が多く、とても雰囲気が良かった。ここに通えるのはエリート中のエリートで、新しい建物もどんどん増えています。というのも、ブラジルはかなり教育にお金を注いでいます。外国人を招待するのにも積極的で、いつでも招待してくれると僕にも声がかかったし、数学科に行くと、南米諸国だけでなくロシアやベトナムなどからの客員教授もいました。日系人はヨシを含め、40人中8人と多かった。ブラジルの人口の1%が日系人なのに数学科では20%と、いかに日本から移住した人達の頭脳レベルや教育熱心さが高かったかを物語っているでしょう。大学の学生食堂もとてもきれいで立派で数学科の先生たちと何回も行ったが、日本よりも高かった。好きなものをあれこれ選んで皿にのせて、最後に重さを量って値段が決まるやり方ですが、大体1000円を超えていました。
 値段の話が出たついでに、ブラジルの暴動について話をしましょう。サンパウロはどこもすごく発展していてきれいな街で、道も整備されていて緑も多くて、魅力的な街にしか見えなかった。でもこれは、あくまでも上流社会の人の世界で、1100万人の人の1割5分の人の暮らしです。街の周辺のあちこちにはスラム街もある。一般の人の暮らしと上流階級の人の暮らしはかけ離れているようです。ブラジルは以前に比べると非常に発展してきましたが、一般の人の給料はそんなに高くなく、日本の平均的なサラリーマンの給料の何分の一らしい。でも、スーパーで売られているものの値段は、日本とそう変わらなかった。それを上流階級以外の8割5分の人が払うのは大変です。ブラジルの地下鉄は日本と違ってどこまで乗っても値段が変わりませんが、その値段を上げることが暴動の発端になったそうです。その値段は日本円にして150円を160円に上げる程度で、いかに人々が痛みを感じているかを物語っています。
 コンフェデレーションズカップというサッカーの大会中に暴動が起こり、FIFA国際サッカー連盟の会長は、ワールドカップによって新しいスタジアムやホテルができてブラジルにどれだけ利益が与えられるかと言っていました。けれども結局、ほとんどの人はそのホテルに泊まることはないし、スタジアムの入場料は高くなって、ますます行きづらくなってしまう。コンフェデレーションズカップの決勝が行われたブラジルで最も有名なスタジアムであるリオデジャネイロのマラカナンスタジアムは、昔は20万人ほどの人が入れました。事故を機に8万人程度に縮小しましたが、もし20万人のままなら満員になることはないでしょう。ワールドカップの時は世界中の人が訪れてもちろん満員だろうが、普通の国内の試合ではそうはならない。というのも、入場料が高いのです。ブラジルではもちろんサッカーは人気スポーツナンバーワンですが、一番サッカーが好きな労働階級の人は高い入場料を払って見に行けるわけではない。実際、ボイタと夜の街を歩いていると、ほとんどのカフェでサッカーの試合を放映してたくさんの人が見ていた。労働階級の人々にとって、ワールドカップが行われてもその後にいいことがあるかは疑問です。
 ブラジルは建設ラッシュで、中から上流階級の人々が増えていることもあり、高層マンションや高級デパートも増えています。有名なブランドはみな店を持っているが、日本よりも高い値段でものを売っています。驚いたのは、ブラジル産の食料品は日本と同じくらいの値段で売っていたが、輸入品は日本の倍くらいした。友達になったブラジル人カップルの話を紹介しましょう。新婚旅行にマイアミに行き、何をしたかというとショッピングです。マイアミには世界一大きなショッピングモールがあって、最近の売上高の一番はブラジル人だそうである。荷物をあまり持っていかずに、鞄いっぱいに買い物をして帰るそうです。安く買い物をして得した分で、飛行機代がタダになるくらいだそうだ。そのカップルは赤ちゃんができたら、またマイアミに赤ちゃんのものを買い物に行くそうです。どんどん続いている値上げで労働者階級の暮らしは苦しくなる一方で、格差が広がることで精神的ダメージが大きく、それが暴動の一因でしょう。
 ブラジルでは公立の学校と私立の学校で、設備の良さとか教育のレベルがかなり違うらしい。ヨシが通っていた私立高校もサンパウロで一番良い学校の一つと言われていて、彼の同級生でサンパウロの市長をしている人や医者や弁護士など成功してお金持ちになっている人が多いそうです。公立学校はレベルが高くなく、今のルセフ大統領は公教育のレベルを高めようという努力はしているが、その努力はまだそこまで実を結んでいないようです。実際、リオデジャネイロで知り合ったイギリス人数学者は、毎年ブラジルの首都ブラジリアに行って、公立高校に通っている優秀な学生に数学を教えているという。公立高校の生徒だけを対象にした数学などのコンテストがあり、表彰式ではなんと大統領自ら表彰状を渡しているそうです。ここで入賞した学生たちを年に何回か集めて優秀な数学者が講義をしているが、にもかかわらず、数学オリンピックのブラジルチームの代表に今まで一度も公立学校の生徒が選ばれたことはないそうです。どこまで私立と公立の学校の教育レベルの格差があるかを物語っています。
 こうした様々な格差によって暴動が起こりましたが、政府も格差を縮めようとなんとか努力することを心から願うばかりです。
 ブラジルの話はまだ続きます。次回はブラジルでの釣りとリオデジャネイロについて話すので、お楽しみに!
 

☆アメリカについて

(2013.7.1)

久々の更新です。実は一ヶ月ほどアメリカ合衆国とブラジルに行ってきました。今回はまず、アメリカについて話したいと思います。
 昔はよくアメリカの大学に行って、毎年何ヶ月間か過ごしていました。でも日本で本格的に仕事を始めてから、アメリカはだいぶ遠くなりました。さらに、できるだけまだ行ったことのない国を訪れようと思うようになり足が遠のいた。しかし今回は、何度も招待してくれた友人である数学者ボイタの勤める、アトランタのエモリ大学に行ってきました。

