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空を見るともう黒い雲たちが集まり始めた。一時間しないうちに大雨になりそうと判ったのでできれば挨拶に行くのを後にして、雨が降る前にパフォーマンスをやりたかった。でも仕方がなかった。県庁と言ってもガボンでは 9県があって、首都Libreville を除くと一県当たりの人口は10万人しかない。まあ、県庁もそれに見合ったようなL 型の二階建ての建物だった。知事の部屋は割りと大きくて、40平方メートルもあった。壁にはもちろんBongo大統領の写真が飾っていた。知事は親切に迎えてくれた。話によるとガボンでは知事が選挙で決まるのではなく、 Bongoによって指名される。だから知事の大半も彼の腹心の部下と言うか、彼と同じ田舎の出身である。僕が会った知事も知事になって初めてブエーに来た。県民の代表ではなく Bongoの代表であるって感じ。彼の机と箪笥の上に幾つか民芸品も飾っていた。それを鑑賞する僕たちに「日本の美術品も欲しいな」とかなり本気で言った。我々は聞かない振りをした〜
三人や校長先生も入れた四人での記念写真も撮られてやっと許可が下りた。一時間以上掛かったので外ではもう土砂降りになっていた。学校に戻ると生徒は教室やその近くの屋根がある所で雨宿りをしていた。取敢えず校長室へ案内されてそこで置いてあった色々な教科書を見た。どうもガボンの小学校で主な教科は3つあるようだ。国語(フランス語)、算数、理科と社会を合わせた Eveil(仏語、目覚めの意味)の三つである。この三つ目だけは自国製で残りはフランスの教科書を使用している。先生によると子供達には難し過ぎるようで落第が多い。
雨が止みそうもなかった。それどころか稲妻が光ったり、すごく近い所から雷鳴が聞こえたりした。ある教室に集まっていた生徒達を対象にちょっと話をしたり、算数クイズを出したりした。子供たちの計算能力は日本よりずっと低かった。教室にいた4人の女の先生も「私は算数が苦手だ」と口を揃えた。今回の旅でガボンの大人でも九九をできる人の方ができない人より少ないとの印象を受けた。でも楽しい図形問題は生徒が積極的に取り組んでくれた。教室で小一時間過ごして外へ出ると雨の勢いが衰えたとは言え、まだまだ強く降っている。子供たちの大半はもう帰宅したのでせめて残っている子達が帰る前にと思って、校舎の隣の屋根がある小さな広場で大道芸を披露することにした。僕たちは真ん中で、四方観客に囲まれて完全に屋根の下いたが 200人ほどの生徒の半分以上は雨に降られている状態になった。それでもすごく盛り上がってくれた。 30分経って「終わり」と言うと「もっと、もっと」と喝采が起こった。最後に皆と記念撮影をしていたら、丁度その時ロジェーと知事が現れた。彼らのためにもう一度やる訳にもいかないと思って「明日はまた遊びに来る」と言いながらロジェーの車に乗った。
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翌日は学校でのパフォーマンスを控えていてとても良い気持ちで寝れた。
朝7時に起きると外はもう暖かくてオグエー川が霧で見えなかった。でも見る見る内に霧がどんどん昇って来た(我々が泊まっていたロジェーの家は丘の上にある)。10分後には川が綺麗に見えるようになったが街が霧に隠れていた。帯状の霧はとても不思議な光景だった。7時半にはパフォーマンスがあると言うことで校長先生が現れた。話を聞くと同じ町(ブエー)生まれで、今は母校の校長をやっている。控えめですごく感じの良い人だった。我々は未だ朝ご飯も食べてなかったが慌てて荷物を纏めて先生の車に乗った。ガボンの田舎の方では車を持っている人が少ない。車はトヨタの中古車が殆どで、しかも道路が悪いため全部4WDである。学校はロジェーの家から一キロしか離れていなかったので自己紹介が終わる前についてしまった。建物がかなり古くて、子供の数から言うと小さかった。千人以上の生徒がいるのに教室は10室程度しかなかった。先生も「昔比べると生徒の数が倍以上になっている。だから生徒を分けて、午前と午後で別々に教育を行っている」と苦しい状況を説明していた。僕の子ども時代を振り返るとやはり当時のハンガリーの事情も似ていた。 1950年から1956 年までのBabyBoom 世代には教室が足りなかった。僕もやはり3年間ほど「今週は午前、来週は午後」の制度で小学校に通っていた。冬は帰宅する頃には暗くて、寒くて徒歩 7、8分の道程も嫌だった。ガボンは少なくともそんな問題はない。年がら年中暑くて、また赤道直下ということもあり一日の長さも季節によって変わることがほとんどない。
