ピーター・フランクル [official web site]ホーム
>海外渡航記
☆ブラジルについて
(2013.7.17)
アトランタから向かったのはブラジルです。はっきり言ってブラジルのことは、恥ずかしいくらい知りませんでした。僕のいとこが昔ハンガリーの共産主義時代に、国営商社の代表として5年間ブラジルに滞在し、その両親である叔父と叔母がブラジルを訪れた際の写真を見たのが、僕とブラジルの唯一の関係だったと言っても過言ではない。今回は、ボイタを通じてサンパウロに住んでいる日系人数学者ヨシのところに二人で行くことになりました。そこで、ブラジルに行く前にポルトガル語を勉強したり、ブラジルの新聞をインターネットで読んだりしました。ところがみんなに、僕のいとこも駐在していたブラジル最大の都市サンパウロは、とてもつまらない汚い街でしかも危険であると言われました。一方、第二都市リオデジャネイロは、世界一美しい都会であると評判がとてもよかった。そこでリオデジャネイロは必ず訪れようと心に決めて行きました。
空港に着いてまず驚いたのは、いかに簡単に入国できたかということです。日本やアメリカでは指紋押捺、写真撮影など様々な嫌な入国手続きを経てやっと入国できますが、ブラジルではビザが要らない関係を持っている国の人なら、ほとんど顔パスという感じでした。パスポートを渡すとチラッと顔を見て、すぐにスタンプを押してくれ入国できました。ちなみにアメリカはブラジル人にビザ無し渡航を認めていないので、対抗してブラジルもアメリカ人にビザ無し渡航を認めず、アメリカ人はビザを取得しなければなりません。そこで友人ボイタはアメリカを出国するときはアメリカのパスポートで出て、ブラジルに入るとEU加盟国チェコのパスポートを使いました。パスポートを二つ持つと便利だなあと痛感しました。
ヨシは空港の出口で待っていてくれて、彼の車に乗りました。僕から言わせると、とっても愉快な車で、かなり古い赤いルノーでもう20万キロくらい走っていました。ブラジルは新しい車ばかりなので、非常に目立ちます。10年前にもすでに古かったヨシの車に乗ったことのあるボイタは、駐車場で遠くからすぐに「あれがヨシの車だ」と見つけて指差していました(笑)。街に入ると、サンパウロがいかに大きな街かと感じました。空港から街の中心に向かう高速道路は、片側6車線ほどもあり、それでもよく渋滞するそうです。サンパウロは、世界の人口が多い都市トップ10に入っていて、東京の23区に相当する部分でも1100万人の人がいるそうで、極めて大きな街です。最近は中年米の他国でもそうらしいが、高層マンションが増えています。ヨシが住んでいるのも高層マンションでした。車の入口はリモコンでしか開けられず、地下1階から地下4階まで駐車場で、一家に2台分の駐車スペースが与えられています。言うまでもなくヨシは1台しか持っていないので、いつも堂々と2台分のスペースに斜めに車を停めていました。歩いて帰ると、入口に守衛さんがいて、住人であることを顔で確認するか、住人から○○が来るという情報を基に入れていました。チェックが厳しいということは、街がそこまで治安が良くないことを物語っているかもしれません。ヨシのマンションは3台のエレベーターがあって、各階に三軒の住居しかなく、エレベーターから降りると直接自分の家に入れるようになっています。彼の家は23階で3LDK位の広いベランダ付きのとても立派なマンションで、街を見渡すことができました。ちなみに、東京も非常に車が多く、日本ではほとんどの人が車を買うことができるが、ブラジルは車もガソリンも高く、中流より上の人たちだけが車を持っているらしい。どのガソリンスタンドでも、エタノールというトウモロコシから作られた燃料を売っていました。世界で初めて第三燃料を導入したのがブラジルです。しかし、値段は決して安くはないので、環境には優しいが利用者にとってメリットはあまりなく、相変わらず普通のガソリン車が多い。