 エモリ大学は、かの有名なコカコーラ社が一部出資してできた大学で、今でもスポンサーの一つであり、キャンパスでペプシコーラは一切売っていない。大学に着いた日に数学科の建物の1階で自動販売機を見つけ、早速コカコーラを買ったが、値段にびっくりしました。日本とそう変わらなかった。そういえば、僕から見てあまり賢い政策とは思えないが、安倍政権はデフレ脱却を叫んで強制的にインフレを起こそうとしています。確かに日本で暮らしてきたこの四半世紀、食べ物の値段はあまり上がらなかった。僕は、アメリカは食べ物が安くて、貧困層の人でも食べることには困らない印象を持っていました。思い出すのは、かれこれ30年以上前に初めてアメリカを訪れたとき、ニューヨークの郊外でアイスクリームの店サーティワンに入って1ドル30セントのシングルを頼むと、食べきれないほど大きいアイスが出てきました。ところが今回アトランタに行って、アイスクリーム屋がなかなか見つからない中、ショッピングモールでようやくハーゲンダッツの店を見つけましたが、シングルで4ドル50セントもして、量も日本とほとんど変わらず決して多くはありませんでした。高くなったのは大好きなアイスクリームだけではなく、アメリカのスーパーの食品などの日用品は何でも四半世紀前に比べると三倍近く値上がりしていました。それが良いのか悪いのかは賛否両論あると思うけれども、僕個人の経験から言うと、インフレが起こると貧乏な人は損をしてお金持ちは得をする。アメリカもそんな感じでした。労働者階級の人々の給料はこの四半世紀であまり上がったわけではなく、エリート達の給料は跳ね上がった。友達ボイタも、アメリカで就職した四半世紀前に比べて四倍以上の給料をもらっています。だから食品の値段が三倍になっても痛くも痒くもない。

 エモリ大学は、ジョージア州では最も良い私立大学です。最後に行ったときに比べて、キャンパスはとっても綺麗になり、新しい建物がたくさんできていました。アメリカの大学の特色として、どんな建物にも誰々の○○科というように名前が付いている。つまり、多額の寄付をするとその建物に名前が付くのです。ついでに大学の経営について話をすると、先生方の給料はそれなりに高いが、年功序列によるものではなく、あくまで実績による。給料がどれだけ上がるかは成績により優秀な先生ほど給料は高くなるので、必死に働きます。日本の先生もアメリカの先生も基本的に毎日大学に行くが、ハンガリーやフランスやイタリアの先生はそうではない。給料が安いから仕方がないでしょう。だいたい毎日大学に行く日本とアメリカの先生ですが、やっていることはかなり違います。日本の先生は会議で忙しく、書類の作成などに多くの時間を割く。一方、アメリカの先生は研究や学生の世話に忙しい。ボイタの研究室にいると、30分に一回は必ず学生が訪れてきて、その学生たちに対して彼はとても親身になって対応していました。僕が着いた時はちょうど期末テストの時期で、二日間かけて必死に成績をつけていました。日本では学生が成績に文句をつけることはあまりないが、ボイタが必死に考えて平等につけた成績に対して、変えてくれるよう多くの学生からお願いがきたのには驚きました。とにかく彼はとても忙しく、一緒に大学を出て家に帰るのが23時前なのは稀だった。ほとんど深夜まで大学にいて研究し、とても充実した滞在でした。

 日本では子供の数が減っているので、大学の経営のために積極的に海外からの留学生、とりわけ中国からの学生を入れている。アメリカは子供の数が減る傾向にあるわけではないが、中国の学生が極めて多い。その最大の原因は、次のことによるそうです。アメリカの学生は、入学試験に合格して大学に通う意思があると、お金がなくても入学を断られない。入学が決まった学生の親の収入が足りないと、大学が奨学金やローンなどの対策を講じなくてはならないそうです。アメリカ人の学生から入ってくるお金は少なくなっていて、その分、高い学費をきちんと払ってくれる海外からの留学生が頼みの綱で、大学からするとまさにドル箱。というわけで、特に理系の学問では中国人学生が三割近くいるのではないかと言われました。それ以外にも、インドや東南アジアなどからの留学生もかなり大勢いる。言うまでもなく、先生もアメリカ人は少ない。僕が見た数学科の先生の中では、確実にアメリカ生まれのアメリカ人と思われたのは40人中2、3人しかいませんでした。学科長は30年前にムンバイで会ったことのある立派なインド人数学者で、女性の素晴らしいインド人の先生や中国人数学者もいました。世界の人口分布から考えても、将来はおそらくこの二つの国の学者は増えるだろうが、今のところまだヨーロッパ出身の学者が多い。ドイツやロシアやポーランドやチェコやハンガリーなどの先生が大半を占めていました。

 ところが、これだけ大学は立派だけれども、アメリカに住みたいかというとなかなかそういう気持ちにはならない。まず、アメリカのテレビは超つまらない。日本でも家にはテレビがないのでホテルに泊まった時しか見ませんが、日本のテレビ番組はまあ面白い。行った時はボストンマラソンのテロ事件の後だったので、そのニュースがとても多く、しかも非常に強い国粋主義の考えを伝えていました。たった二人の愚か者のために、他の海外からの留学生全員を敵対視するかのような低レベルの発言が多かった。他のニュースもほとんどアメリカと直接関係があるものばかりで、狭い視野でしか見ていないような番組ばかりの気がしました。

 面白いことに、最もアメリカらしさを感じたのは、なんと水族館でした。アトランタにとても大きな立派な水族館ができて、僕も訪れてみました。魚や動物は素晴らしかったが、がっかりしたのはショーでした。見たのはイルカショーで、イルカが主役だと思ったらそうではなく、ハリウッドのショーのように空想の話がメインでした。船が大きな嵐に遭って雨が降ったり雷が落ちたり、さらに鮫に襲われたりするが、結局最後はハッピーエンドに終わる。イルカたちは時々出てきてジャンプする程度の脇役でした。日本の全国あちらこちらの水族館で見たイルカショーに比べて、動物を紹介するレベルがかなり低かった。