ただ産油国で一人当たりのGDP が高いのに、なぜ新しい校舎を建てないのか不思議だ。
校庭ではたくさんの子供が遊んでいた。三日後の土曜日から 2週間以上の春休みが始まることでもう皆休み気分だったそうだ。だから授業もなく、体を動かしたり、話し合ったりして楽しく過ごしていた。校庭内のちょっとした坂道を登るとそこでサッカー場に使うでこぼこのグラウンドがあった。大道芸はここでやればどうかと聞かれた。ここなら周りに1千人の子供も十分立つことができると思って、二つ返事で合意した。「では荷物を車から持って来る」と言うと。「未だダメ」と言われた。どうも先ず県庁に行って、知事に挨拶して彼の正式な了解も得なければならないらしかった。
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そしてそれぞれ二人の子供と一山の食器を持って二人の女性が来た。二人とも濡れた服のままで水に入って食器洗いを始めた。四人の子供もお母さんたちの側で水遊びをした。一人のお母さんはとても友好的で自分の家庭事情を話してくれた。32歳で子供が七人もいるそうだ。旦那は樵(きこり)で川の上流の方で働いている。距離的には遠くないけれど急流があって船では行けないらしい。車の道も時間がかなり掛かるので現場の近くのキャンプで単身赴任し、週末に帰って来るって。ロジェーに事情を訊いたら、ガボンの労働法では伐採現場で働く人達の勤務時間に移動時間も含まれているそうだ。だから現場まで往復2時間かかったとしたら正味6時間しか働かない。従ってキャンプを作る費用を考えても会社側にとって労働者に現場に近いキャンプで住んでもらった方が利益になるらしい。
私たちと話をしながら彼女は何気なく上半身裸になって自分の体を洗い始めた。彼女のおっぱいは長い筒のように垂れていて、水を汲むためにちょっと前屈みになると2歳の泣き子が難無くおっぱいを口に入れることができた。不思議な光景だった。子供たちも洗われ女性たちが帰って行くと僕らも駅の方へ歩き出した。駅の側で数え切れないほどたくさんの巨木が貨物列車でLibrevilleの方、そしてそこから船で外国へ運ばれるのを待っていた。まだまだ等分待ちそうだ。と言うのは経済利益が出ない鉄道を運営する会社がよく変わり、今回はマンガンの炭鉱を持っている(もちろん外資系)会社になっている。彼らは木材に興味がなく、貨物列車のほとんどはマンガンを運んでいる。
駅の建物は5000人という人口にしてはしっかりしたものだった。窓口で二日後のLibreville行き切符を予約した。2等、1等とVIPクラスがあったので、ここまで来た道の苦労も考えてVIPにした。
駅の周辺はかなり賑やかだった。道を挟んで3軒もの喫茶店と1軒の食料品店が並んでいた。その隣に細い坂道があり、そこにホテルの看板があった。しかし観光客用ではなく、夜行列車を待つブエーの周辺の村々から来る人達に休憩場を与えるための粗末なものだった。坂道を登りきると市場のように様々な店やスタンドのある広場があった。食堂らしいものもあったが衛生状態を考えてパスした。その前に置かれたBabyfoot(欧州で人気のある手で回す、二人か四人でサッカーゲームをやる機械)で試合をやった。ユキに辛うじて勝った〜
その夜も(時刻通りなら夜中の2時発)Libreville行き列車があったので市場はこれからどんどん賑やかになる雰囲気だった。大きな荷物を持った人達は次から次へと到着した。日本ならバスや乗り合いタクシーの運行時刻を電車に合わせるだろうがガボンはそんなことがない。だから7時前後にブエーへ到着して、それからはそこで待つしかない。尤も小さな集落で暮らしている人にとってはブエーでの数時間は間違いなく都会の夜を楽しむ感じだろう。でも我々はそれを試すことがなく夜道を速足で歩きながらロジェーの所へ戻った。