ヨシが私たちを案内してくれたのは、サンパウロのシャンゼリゼとも言うべき一番の中心部で、そこにホテルを取ってくれていました。10日ほど滞在するので、アパートメントタイプのホテルにしてくれて、2LDKのマンションのようで、その割に一泊一万円くらいで手頃でした。サンパウロのシャンゼリゼ通りはパウリスタアベニューという名前で、サンパウロの大通りという意味です。サンパウロに住んでいる人たちもパウリスタと呼ばれます。ボイタが最初に行った頃は治安が悪かったそうですが、最近はだいぶ良くなって、私たちも毎晩食事をした後に、10時や11時頃に一時間以上もパウリスタアベニュー周辺を歩いても平気でした。土曜日の午後は、大道芸としてバレエをやっている人も見ました。道に大きな絨毯を敷いて、音楽をかけて、三人の女性が踊りましたがかなり上手で、しっかり帽子に投げ銭を入れてきました。サンパウロは東京に負けないほど高い建物が並んでいて、デパートや専門店やオフィスやホテルが多く、大都会でした。
その日はホテルにチェックインを済ませてから、すぐにUSPサンパウロユニバーシティーに行きました。USPはブラジルの一番いい大学で、非常に広いキャンパスで、緑が多く、とても雰囲気が良かった。ここに通えるのはエリート中のエリートで、新しい建物もどんどん増えています。というのも、ブラジルはかなり教育にお金を注いでいます。外国人を招待するのにも積極的で、いつでも招待してくれると僕にも声がかかったし、数学科に行くと、南米諸国だけでなくロシアやベトナムなどからの客員教授もいました。日系人はヨシを含め、40人中8人と多かった。ブラジルの人口の1%が日系人なのに数学科では20%と、いかに日本から移住した人達の頭脳レベルや教育熱心さが高かったかを物語っているでしょう。大学の学生食堂もとてもきれいで立派で数学科の先生たちと何回も行ったが、日本よりも高かった。好きなものをあれこれ選んで皿にのせて、最後に重さを量って値段が決まるやり方ですが、大体1000円を超えていました。
値段の話が出たついでに、ブラジルの暴動について話をしましょう。サンパウロはどこもすごく発展していてきれいな街で、道も整備されていて緑も多くて、魅力的な街にしか見えなかった。でもこれは、あくまでも上流社会の人の世界で、1100万人の人の1割5分の人の暮らしです。街の周辺のあちこちにはスラム街もある。一般の人の暮らしと上流階級の人の暮らしはかけ離れているようです。ブラジルは以前に比べると非常に発展してきましたが、一般の人の給料はそんなに高くなく、日本の平均的なサラリーマンの給料の何分の一らしい。でも、スーパーで売られているものの値段は、日本とそう変わらなかった。それを上流階級以外の8割5分の人が払うのは大変です。ブラジルの地下鉄は日本と違ってどこまで乗っても値段が変わりませんが、その値段を上げることが暴動の発端になったそうです。その値段は日本円にして150円を160円に上げる程度で、いかに人々が痛みを感じているかを物語っています。
コンフェデレーションズカップというサッカーの大会中に暴動が起こり、FIFA国際サッカー連盟の会長は、ワールドカップによって新しいスタジアムやホテルができてブラジルにどれだけ利益が与えられるかと言っていました。けれども結局、ほとんどの人はそのホテルに泊まることはないし、スタジアムの入場料は高くなって、ますます行きづらくなってしまう。コンフェデレーションズカップの決勝が行われたブラジルで最も有名なスタジアムであるリオデジャネイロのマラカナンスタジアムは、昔は20万人ほどの人が入れました。事故を機に8万人程度に縮小しましたが、もし20万人のままなら満員になることはないでしょう。ワールドカップの時は世界中の人が訪れてもちろん満員だろうが、普通の国内の試合ではそうはならない。というのも、入場料が高いのです。ブラジルではもちろんサッカーは人気スポーツナンバーワンですが、一番サッカーが好きな労働階級の人は高い入場料を払って見に行けるわけではない。実際、ボイタと夜の街を歩いていると、ほとんどのカフェでサッカーの試合を放映してたくさんの人が見ていた。労働階級の人々にとって、ワールドカップが行われてもその後にいいことがあるかは疑問です。