 アメリカはこういう国だが、大学はとても立派で、これからも世界の学問の中心であることは間違いないと感じてブラジル行きの飛行機に乗りました。

☆新年のご挨拶

(2013.1.11)
新年明けましておめでとうございます。
去年を振り返ってみると、講演会は平均週一回のペースでやっていました。最盛期に比べると半分くらいの数になってしまいましたが、それでも僕はとっても楽しく全国各地を周り、色々なところで講演をさせてもらいました。
 余暇の時間はどのように過ごしていたかといいますと、趣味の釣りを楽しみました。こちらも基本的には週一回のペースで行い、一年の納めになった最後の釣りでは鮃を釣ったのですが、なんと18枚も釣れました。僕は今まで鮃釣りを5回やりましたが、5回併せても16枚しか釣れませんでした。今回の6回目はそれらを併せた数よりも多く、且つ大きな鮃が釣れたので1年の締めくくりとしては大満足の結果でした。2013年の釣りも、更に腕が上がるように頑張りたいと思います。また、全国各地で釣りを楽しみ、そしてできれば釣り番組などにも出演していきたいと思っております。
 とはいえ、去年の一番のイベントは、年末に行われた総選挙です。僕も日本人並みに、日本の政治には大分絶望しておりました。少しばかり期待していた民主党政権は成果を全く上げることができず、そして他の政党にも全く魅力を感じることができませんでした。例え僕が日本国籍を持っていたとしても、選挙は棄権したのではないかと思います。そんな中で自民党の圧勝となったのは、日本の選挙制度の結果としか言えません。実際、投票した人の3割程度しか自民党に投票してないのに、小選挙区のほとんどが自民党の勝利となりました。昔の中選挙区制度であれば結果は違っていたと思います。世界のいろんな国では、いろんな選挙制度がありますが、なぜ日本が小選挙区制度にしたのかは疑問で仕方ありません。
 僕が日本に住み始めた四半世紀前、ちょうどリクルート事件が起こって世の中では「政治改革」が非常に盛んになり、その下で40年近く続いた自民党政権に代わり、細川連立政権が発足しました。そしてこの連立政権の最大の業績は、政治改革の実行となっています。しかし、多くの国民が期待していたのは腐敗政治、政治家が企業から賄賂をもらいそれによって政治が動く、という制度が変わることだったと思いますが、その動きはあまり見られず、結局は「選挙改革」に留まりました。その「選挙改革」は3年半前の民主党の大勝を招いた、中選挙区を小選挙区に移すという改革でした。考えてみると、沢山の政党が乱立してそれぞれが主張をする中で、国民の意見を反映できるのは中選挙区制度ではないかと思います。票が割れる地区で一人だけが当選するとなると、例えばその人が得票率20%程度でもその地区の代表となってしまう、これは数学者の僕からみるととってもおかしな話なのです。中選挙区制度であれば、自民党の人はもちろん、他の政党からも2、3人の当選者が出ると思います。
 外国の制度をみてみると、ヨーロッパのいくつかの国では完全比例代表制が普通となっています。つまり、それぞれの党の議員の数は、得票率に比例して決まるのです。小選挙区の場合には、ポスターで顔を見てその中から選ぶ、そしてその人が自分の代表となるという、言ってみれば利点もありますが、よほどの有力議員でなければ大多数の議員が投票マシンとなってしまうのです。自分の党が“Yes”と決めたら“Yes”、“No”と決めたら“No”と投票するので、完全比例代表制度でもっと民意が反映されると僕は思っています。
 最近選挙が行われたのは日本だけではありません。お隣の国、韓国でもとても僅差で政権続投という結果になりました。それをみても、民主主義制度についてかなり考えさえせられます。国民の有効投票の51%が一人の候補に、49%がもう一人の候補に入れた場合、51%の得票だったほうが勝利感を得たとしても、49%の国民は絶望感を感じることになるのです。何かもっと良い制度はないか、と数学者の僕は考えています。  民主主義という制度は決して多数派の圧政のためにできたわけではないはずです。民主主義制度の意義は、できる限り多くの国民に自分の望んだ通りに生き、人生を楽しんでもらうというものであるはずです。たった1〜2%の差で、自分の選んだ候補が無視され、もう一方の政党がその国の政権を握るということは、どこか納得がいきません。皆さんはどう思っているでしょうか。
 日本の話に戻りますが、安倍内閣が選挙前から掲げてきたことの一つに憲法改革があります。これはつまり、日本人が戦後ずっと重んじてきた平和憲法から9条をはずし、日本を再び戦争できる国にしよう、というものです。前回の安倍政権の頃にこの準備が始まりました。その時の国民投票法案では、国会で方針が決まったらその後は国民投票を行い、50%以上の賛成票を得れば、たとえ51%の得票率でも憲法を改正するという結果になるのです。これもやり方としては、僕は甚だ疑問を感じます。
 イタリアでは、国民投票が成り立つために、2つの条件があります。1つは日本と同じように、有効投票数の中で賛成派が反対派を上回るということです。そしてもう1つは、投票した人の数が全有権者数の半数を超えるということです。これはとても大切な違いです。何故かというと、例えば国民の40%しか投票しなかった場合、その中で8割が賛成票だったとしても、これは全有権者の32%にしか当たらないのです。国民の32%の意見で憲法が改正されるのはとてもおかしなことです。日本でもまだ遅くないので、国民にとって最も大切な、唯一国民に様々な権利を与える法律である憲法、その改革をする制度をもっと厳しくするべきだと思います。
 様々な課題を投げかけましたが、僕としては今年も楽しく生き、そして将来へ向けての前向きな生き方を、講演会やテレビ出演などを通じて皆様に伝えていきたいと思っています。今年もどうぞよろしくお願いします。
 

☆週三回野球部

(2012.3.28)
東京は広い街で、23年住んでいますが、まだまだ知らない場所がいっぱいあります。時には裏道に入ったり、そのうち大通りに出れば大丈夫だろう、と想定したのとは違う道で歩いたりして、かなり遠くまで行ってしまうこともあります。

昨日もそうして歩いていると、2つの高等学校に通りかかりました。都立駒場高等学校と都立第一商業高等学校です。後者には横断幕が掲げてあり、そこには「ソフトボールチームが関東公立高等学校大会へ出場!」と書いてありました。それを見て、僕は自分が前から持っているアイデアは素晴らしいのではないか、と自画自賛しました。どういったアイデアかといいますと、高等学校において、運動だけを一所懸命頑張る運動部、運動を全くしない文化部もしくは帰宅部の他に、もう一つ選択肢を設ければいいのではないか、というものです。具体的には、運動も勉強もやりたいという人のために、週3回だけ活動をする部活を設けるというものです。

部活動を頑張っていると、当然他の部の人と対戦したい、競争したいという気持ちが芽生えてきます。しかし週3回しか練習をしない部の人たちは、年がら年中活動をしている人たちと同等に戦うことは難しい。そこで、週3回だけの部活のための地域大会、全国大会を設けたらどうか思うのです。昨日見た横断幕に書いてあるように公立学校のソフトボール大会が可能ならば、週3回だけの部活、愛好倶楽部、そういった部のための大会を設けることも実現可能なのではないでしょうか。

僕の生まれた国、ハンガリーでは、数学の全国大会にも色々な種類があります。中でも文部科学省が主催の、高等学校のための大会が一番大きくて、そこでトップ10に入ると全国の大学に推薦入学ができるのです。ところが、そういった大会をよく見ると3種類にわけてあります。普通科クラスのためのもの、理数科クラスのためのもの、数学を専門に勉強しているクラスのためのものという3種類です。数学専門クラスのある学校はハンガリーで10校ほどしかなく、週10時間程度数学を学んでいます。僕の住んでいた地域にはそういった学校がなかったので、理数科のクラスに通い、そのクラスのための大会に参加していました。