今日はこの辺で〜
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翌日の午後3時にやっと目的地であるBouee(ブエー)に到着した。行程の三分の一を私道、つまりロジェー(の会社)の道路で走った。会社が木を伐採するために造る道路なので舗装はされていない、雨が降ると泥まみれになる道だ。ロジェーの運転はとても荒くて、正にパリーダカールのラリーを思い出させる道程だった。ロジェーのブエーにある2つ目の山荘で車から降りるともう当分車に乗りたくない気分だった。ユキとお互いの姿を見てびっくり!車が飛ばす砂で髪の色は赤く染められていた。僕たちの部屋は外から直接出入りできる10m2ぐらいの狭いもので、ダブルベットと大きな冷凍庫以外に何もなかった。しかも冷凍庫に道沿いにロジェーが買ってきた鹿やアンチロプの死体も入れられた〜 到着するや否やロジェーの所に地元の軍の将校(少佐?)がやってきた。地元の様々の責任者にそれなりの利益を与えないと伐採の仕事がやり難いそうだ。僕たちはすることもなく、将校の運転手に頼んでオゴエ川まで送ってもらった。小高い丘の上にあるロジェーの家から3キロほど離れているガボンの大河、オゴエ川は泥色で入る気にならなかった。しかし現地の人達はその中で食器や体を洗っていた。ちょっと話を、と近付くと猛烈な勢いで雨が降り出した。川辺に茂っている木々の間に逃げ込んでも雨をやり過すことはできなかった。しかも稲妻と雷鳴が続々起こるのだ。諦めるしかないと悟って川辺でボール遊びをしている子供たちのところへ戻った。彼らは川の中で泳いだり、その泥水を飲んだりもした。
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ロジェーの部下にジョージ(George)と云う50歳の黒人男性がいた。ジョージは肌の色がとても暗くて顎鬚(あごひげ)の一部だけが白く光っていた。とても陽気でユーモアのセンスが抜群のジョージはもう20年以上ロジェーの車の修理工などを務めている。原生林の方で育ったジョージから動植物や(世界一背が低い人種)ピグミーの話をたくさん聴いた。白人や他の黒人からはかなり軽蔑されているが森暮らしに関して彼らの右に出る者がいないらしい。
ロジェーと出発してからの最初の夜。Cameroonの国境から100キロ余りの所にある山荘に泊まった。ロジェーの三つある山荘の一つである。3LDKの平屋で緑に囲まれた住宅地の一角である。入る道は一本しかなくその入口で常時警備員がいる、チェックしてから遮断機を開ける。一日の大半を車の後部座席で過ごした僕はジョージと一緒に山荘の玄関の前にあるベンチに座って話を聴いた。目の前に不思議な形をした椰子の木があった。葉っぱの生え方を見てピグミーは南北の方角を判る、とジョージが説いた。なるほど、葉っぱはできる限り太陽の光を浴びるように生えるのだ、と僕は納得した。尤も翌朝は散歩に行ったら葉っぱの生え方は同じ種類の別の椰子の木では夕べ見たものとほぼ90度違っていた。ジョージに質問した。彼は驚く事もなく「地元の人はやはりどの椰子の木を下に判断すべきかとどうやら知っている」と応えた。数学者の僕とっては納得行かないけれど突っ込みはしなかった。(地元の人は南北の方角を椰子の木を見なくても判るのではないか?!)一方、ベンチに座っている間「あちらを見なさい、蛍が飛んでいるぞ」、「そちらは蝙蝠(こうもり)が見えるよ」と様々の生き物の存在を教えてくれて、すごく嬉しかった。マラリアの蚊に刺されるのではないかとちょっと心配したがジョージのタバコの影響か虫は全く来襲しなかった。