ブラジルは建設ラッシュで、中から上流階級の人々が増えていることもあり、高層マンションや高級デパートも増えています。有名なブランドはみな店を持っているが、日本よりも高い値段でものを売っています。驚いたのは、ブラジル産の食料品は日本と同じくらいの値段で売っていたが、輸入品は日本の倍くらいした。友達になったブラジル人カップルの話を紹介しましょう。新婚旅行にマイアミに行き、何をしたかというとショッピングです。マイアミには世界一大きなショッピングモールがあって、最近の売上高の一番はブラジル人だそうである。荷物をあまり持っていかずに、鞄いっぱいに買い物をして帰るそうです。安く買い物をして得した分で、飛行機代がタダになるくらいだそうだ。そのカップルは赤ちゃんができたら、またマイアミに赤ちゃんのものを買い物に行くそうです。どんどん続いている値上げで労働者階級の暮らしは苦しくなる一方で、格差が広がることで精神的ダメージが大きく、それが暴動の一因でしょう。
ブラジルでは公立の学校と私立の学校で、設備の良さとか教育のレベルがかなり違うらしい。ヨシが通っていた私立高校もサンパウロで一番良い学校の一つと言われていて、彼の同級生でサンパウロの市長をしている人や医者や弁護士など成功してお金持ちになっている人が多いそうです。公立学校はレベルが高くなく、今のルセフ大統領は公教育のレベルを高めようという努力はしているが、その努力はまだそこまで実を結んでいないようです。実際、リオデジャネイロで知り合ったイギリス人数学者は、毎年ブラジルの首都ブラジリアに行って、公立高校に通っている優秀な学生に数学を教えているという。公立高校の生徒だけを対象にした数学などのコンテストがあり、表彰式ではなんと大統領自ら表彰状を渡しているそうです。ここで入賞した学生たちを年に何回か集めて優秀な数学者が講義をしているが、にもかかわらず、数学オリンピックのブラジルチームの代表に今まで一度も公立学校の生徒が選ばれたことはないそうです。どこまで私立と公立の学校の教育レベルの格差があるかを物語っています。
こうした様々な格差によって暴動が起こりましたが、政府も格差を縮めようとなんとか努力することを心から願うばかりです。
ブラジルの話はまだ続きます。次回はブラジルでの釣りとリオデジャネイロについて話すので、お楽しみに!
☆アメリカについて
(2013.7.1)
久々の更新です。実は一ヶ月ほどアメリカ合衆国とブラジルに行ってきました。今回はまず、アメリカについて話したいと思います。
昔はよくアメリカの大学に行って、毎年何ヶ月間か過ごしていました。でも日本で本格的に仕事を始めてから、アメリカはだいぶ遠くなりました。さらに、できるだけまだ行ったことのない国を訪れようと思うようになり足が遠のいた。しかし今回は、何度も招待してくれた友人である数学者ボイタの勤める、アトランタのエモリ大学に行ってきました。
エモリ大学は、かの有名なコカコーラ社が一部出資してできた大学で、今でもスポンサーの一つであり、キャンパスでペプシコーラは一切売っていない。大学に着いた日に数学科の建物の1階で自動販売機を見つけ、早速コカコーラを買ったが、値段にびっくりしました。日本とそう変わらなかった。そういえば、僕から見てあまり賢い政策とは思えないが、安倍政権はデフレ脱却を叫んで強制的にインフレを起こそうとしています。確かに日本で暮らしてきたこの四半世紀、食べ物の値段はあまり上がらなかった。僕は、アメリカは食べ物が安くて、貧困層の人でも食べることには困らない印象を持っていました。思い出すのは、かれこれ30年以上前に初めてアメリカを訪れたとき、ニューヨークの郊外でアイスクリームの店サーティワンに入って1ドル30セントのシングルを頼むと、食べきれないほど大きいアイスが出てきました。ところが今回アトランタに行って、アイスクリーム屋がなかなか見つからない中、ショッピングモールでようやくハーゲンダッツの店を見つけましたが、シングルで4ドル50セントもして、量も日本とほとんど変わらず決して多くはありませんでした。高くなったのは大好きなアイスクリームだけではなく、アメリカのスーパーの食品などの日用品は何でも四半世紀前に比べると三倍近く値上がりしていました。それが良いのか悪いのかは賛否両論あると思うけれども、僕個人の経験から言うと、インフレが起こると貧乏な人は損をしてお金持ちは得をする。アメリカもそんな感じでした。労働者階級の人々の給料はこの四半世紀であまり上がったわけではなく、エリート達の給料は跳ね上がった。友達ボイタも、アメリカで就職した四半世紀前に比べて四倍以上の給料をもらっています。だから食品の値段が三倍になっても痛くも痒くもない。