人は、自分が参加する大会で優勝したり準優勝したり、また、参加するだけでも大きな喜びが産まれます。日本でも、プロの大会以外でも様々なスポーツ大会が行われていて、アマチュアの大会もたくさん開催されています。今はすっかりプロのための大会となってしまったオリンピックも、昔はアマチュアのための大会だったのです。そのように変わってしまったことは非常に残念ですが、しかし、世の中の人の圧倒的多数は、スポーツをやってもなかなかプロにはなれないのが現実です。たとえプロにはなれなくても、健康のため、身体を鍛えるため、楽しみのためにスポーツをやっている人たちの応援になる大会も、とても有意義でしょう。

僕のアイデアをぜひ東京都から発信してほしいと思います。週3回野球部、週3回サッカー部を設けたら、きっと学生は十分集まります。そして、そういった部のための都大会があれば、そこで優勝したい、入賞したい、と頑張る学生がでてきます。たとえ週3回スポーツをしても、土日を除いてあと2日間は勉強に加えて映画鑑賞・劇場鑑賞・博物館見学などにあてることもできる。逆に言うと、東京などの都会に住みながらこのような活動を殆どしないのはもったいな過ぎるでしょう。現在の選択肢の下、運動部に入って運動を一所懸命やる、文化部もしくは帰宅部で運動を全くしない、という中では、やはり運動部に入りたがる人のほうが多いと思います。そこに中間の選択肢も設ければ、「大学受験や将来の人生のことを考えると、運動や勉強以外にもいろいろ経験したほうがいいのでは」というご両親の意見なども踏まえ、週3回の運動部に入って、まさに文武両道を実現しながら、はば広い視野を持つ豊かな人間に成長できるのではないでしょうか。皆さんはどう思いますか?
 

教育再生・東京円卓会議

(2012.2.24)
明けましておめでとうございます。
新年の挨拶が大変遅くなってごめんなさい。
今回は、先週出席した教育円卓会議について書きたいと思います。

都庁から教育円卓会議の依頼をいただき、石原慎太郎都知事、猪瀬直樹副知事、小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトを率いたことで一躍有名になった宇宙航空研究開発機構(JAXA)川口淳一郎さんと、理数科教育のあるべき姿について、議論をしました。
数学者として、また日本のたくさんの小中高校において講演をしている身として、非常に関心の高い話題でしたので、喜んで引き受けました。会議までに自分の意見をまとめ、海外の例なども色々調べました。会議自体は1時間半であっという間に終わってしまったため、自分の言いたいことの半分も言えなかったのですが、とても有意義で楽しい時間を過ごすことができました。

短い時間ではありましたが、僕が教育改革として大切だと考えていることの一部を述べることができました。
日本は明治以降、文武両道を理想としてきた国です。それは自分としても賛同できることでした。子どもにとって、勉強だけではダメ。それだけでは将来明るい良い人間にはなれないと思うからです。実際、運動は脳細胞にも良い影響を与えるらしいのです。
しかし、現実として日本の学校は、運動部に重点を置いています。その結果勉強は二の次となり、多くの先生は自分の教える学科に費やす時間よりも、運動部の顧問としての時間のほうが長いのではないかと思います。
また、2002年度以降、公立学校において学校週5日制が導入され、土日の授業がなくなりました。にもかかわらず、結局は土日も運動部の活動時間にあてられ、教育の運動部への偏りに拍車がかかったのです。
そこでピーターが提案したいのは、運動部と同等な科学部の設立です。
例えば、野球をやりたい人はやって良いでしょう。しかしそれと同時に数学や物理、化学や生物などに関心がある児童たちのためにも、学校はその活動を毎日一所懸命できる環境を整えるのです。
そうすることで、学校の中は真の文武両道となるのではないかと思います。
さらに、その活動を学校内にとどめず、ほかの学校の同様な部との交流、地域でのコンテスト、などの発表の場を提供すれば、科学の醍醐味をわかって、大学でもその専門の勉強を続ける若者がどんどん出てくるでしょう。このように部活は大リーグに通用する野球選手と共に世界的な科学者もたくさん生み出すと思います。

円卓会議の中でも紹介したのですが、僕にとってとても嬉しいことがあります。昔算数オリンピックで知り合った、数学の天才的な才能を持った片岡俊基くんという青年がいます。彼は三重県の高田高等学校に入学しました。数学はもちろん、運動にも強い関心をもち、初めはサッカー部に入っていました。しかし、サッカー部にいると自分の好きな数学をやる時間がまったくなくなってしまったのです。
そこで、彼は自分で数学ジャグリング部を設立しました。部活動としては、主に彼の指導のもとで、数学の問題を解いたり、問題を作ったりする。また、ジャグリングや一輪車の練習をするのです。
彼こそ、自分が作った部の中では文武両道を実現した人物だと思います。
彼はその後、数学オリンピックで4回も日本代表になり、金メダルも銀メダルも獲得するという、素晴らしい成績を収めたのです。

(つづく)
 

☆イタリア人の9割は原発に反対?

(2011.7.4)
イタリアで原発再開の是非を問う国民投票が6月12、13日に行われた。14日に開票作業が終了し、内務省によると、投票率は54・79%、原発再開への反対票は94・05%に達した。国民投票は成立した。

イタリアの国民投票制度は不思議である。ある議案が可決するための条件として、ひとつには「有効投票の過半数を獲得する」というものがあり、これはどこの国でも当たり前のことである。問題となるのはもうひとつの条件、「有権者の半分以上が投票へ行かないと議案自体が成立しない」ということだ。これがかなりの足かせになっており、イタリアでは過去計62回の国民投票のうち成立したのは35回。有効投票の過半数が賛成でも、かなりの議決が通らなかったのだ。

たとえ有権者であっても、よほど興味がなければ投票には行かない。法律とは本来国会が決めることであり、どうでもいいことを国民投票で決めるのはどうなのか、と疑問を抱く国民が多いのだ。

投票に行く人が極端に少ない場合、棄権者の意志を尊重して現状維持になるのは仕方のないことだが、こういう決め方によって人の戦略が変わる。

例えば原発問題について、反対派が六割、推進派が四割だった場合、推進派の人たちが国民投票でとるべき戦略は「投票に行かないこと」である。推進派が投票に行くことは自分たちに不利益に働くからだ。

四割である推進派がまったく投票に行かず、反対派六割のうち八割が投票に行ったとしても、有権者の48%しか行かなかったことになる。すると半分を超えていないため、国民投票としては認められず不成立に終わってしまうのだ。そのような「無投票の戦略」を推進派がとったのならば、原発反対派はイタリア国民全体の94.05%であったとは言えない。