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欧米人や日本人にアフリカで象の肉を食べたと話すと皆ぞっとする。Washington条約に反対するのではないかとか。確かに欧米人に象牙を売るためや鰐の皮で靴を作るなどのためにたくさんの動物は全滅の危機に面している。けれども原生林に住んでいる人々はこれとは縁がない、昔ながらの生活を送っている。彼らは猛獣を殺すのは食料を得るためである。だから彼らを安易に批判して欲しくない。動物園で見かける象は可愛いのかもしれない。耳が大きくてのしのし歩いているアフリカ象を見て「保護して欲しい」と思うのも自然だろう。けれども自分たちが住んでいる村を襲う象の群れを見るアフリカ人の気持ちはこれと合致しないのも当たり前だ。キャンプの後ろで象が襲ったバナナのプランテーションを見せてもらった。日本人の米、西洋人のジャガイモと同様に毎日食卓を飾るバナナ。生ではなく焼いたり、揚げたりすることが多い。自分たちの食料を奪おうとする動物を殺すのは彼らの権利ではないだろうか。
今回訪れてきたガボンの土に葬られているAlbert Schweitzer博士もアフリカに来てから倫理について深く考慮し、素晴らしい作品を残している。アフリカ行き飛行機の中で再読してきて、皆さんにも一読を推薦する。ある時に患者たちから彼へ怪我して飛べなくなったペリカンが贈られた。彼はペリカンを治療しながら「生命の倫理」を考えたらしい。ペリカンを育てるために川からたくさんの魚を釣って、犠牲にしなければならない。生き物を殺してはいけない倫理に反するのではないか。この問題をどんどん展開して議論するのだ。結局Schweitzerの結論は「生物を必要なく殺すのが倫理に反するのだ」である。
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今回行ったのはGabonである。日本人にとって余り馴染みのない国だけれど赤道アフリカで一人当たりのGDPが最も高い国として注目されている。言ってみればその辺の国の中で「優等生」のイメージがある。更に魅かれたのは偉大な人物「Albert Schweitzer」が病院を作って、死ぬまで黒人の医療に携わった国でもあることだ。旅行の準備だがアフリカだとそう簡単ではない。先ず日本語でのガイドブックは殆どない。あっても人口150万未満のGabonについての情報が極めて少ない。そこでインターネットで英語の本「Gabon&Sao Tome Principe (ガボン アンド サントメプリンシペ)」(後者はGabonの沖合いにある人口15万人である島国で1970年代までポルトガルの植民地だった)を注文した。査証(Visa)を収得するも意外と手間と金(1万円)が掛かった。しかも複数入国可能(Multiple)許可をくれなかった。観光客の数を増やそうと宣言しているのに入国のハードルを高くするのはなぜだろう?尤も一緒に旅行してきた郡山幸雄(通称Yuki)君は勉強先のアメリカでVisaを申請したら難無くMultipleを手に入れた。彼のことについてはピーターの本「諸国漫遊記」か彼のHPをご覧下さい。
パリを出発したのは Air France の3月10日の夜11時のLibreville(Gabonの首都)行き飛行機だった。パリから殆ど真南へ5500キロを飛んで、早朝に到着した。機内でYukiがアメリカで買った本「年金暮らし国家、ガボン」を読んだ。この本の分析はとても鋭くガボンを理解する上で役に立った。この国は石油を最大の収入源にしている。それで40年間も大統領の座に喰い続けているBongo(以下暴君)とその周辺はとても裕福になったし、政府の仕事をやっている官僚もかなり恵まれた暮らしをしている。しかし収入を国や産業の発展、国民の生活向上のためには全く使用してこなかった。道路網は悪く、首都でさえ主要道路以外は凸凹で泥だらけだ。一方、Librevilleから暴君の故郷までは20年間という長期間と想像を絶する金額をかけられ鉄道(Trans Gabon)が建設された。どれだけ需要があったのかと言うと客を乗せた列車は週に4往復しかしない。一回当たりの乗客数も300人弱だ。因みに乗り心地は決して悪くない。車窓から見える景色も美しい。何しろずっと原生林の中を走っている。僕らが乗った駅はBoueeと云う街にあって、急行も停まる主要駅になっている。ところがBoueeの人口はたったの5000人である。まあ、話が長くなったけれど年金のように、仕事をしないで流れ込んでくる金を暴君が意味のない国家プロジェクトのために使ってしまうと石油がなくなる(かなり近い)将来は前途多難であることをその本から読み取った。