エモリ大学は、ジョージア州では最も良い私立大学です。最後に行ったときに比べて、キャンパスはとっても綺麗になり、新しい建物がたくさんできていました。アメリカの大学の特色として、どんな建物にも誰々の○○科というように名前が付いている。つまり、多額の寄付をするとその建物に名前が付くのです。ついでに大学の経営について話をすると、先生方の給料はそれなりに高いが、年功序列によるものではなく、あくまで実績による。給料がどれだけ上がるかは成績により優秀な先生ほど給料は高くなるので、必死に働きます。日本の先生もアメリカの先生も基本的に毎日大学に行くが、ハンガリーやフランスやイタリアの先生はそうではない。給料が安いから仕方がないでしょう。だいたい毎日大学に行く日本とアメリカの先生ですが、やっていることはかなり違います。日本の先生は会議で忙しく、書類の作成などに多くの時間を割く。一方、アメリカの先生は研究や学生の世話に忙しい。ボイタの研究室にいると、30分に一回は必ず学生が訪れてきて、その学生たちに対して彼はとても親身になって対応していました。僕が着いた時はちょうど期末テストの時期で、二日間かけて必死に成績をつけていました。日本では学生が成績に文句をつけることはあまりないが、ボイタが必死に考えて平等につけた成績に対して、変えてくれるよう多くの学生からお願いがきたのには驚きました。とにかく彼はとても忙しく、一緒に大学を出て家に帰るのが23時前なのは稀だった。ほとんど深夜まで大学にいて研究し、とても充実した滞在でした。
日本では子供の数が減っているので、大学の経営のために積極的に海外からの留学生、とりわけ中国からの学生を入れている。アメリカは子供の数が減る傾向にあるわけではないが、中国の学生が極めて多い。その最大の原因は、次のことによるそうです。アメリカの学生は、入学試験に合格して大学に通う意思があると、お金がなくても入学を断られない。入学が決まった学生の親の収入が足りないと、大学が奨学金やローンなどの対策を講じなくてはならないそうです。アメリカ人の学生から入ってくるお金は少なくなっていて、その分、高い学費をきちんと払ってくれる海外からの留学生が頼みの綱で、大学からするとまさにドル箱。というわけで、特に理系の学問では中国人学生が三割近くいるのではないかと言われました。それ以外にも、インドや東南アジアなどからの留学生もかなり大勢いる。言うまでもなく、先生もアメリカ人は少ない。僕が見た数学科の先生の中では、確実にアメリカ生まれのアメリカ人と思われたのは40人中2、3人しかいませんでした。学科長は30年前にムンバイで会ったことのある立派なインド人数学者で、女性の素晴らしいインド人の先生や中国人数学者もいました。世界の人口分布から考えても、将来はおそらくこの二つの国の学者は増えるだろうが、今のところまだヨーロッパ出身の学者が多い。ドイツやロシアやポーランドやチェコやハンガリーなどの先生が大半を占めていました。
ところが、これだけ大学は立派だけれども、アメリカに住みたいかというとなかなかそういう気持ちにはならない。まず、アメリカのテレビは超つまらない。日本でも家にはテレビがないのでホテルに泊まった時しか見ませんが、日本のテレビ番組はまあ面白い。行った時はボストンマラソンのテロ事件の後だったので、そのニュースがとても多く、しかも非常に強い国粋主義の考えを伝えていました。たった二人の愚か者のために、他の海外からの留学生全員を敵対視するかのような低レベルの発言が多かった。他のニュースもほとんどアメリカと直接関係があるものばかりで、狭い視野でしか見ていないような番組ばかりの気がしました。
面白いことに、最もアメリカらしさを感じたのは、なんと水族館でした。アトランタにとても大きな立派な水族館ができて、僕も訪れてみました。魚や動物は素晴らしかったが、がっかりしたのはショーでした。見たのはイルカショーで、イルカが主役だと思ったらそうではなく、ハリウッドのショーのように空想の話がメインでした。船が大きな嵐に遭って雨が降ったり雷が落ちたり、さらに鮫に襲われたりするが、結局最後はハッピーエンドに終わる。イルカたちは時々出てきてジャンプする程度の脇役でした。日本の全国あちらこちらの水族館で見たイルカショーに比べて、動物を紹介するレベルがかなり低かった。