過半数以下の支持をもっている人たちにとって、投票に行かないことが一番良い戦略ということになってしまう制度自体がおかしいのだ。民主主義の基本というのは、より多くの人が意見を出しあってひとつの議案を決める、ということにあるのに、最良の戦略によって投票率が下がってしまうのは本末転倒である。投票率が下がれば下がるほど、民意は反映されないからだ。

そういった裏にある戦略の結果示された数字だけを取り上げて騒ぎ立てるマスメディアについても、僕は疑問を抱いている。
 

☆ピーターからのメッセージ

(2011.6.2)
東日本大震災が発生してから間も無く3ヶ月になる。
犠牲になった方々のご冥福を祈りつつ、被害者皆様にお見舞い申し上げます。
復興が思うように進まないことで、日々のニュースを読む・聴くのも嫌になってしま う。

阪神淡路大震災はボランティア元年になったらしい。美しい諺「災い転じて福と成す」の通りとも言える。
犠牲者のためにも今回の震災を「丸々元年」にしないといけないだろう。
ピーターの提案は「時短元年」である。
先進国の中でも輸出黒字が多い2つの大国、日本とドイツを比較すると似ているところが多い。
天然資源が殆ど無いのに敗戦後は奇跡的な復興を果たした。労働力と技術の水準が高くて、国民は真面目で一所懸命であるなど。
一方、様々な違いもある。例えば、日本人に較べてドイツ人は全く時間に追われてない。労働者は残業をせず、年に6週間の有給休暇を楽しむ。

省エネ、電力不足が懸念される今日、日本も同じことを目指すべきではないだろうか。
そのために幾つかの具体例を挙げてみよう。

(1) デパート
日本に来た頃は各デパートは週一の休みがあった。三越は木曜日、西武は水曜日とか。
バブルがはじけてから売り上げを伸ばす目的で定休日はなくなった。それで売り上げが伸びたかと言うとそうでもない。
電気使用量と経費が増えただけだ。考えてみると当然の結果だ。例えば、高島屋のファンであれば、その定休日を避けて買い物に行くけれど、それで服などを買う日は一日ずれることがあっても消費は減らない。
平日に銀ブラをしている人は三越が定休日なら隣の松屋で買い物を済ませるけれどそれで三越は損をすることはない。
なぜなら松屋の定休日は皆三越に来るからだ。

(2) 飲食店
年中無休の所が多いけれどこれは本当に必要なのか?
近くの店同士で提携して、共通のメンバーズカードなどを作って、異なる日を定休日に決める。
必要なら店の入口に提携店の地図などを張るなどの工夫もする。週一の定休日で電気料金などは14%も減る。

(3)学校
ドイツの学校は給食がなく2時前に皆下校。土日は参観日やスポーツ活動も無く、完全休校。
6週間の夏休みを含み、先生方も年に12週間の有給休暇を職場を離れて楽しく過ごす。それでもドイツの教育水準はかなり高い。
その下支えは宿題である。生徒は家で、独りでやるので自主性も高まる。日本でも学校での時間を減らして、宿題を増やす余地が十分ある。
かなりの節電効果は見込まれる。

  日本経済が円高を乗り越えられた原因は生産の効率を上げたことだと言われている。
省エネのためにサービス業、事務や教育の効率をあげることは如何だろうか?
 
 

☆新年のご挨拶

(2011.3.8)
明けましておめでとうございます。今年のご挨拶は遅くなりました。
新年を迎えたのはタイでのこと。0時0分の瞬間はクラビの海で釣りをしていた。夜は昼間より大きな魚が釣れると言われ、試してみた。その情報は正しかったけれど、大きな魚(2キロのコショウ鯛)を釣り上げたのは僕ではなく、船の船長である。一応、四方から上がる花火は僕も愉しめた!
 釣りの面では、タイ旅行は大きな成果がなかったが、決してがっかりはしていない。なぜなら、秋から学んでいたタイ語が結構通じたからだ。方々で出会った人達との会話を愉しむことができた。
以前も何回かタイを訪れたが、得た情報はとても浅いものだった。例えば、
・バンコクはどんどん発展していく
・大型ショッピングモールがまた新たに開店した
・市内を走る高級車が増えた
・高層マンションが林立するようになった
・新空港は成田や羽田より賑やかだ
などなど。
 恥ずかしいけれど、今回は初めてその裏にいる人間が(少し)見えてきた。タイは日本に敗けないほどの格差社会で、お金持ちも大勢いる。しかし一般人の給料はかなり少ない。国家公務員の月給は2万円程度で、何年働いても3万円を超えることは難しい。
 クラビやプーケットなどの観光地などで働いている人たちと話していると、彼らの中にはタイの東北、イーサン出身の人がとても多いことに気がついた。そのイーサンは太宰治時代の日本の東北に似ているところが多い。他の地域より貧しく、子どもが多く、仕事がない。働く意欲と勇気がある人達はどんどん故郷を後にしてしまう。
 クラビのホテルで洋服を洗濯にだした。そこの担当者は30代の女性で、土日も、お正月も、休日なしでバリバリ働いていた。洗濯機の上に、8歳くらいの女の子の、ポスターサイズの写真が飾ってあった。僕はテレビドラマの子役の子かな、と思って「誰ですか?」と聞いてみると、「娘です」という答えが返ってきて驚いた。しばらく話をしてみると、彼女はイーサン出身で、娘が2歳の時にご主人が亡くなったそうだ。イーサンでは仕事が全く見つからなかったので、娘を実家に預けてひとりでクラビに来た。収入の殆どを娘の生活と養育費として送金しているらしい。最後に会えたのは3年前で、写真もその時のものだそうだ。
「お金を恵んで」と言われたら、その話も空想上の身の上話だと思っただろう。しかし、そんなことはなく、とても前向きで、「これで娘が高校を卒業できれば自分も幸せだ」と言っていた。「わたしは暇もお金もなく、可哀想でしょ」という態度は微塵も見せなかった。
 旅行会社でプーケットのホテルを予約した。ファックスで確認を待つ間、20代の女性スタッフと話をしていた。彼女もやはりイーサン出身で、今の自分の仕事にとても満足しているそうだ。勤務時間は毎日10時〜22時で、海で泳いだことは2年間で一度もないけれど、月給は7000バーツ(約2万円)だ。プーケットのホテルに2泊する為に7500バーツを渡すと時、「これは彼女の1ヶ月の賃金よりも高い!」ということに気がついた。「もっと安い宿に泊まって、余ったお金をタイの人々に提供する方法はないのか」と考えた。
 
 

☆TV出演情報

(2010.11.30)

2010年12月18日(土) 19:56〜22:30
日本テレビ『世界一受けたい授業』  
 

初めての体験

(2010.5.17)
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この間面白い依頼が入ってきました。

なんと、NHKの人気大河ドラマ、『龍馬伝』へ出演してほしいと!