インターネットで予約したホテルはNovotelでかなり高級のイメージがあったけれど設備は古く、良く言えばまあまあだった。例えば、3機あるエレベータの内1機しか動かなかった。調べてみたら残りの2機は6年以上停止状態が続いている。それでも昼まで待つことがなく、朝8時に部屋に入れてくれたことはとてもありがたかった。
予約した時は地図で調べた通りホテルの前に大西洋の海岸が広がった。しかし見に行くと浅瀬の中に魚や蟹ではなく家庭のごみばかりがあった。とても泳げそうな所ではなかった。結局ガボン滞在中に一度も泳がなかった。せっかく水着を持って行ったのにな〜
昼からはLibrevilleの街を散策し始めた。土曜日だったので店の殆どが閉まっていた。空いている店は中国人が経営していた。因みにLibrevilleで政府の仕事(軍や警察と大統領防衛隊を含め)や事務以外の仕事をやっているのは概ね出稼ぎに来ている外国人だ。食品の販売店はモーリタニア人、タクシーの運転手はカメルーン人、マリー人とべネン人、雑貨屋はレバノン人など。 道端で不思議な蜥蜴(とかげ)(この漢字のピーター流覚え方は:尻尾が折れ易い虫)の写真を撮ったらすぐ車が近付いて、私服警官が降りて、取り調べられた。それで目の前の大きな建物が大統領宮殿だと判った。爬虫類が好きな人達のためにガボン全土で頻繁に見られるこの蜥蜴の不思議さを教えよう。頭と胴体の一部はオレンジ色で、停まると静止する前に必ず腕立て伏せのような動きをする。これはとても可愛い。
話は変わるけれど三月に欧米の都会を歩くと日本人、特に卒業旅行に来ている人が多いよね。一方アフリカはかなり敬遠されるみたいだ。三月の初めに取ったピーターのVisa番号は014番だった。それでも腹ごしらえにスーパー(やはりモーリタニア人経営)に入ると日本人に声を掛けられた。相手は50代の男性、北島靖行さんという人で、JICAのガボン事務所を立ち上げた人物である。その日(土曜日で休日)は彼の自宅で青年海外協力隊の8人を集めてカレーパーティをやるので宜しければいらして下さいって。親切な誘いに喜んで応じた。そして日本人の皆さんからGabonに関するたくさんの情報を得ながら美味しいカレーも腹一杯食べた。夜の8時頃に「ご馳走様!」と言ってホテルへ帰った。
そこでRoger(ロジェー)という人が待っていた。Yukiの友達(フランス人)が電話番号を教えてくれた、初めてお目に掛かる人だったので「ガボン人かな、フランス人かな」と二人で話していた。正解は真ん中であった。お母さんはガボン人で、お父さんはフランス人のハーフで人一倍の大きさだった。身長は195センチで体重も150キロほどで相撲力士って感じ。ロジェーの職業は木材の伐採とフランスへの輸出で、彼の下に118人も働いている。でも会社のオーナーはロジェーではなくフランスの白人である。他にも木材関連会社を色々見たけれどオーナーは皆外国人で、利益でガボンに残っているのは暴君周辺に渡す袖の下程度である。奥地で森の中で働いているのはガボンの黒人で、彼らは粗末なトタン屋根の、一家10平方メートルでの仮住まいをする。村では他の仕事が少なくこれでもありがたいそうだ。給料もアフリカの他の国よりは高い。但しガボンの物価も非常に高い。その原因は生産が殆どなく、食料品も全部輸入品である。フランスから輸入される物が多く、パリよりも高い!驚いたことに森の中のキャンプにも食料品店があり、そしてそれもモーリタニア人が経営していた。自家発電もあり、夜(19時以降)は電気も、そして共同スペースではテレビもある。銃を持った警備員はキャンプを真夜中に襲ってくる猛獣と泥棒から守っている。そのキャンプの住民が自分が撃った豹(ひょう)の皮を見せてくれた。近くの川では鰐(わに)が獲れるそうだ。どうやって獲ると訊いてみた。懐中電灯を片手に川沿いを歩く。鰐を見つけたら顔を照らす。眩しくて動かなくなるらしい。この瞬間を見逃さないで刃が50センチ位の刀で額を打って、一発で殺す。残酷だけど彼らにとってこれは極普通の御馳走なのだ。
アフリカレポートはまだまだ続くけれど今日はこの辺で〜
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