アメリカはこういう国だが、大学はとても立派で、これからも世界の学問の中心であることは間違いないと感じてブラジル行きの飛行機に乗りました。
エチオピアの学生は皆上を向いている
(2010.3.15)
エチオピアはアフリカの中では珍しく、とても永い歴史があります。キリスト教信者が多く、2000年近くも前にキリスト教が伝来したと伝えられています。世界遺産に認定されている遺跡もあちらこちらにあります。しかし、僕の旅行では遺跡を巡って昔の人のことを知るよりも、今生きている人、若者を訪れることが主となっています。 今回も首都アジスアベバにあるJICA(日本国際協力機構)のオフィスを訪れ、そこで紹介されたエチオピア北部の学校で教員として活躍している10人ほどの日本人を訪ねました。そして彼らの働くいくつかの学校で授業を見たり、自分も授業をしたり、校庭で1000人近い全校生徒の前で大道芸を披露したりしました。
青ナイル川の源流であるエチオピア最大の湖、タナ湖がある大きな都市に行き、そこにある大学も訪問しました。緑が多くとても綺麗な学校でした。そしてキャンパスには溢れるほどの学生がいました。そこに通う学生たちとも話をしましたが、皆未来への希望も大きく、勉学に勤しんでいる姿に大変感銘をうけました。
構内で大道芸も披露したところ、その報酬として学食が出るレストランへ招待されました。大体の学生たちは貧しく、構内にある寮に泊まっています。寮に泊まっている学生たちは学校のレストランで学生証を見せて中に入り、食券などは買うことなく食事ができるのです。僕もみんなと同じように中に入って、エチオピアの名物料理インジェラを食べました。
アジスアベバに戻ってからはアジスアベバ大学にも行ってきました。40年以上も国王を務めたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が設立し、彼の宮殿だったところが大学のキャンパスの一部になっています。そのキャンパスもやはり緑が多く、美しい建物がたくさん並んでいました。そこの学生とも交流し、たくさん話をしましたが、やはり意志を高くもっている学生がたくさんいるように感じました。何が彼らの希望の基になっているかというと、アジスアベバの街を歩けば目につくように、「建設ブーム」なのです。現在は主に中国、続いてイタリア、多少日本や他の国や投資家の援助もあり、新しい建物やホテル、地方へ行く道路を新しく作ったり、舗装したりする現場がたくさん見られます。そのような街全体の活気あふれる様子が若者に希望を与えているのです。
知り合った大学の先生の家に招待されましたが、日本人から見れば貧しい環境にあり、家周辺の道は舗装もされていない土だけの道でした。また、家には水道や水洗トイレもありませんでした。しかし、そこに住む人々が希望を持っているか持っていないかは、現状とはそこまで関係ありません。数学的に言うと、実際の生活水準ではなく、生活水準を表すグラフの微分(=傾き)によって決まるのです。自分たちの生活は毎年良くなっている、これからも良くなるんだ、と信じている人たちは希望をもっていて明るい。しかし永い不況に苦しみ給料やボーナスも下がり、将来の不安を持っている日本人・若者たちは、実はエチオピアの人たちより何十倍もモノを持っています。しかし将来への希望・期待はそこまで持てないというのが現状なのです。
今までアフリカの他の国も色々訪れてきましたが、これだけ多くの若者が強い学習意欲、将来への期待を強く持っていると感じたのはこのエチオピアのだけではないかと思います。
パキスタン旅行(その3)
(2009.4.22)
国際会議へ招待された25人程の先生を大学の数理科学研究所まで運ぶバスはホテル前で待っていた。全員乗るとかなり窮屈で、左右の席の間にある補助椅子も必要となった。20メートルほど離れた所にすごく立派なパノラマ・バスが停まっていた。それは何と昨日テロリストの襲撃を受けた車だった。
恐るおそる見に行ってみるとフロントの防犯ガラスは3ヶ所も壊れていた。2,3の穴が開いていて、ガラスには雪の結晶のように放射状に4,5ひびが広がっていた。バスを横断した弾痕もすぐに見付けた!