それを聞いた時には、「俳優でも日本人でもない僕が!?」と驚きました。

よくよく話を聞いてみると、僕の役は龍馬が活躍する江戸時代にフランス公使をやっていたロッシュさんという人の役でした。もちろん喜んでOKしました。

彼のことを調べてみたのですが、日本人を高く評価している人であり、僕と共通しているところもいくつかありました。例えば、彼は自分の生まれた国(フランス)を20歳の時に出て、父親が仕事をしていたモロッコへ渡り、そこで外国語を勉強したそうです。そしてその語学力が買われて、のちにモロッコやアルジェリアでのフランス公使を務め、ついに日本にも来たのです。

僕にとって『龍馬伝』出演は人生初の大河ドラマ出演となりました。

事前に衣装合わせやリハーサルなどあり、僕にとってはとっても面白い体験がたくさんありました。NHKのスタジオに当時の江戸時代の光景が立派に再現され、付け髭などをつけて僕自身でも自分の顔かどうかわからないくらい変身し、イギリス人やアメリカ人公使と一緒に話合いをしたり、幕府の使者と話をしたり…

とっても良い想い出となる数日間を過ごしました。

その結果としてできた大河ドラマのシーンを是非多くの人に観ていただきたいと思います。ピーターのことも「あのフランス人がピーターだ!」とわかってもらえると嬉しいです。

ちなみに日本に来て公式な仕事の場でフランス語を使ったのはこれが始めてです。

以前NHKの討論会において英語でお話ししたことがあります。もちろんいつもは日本語でお話していますし、母国ハンガリーを訪れ、TV番組でハンガリー語を使ったり、東欧5ヶ国がEUに加盟した際にはチェコ語でTVに出演したこともあります。しかし、国籍になっているフランス語を使ったのは今回が初めてなのです。

観て下さった方は是非ご感想をお寄せください!

 

エチオピアの学生は皆上を向いている

(2010.3.15)
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エチオピアはアフリカの中では珍しく、とても永い歴史があります。キリスト教信者が多く、2000年近くも前にキリスト教が伝来したと伝えられています。世界遺産に認定されている遺跡もあちらこちらにあります。しかし、僕の旅行では遺跡を巡って昔の人のことを知るよりも、今生きている人、若者を訪れることが主となっています。 今回も首都アジスアベバにあるJICA(日本国際協力機構)のオフィスを訪れ、そこで紹介されたエチオピア北部の学校で教員として活躍している10人ほどの日本人を訪ねました。そして彼らの働くいくつかの学校で授業を見たり、自分も授業をしたり、校庭で1000人近い全校生徒の前で大道芸を披露したりしました。
青ナイル川の源流であるエチオピア最大の湖、タナ湖がある大きな都市に行き、そこにある大学も訪問しました。緑が多くとても綺麗な学校でした。そしてキャンパスには溢れるほどの学生がいました。そこに通う学生たちとも話をしましたが、皆未来への希望も大きく、勉学に勤しんでいる姿に大変感銘をうけました。
構内で大道芸も披露したところ、その報酬として学食が出るレストランへ招待されました。大体の学生たちは貧しく、構内にある寮に泊まっています。寮に泊まっている学生たちは学校のレストランで学生証を見せて中に入り、食券などは買うことなく食事ができるのです。僕もみんなと同じように中に入って、エチオピアの名物料理インジェラを食べました。
アジスアベバに戻ってからはアジスアベバ大学にも行ってきました。40年以上も国王を務めたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が設立し、彼の宮殿だったところが大学のキャンパスの一部になっています。そのキャンパスもやはり緑が多く、美しい建物がたくさん並んでいました。そこの学生とも交流し、たくさん話をしましたが、やはり意志を高くもっている学生がたくさんいるように感じました。何が彼らの希望の基になっているかというと、アジスアベバの街を歩けば目につくように、「建設ブーム」なのです。現在は主に中国、続いてイタリア、多少日本や他の国や投資家の援助もあり、新しい建物やホテル、地方へ行く道路を新しく作ったり、舗装したりする現場がたくさん見られます。そのような街全体の活気あふれる様子が若者に希望を与えているのです。
知り合った大学の先生の家に招待されましたが、日本人から見れば貧しい環境にあり、家周辺の道は舗装もされていない土だけの道でした。また、家には水道や水洗トイレもありませんでした。しかし、そこに住む人々が希望を持っているか持っていないかは、現状とはそこまで関係ありません。数学的に言うと、実際の生活水準ではなく、生活水準を表すグラフの微分(=傾き)によって決まるのです。自分たちの生活は毎年良くなっている、これからも良くなるんだ、と信じている人たちは希望をもっていて明るい。しかし永い不況に苦しみ給料やボーナスも下がり、将来の不安を持っている日本人・若者たちは、実はエチオピアの人たちより何十倍もモノを持っています。しかし将来への希望・期待はそこまで持てないというのが現状なのです。
 今までアフリカの他の国も色々訪れてきましたが、これだけ多くの若者が強い学習意欲、将来への期待を強く持っていると感じたのはこのエチオピアのだけではないかと思います。

 

新年のご挨拶

(2010.2.16)
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新年明けましておめでとうございます。
写真は先週自分の手で初めて釣ったキンメダイです。すごく嬉しかった!
今年は既にエチオピアとジブチという国に行ってきました。非常に面白い旅でした。
そこでその旅の話を少ししたいと思います。

最近の日本の若者は、経済状況悪化の影響もあり、あまり海外に行きたがらないそうです。国内にいてもテレビや新聞、雑誌、インターネットなどのお陰で海外の情報を十分手に入れている気分になっているということもあるでしょう。自分の足で海外の土地を踏まなくても、海外の状況を十分理解できると思っているのです。
しかし僕はそうは思いません。というのは、ニュースの大半はアメリカもしくは戦争を続けている国々(アフガニスタン、イラク、パキスタンetc.)だったり、ヨーロッパの先進国の情報が多少報じられる程度です。例えば、僕の母国ハンガリーのニュースが報じられるのは、選挙の時くらいです。そしてアフリカの発展途上国のニュースが報じられるのは大きな災害や内戦があった時や選挙結果や政権交代の時に限ります。
何を隠そう僕自身も現地に行くまではエチオピアのことを殆ど知らなかった。実際現地に行ってたくさんの事を学び、(6回目のアフリカ旅行でしたが)初めて希望に溢れるアフリカの人々を見たような気がします。この旅の話の続きはまた次回に〜

TV出演情報

(2009.8.17)
前回のテレビ出演情報に誤まりがございましたので訂正させていただきます。
正しくは
8月18日(火) 22:50〜23:30 NHK総合テレビ
『どう描かれたの?明治ニッポン〜風刺画に見る世界の“目線"』
*放送日・タイトルが変更になりました
公式HP

パキスタン旅行(その3)

(2009.4.22)

  国際会議へ招待された25人程の先生を大学の数理科学研究所まで運ぶバスはホテル前で待っていた。全員乗るとかなり窮屈で、左右の席の間にある補助椅子も必要となった。20メートルほど離れた所にすごく立派なパノラマ・バスが停まっていた。それは何と昨日テロリストの襲撃を受けた車だった。
  恐るおそる見に行ってみるとフロントの防犯ガラスは3ヶ所も壊れていた。2,3の穴が開いていて、ガラスには雪の結晶のように放射状に4,5ひびが広がっていた。バスを横断した弾痕もすぐに見付けた!
  研究所へ向かう途中に、テロがあったリバティー・チョーク(自由広場)を毎日通った。そこには連日人が集まっていて、殺された人達の写真に花を供えたり、祈祷したり、大声で叫んでいたりした。
  10分程で研究所がある路地に着いた。入口には銃を持った警備員がいた。研究所の屋根の上にもまた、警備員がいた。しかし強い緊張感が漂っていたのは初日だけである。翌日は警備員にお手玉を披露した代わりに記念写真を撮ってもらったり、別の人にウルドゥー語で「弾は幾つ?」と尋ねたら銃を開けて実弾を握らせてくれたりした。
  二日目の午前、僕の講演が無事に終了して、ホテルと研究所だけにいる「軟禁状態」はすごく嫌になった。渡りに船というか、研究所の庭でいつもの様に用意されている昼ご飯の際、カーンという大学院生に「先生の講演の原稿を是非コピーさせて下さい」と声を掛けられた。「どこでコピーするの?」と聞くと、「近くの市場で」という答えが返ってきた。これはチャンス!と思い「では一緒に行こう」とカーン君と門の外へ出た。たかが徒歩6分の小さな繁華街に行くだけだったのに、大冒険が始まるかの如くワクワク、ハラハラと溢れる好奇心と拭い切れない緊張感で胸が爆発しそうだった。(続く)

パキスタン旅行(その2)

(2009.3.31)

  ラホール行きの飛行機は満席で、しかもほとんどの乗客は服装からも明らかに判るようなイスラム教徒だった。隣に座った人はラホール生まれで、シドニーでパキスタン製生地を販売している人だった。そのため英語はとても流暢に話せた。機内食にはアラビア文字で「ハラール」、つまり「イスラム教徒の人も食べても大丈夫です」と記されていた。実はキリスト教も、イスラムよりも強く、古いユダヤ教に影響を受けていた。豚を食べないなどの、食に関するイスラム教の戒律の由来もそこにある。しかし、この事実を知っているイスラム教徒はほとんどいない。それどころか、彼らはユダヤ人を蔑んで「PIG EATER(豚喰い)」と呼んでいる。
  そのような話はせず、チキンライスを食べながらたわいのない会話を愉しんだ。家族との再会を楽しみにしている彼は、食後すぐに眠ってしまった。一方、東京で起きてから20時間以上も経った僕は、不安で睡魔も襲ってこなかった。次から次へと見えてくるインドの都会、カルカッタ、デリーなどを空から確認しながら、1947年の独立後に対立と戦争を繰り返してきたインドとパキスタンの歴史を考えていた。  
  深夜23:40にラホール空港へと着陸した。入国審査のために並んでいて驚いたのは、検査員が全員女性だったこと!インターネット新聞で受けたイメージにはそぐわなかった。イスラム原理主義が幅を利かせるパキスタン社会では、女性は働かない、男性と接することは極端に少ない、と思っていたのだ。これはラホールで破られた先入観の第一号にすぎなかった。
 パスポートに無事入国スタンプが押され、手荷物もすぐに出てきた。そして外に出ると約束通り僕の名前が書かれた横断幕を持った人が待っていた。彼は運転手で、僕をホテルの車、パキスタン工場で組み立てられたトヨタ車まで案内してくれた。  空港から街までの道の両脇に、軍の駐屯地と退役軍人の住宅が並んでいた。午前中に起きたテロの影響で、車は2箇所で警察に止められ、運転手の身分とトランクがチェックされた。  街の中心部に入ると予想以上に西洋的で、ホームレスの姿もゴミも見当たらなかった。小半時間でホテルに到着した。(続く)

パキスタンに行って来た

(2009.3.24)

  3月3日から8日までの5日間はパキスタンの古都、Lahoreを訪れた。その切っ掛けは向うのある大学(GCU)で行われた数学会議だった。招待状が届いた時は正直言ってかなり迷っていた。日々テロ事件が起こっているパキスタンに行くべきか,と。しかし、この国を訪問するチャンスは他ないのではないかと思い、会議への参加を決心した。

  人口が一千万程度のLahoreなのにテロや政治的不安によって国際便も減り、結局バンコク経由で行くことになった。バンコク空港で乗り継ぎ便を待ちながら有料インターネットで世界のニュースを見た。何とトップに出てきたのは「今朝Lahoreでテロがあり8人が死亡。犯人グループは逃走中」。地図で見るとテロがあった自由広場(Liberty Chowk)は僕泊まるホテルから500メートルしかない。出発の前にインド人の友人をはじめ、多くの知合いにあんな危ない所へ行くべきではないと言われた。Lahoreは内戦状態であるPeshawarと違うから大丈夫、とたかをくくっていた僕もこのニュースを読んでびびった。ゲート前の待合室もとても緊迫した様子だった。Urdu語は少ししか判らないけれど方々から聞こえる「Sri Lanka」や「Cricket」の言葉が聞こえて、やはり皆Sri Lanka の Cricketチームが攻撃されたテロのことを話し合っていることは明かだった。誰かと話をしたいな、と周りを見たけれど日本人も白人も見あたらなく、パキスタン人は皆暗い表情で困惑しているようだった。しかもその中でもイスラム原理主義の服装を着ていた者が多かった。「今なら渡航をまだ辞められる。そしてタイで楽しい休日を過ごして日本に帰れる」と弱音をはきそうになった。迷った挙句自分の強運を信じることにして飛行機に乗った。 (続く)

数学者の視点

(2009.2.12)

  「数学者は皆計算が上手い」と思いがちだけれど、二桁の掛け算でも電卓に任せる数学者も多い。数学者は何よりも物事を論理的かつ数量的に考えている。その結果として文系の人とは違う発想が生まれるのだ。一例として、税金について考えてみよう。  数百兆円の借金を抱えている政府は、税金収入を増してこの問題を解決しようとしている。そのために3年後から消費税を徐々に増やそうと与党は考えている。時期は別として、野党の大半もこのことを仕方ないと思っている。  ところが、この方針を論理的に検証するとこうなる。国の債務を、経済活動を圧縮せずに減らす方法として税収入の増加が好ましい。まさにその通りだ。しかし、「だから消費税」というのは間違っている。  世界屈指の経済大国日本、そもそもなぜ借金が膨らんだのか?その原因は中曽根時代の税制改革、最大税率の大幅削減である。四半世紀前には一億総中流と言われた日本は、今欧州以上に格差社会となっている。正に最大税率を引き下げた結果である。例えば、昔は一億円のボーナスから手元に残るのは二千万円だった。この二十年は五千万円、つまり2.5倍である。逆に国庫に入るのは八千万から五千万に減った。  皆さんはもうお分かりだと思う。ピーターの提案は、消費税を上げる代わりに累進課税の最大税率を元に戻すことである。すると格差社会の拡大に歯止めがかかると同時に収入が一千万円未満の一般人は増税を免れるだろう。一石二鳥ではないだろうか。

ピーターのひとりごと

(2008.12.8)

  年末年始はインドに行くことにした。ムンバイで起こったテロ事件がショックだったけれど「これからの1,2ヶ月は大丈夫だ」とたかをくくっている。なぜならこの程度大きな事件を起こすためには相当な準備が必要だろうと。
 因みにチケットを購入した時にびっくりしたのは燃料サーチャージ(fuel surcharge)である。もちろん新聞などで話題を見聞していたが、その金額にびっくりした。
 昔はよく青山通りにある紀ノ国屋スーパーに買い物に行った。二階に渡る広々した売り場面積と他のスーパーであまり見当たらない食料品は最大の魅力だった。6年ほど前にスーパーは狭い仮店舗に移って、元の場所は更地になった。開発になぜこんなに時間かかったのか不思議だが、この間その辺を歩いていたら、スーパーが元の場所に戻ったことに気付いた。
 元の場所とは言え、新店舗は極普通のオフィスビルの地下一階でとても狭くて、強いて言うと仮店舗のままだ。棚と棚の間はショッピングカート同士は随時接触しそうになる。悲しいことに僕が一番好きだったパンのコーナーもすごく圧縮されて、毎回買っていたパンは姿を消した。
 新しく登場したのはフランスの麦を使ったクロワッサン。とても美味しそうだったが値段を見てびっくりした:299円。そう言えば世界市場での麦の高騰によって巷のパン屋も軒並み値上がりした。しかしピーターは納得できない。
 知り合いに尋ねたところ麦などの原料費と光熱費を合わせても売値の15%に満たない。
つまり値段が100円のパンに対して本来の原料代は15円だけだ。だから麦の値段は倍になったとしても30円で、元より15円増えることになる。この場合の新しい値段は115円で15%の値上である。ところが巷のパン屋で30%以上の値上げが行われたような気がする。
 更に言うと国際市場で麦価はこの3ヶ月間でドルベースで40%程度値下がりして、ドルも円に対して15%程度値を下げたのだ。日本円で計算すると麦価はほぼ元に戻った結果になる。フランスの麦だとユーロベースなので円に対して25%も値下げしてしまった。
 国際市場での石油の価格は最高値の 1/3 になっている。もはや燃料サーチャージに正当な理由は無くなったのではないだろうか― と朝御飯のおにぎりをもくもく食べながら考えている。

父の百年祭

(2008.10.23)
 大分長い間このHPを更新するのを怠ってきた。それを常に反省していたのでなかなか更新のタイミングも逆に難しくなった。だから今日、つまり2008年10月24日になってしまった。
 HPを見て下さる皆さんにとって10月24日特別の日ではないかもしれない。しかしピーターにとっては「父の生誕100年」に当る。実は2008年になってから(僕にとってはその瞬間がパプアニューギニアで訪れた)ずっとこの日のことを考えていた。何か大きなパーティでも開催しようかとも計画した。しかし残念ながら父の元気な姿を知っている日本人の知り合いがいないし、最愛の母もこの日を見ることができなかった。  だからこの「百年祭」は一年中ピーターの心の中で開催している。父のことを毎日想いながら日々彼に感謝している。あまり長くなるといけないので今回は百歳に関する父のお話を紹介しよう。
 ハンガリーで人口5万人の街、Kaposvar で皮膚科医として知名度が高かった父。彼と一緒に路を歩くと刻々挨拶されたり、足を停められたり、時には病気の相談までされたりして、なかなか前へ進まない。でも父はこれを愉しんでいた。道端で相手の患部を観察したり、立ったまま薬の処方箋を書いたりもした。お金を渡そうとする人もいたが父は毎回断っていた。それで相手はよく「百歳まで生きて下さい」と言ってくれた。そんな時父の答えは決まってユーモアたっぷり、「そんなにケチらないでよ!120歳までと願ってよ!」だった。
 日本の漫才や落語のユーモアは西洋の冗談と大分違うのでちょっと説明しよう。ケチは本来お金などの有料な物を惜しむ人に対して用いられる言葉である。この場合、例え200歳までと言っても無料である。その可笑しさは笑いの元となる〜  ハンガリーで未だに男性の平均寿命は70歳程度である。120歳どころか100歳も無理だろうと父も判っていた。でも僕としては父にせめて百歳まで生きて欲しかった。その夢は叶わず、85歳でこの世を去った。そして、4年前の誕生日、10月24日には母も逝ってしまった 〜

TV出演情報

(2008.9.3)
 ・9月5日(金) 19:00〜21:24 
日本テレビ『第28回全国高等学校クイズ選手権』 


ピーター活動情報

(2008.4.29)
 ・5月13日(火) 13:30〜15:00
  スズケン市民講座「人間を考える〜私の熱中時間」
  (NHKセンター青山教室)にて講義を行います。
  ※5月25日(日) NHKラジオ第2放送で講義の様子が放送されます。
   詳しくは下記URLをご参照ください。
  http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_436555.html


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