研究所へ向かう途中に、テロがあったリバティー・チョーク(自由広場)を毎日通った。そこには連日人が集まっていて、殺された人達の写真に花を供えたり、祈祷したり、大声で叫んでいたりした。
10分程で研究所がある路地に着いた。入口には銃を持った警備員がいた。研究所の屋根の上にもまた、警備員がいた。しかし強い緊張感が漂っていたのは初日だけである。翌日は警備員にお手玉を披露した代わりに記念写真を撮ってもらったり、別の人にウルドゥー語で「弾は幾つ?」と尋ねたら銃を開けて実弾を握らせてくれたりした。
二日目の午前、僕の講演が無事に終了して、ホテルと研究所だけにいる「軟禁状態」はすごく嫌になった。渡りに船というか、研究所の庭でいつもの様に用意されている昼ご飯の際、カーンという大学院生に「先生の講演の原稿を是非コピーさせて下さい」と声を掛けられた。「どこでコピーするの?」と聞くと、「近くの市場で」という答えが返ってきた。これはチャンス!と思い「では一緒に行こう」とカーン君と門の外へ出た。たかが徒歩6分の小さな繁華街に行くだけだったのに、大冒険が始まるかの如くワクワク、ハラハラと溢れる好奇心と拭い切れない緊張感で胸が爆発しそうだった。(続く)
パキスタン旅行(その2)
(2009.3.31)
ラホール行きの飛行機は満席で、しかもほとんどの乗客は服装からも明らかに判るようなイスラム教徒だった。隣に座った人はラホール生まれで、シドニーでパキスタン製生地を販売している人だった。そのため英語はとても流暢に話せた。機内食にはアラビア文字で「ハラール」、つまり「イスラム教徒の人も食べても大丈夫です」と記されていた。実はキリスト教も、イスラムよりも強く、古いユダヤ教に影響を受けていた。豚を食べないなどの、食に関するイスラム教の戒律の由来もそこにある。しかし、この事実を知っているイスラム教徒はほとんどいない。それどころか、彼らはユダヤ人を蔑んで「PIG EATER(豚喰い)」と呼んでいる。
そのような話はせず、チキンライスを食べながらたわいのない会話を愉しんだ。家族との再会を楽しみにしている彼は、食後すぐに眠ってしまった。一方、東京で起きてから20時間以上も経った僕は、不安で睡魔も襲ってこなかった。次から次へと見えてくるインドの都会、カルカッタ、デリーなどを空から確認しながら、1947年の独立後に対立と戦争を繰り返してきたインドとパキスタンの歴史を考えていた。
深夜23:40にラホール空港へと着陸した。入国審査のために並んでいて驚いたのは、検査員が全員女性だったこと!インターネット新聞で受けたイメージにはそぐわなかった。イスラム原理主義が幅を利かせるパキスタン社会では、女性は働かない、男性と接することは極端に少ない、と思っていたのだ。これはラホールで破られた先入観の第一号にすぎなかった。
パスポートに無事入国スタンプが押され、手荷物もすぐに出てきた。そして外に出ると約束通り僕の名前が書かれた横断幕を持った人が待っていた。彼は運転手で、僕をホテルの車、パキスタン工場で組み立てられたトヨタ車まで案内してくれた。 空港から街までの道の両脇に、軍の駐屯地と退役軍人の住宅が並んでいた。午前中に起きたテロの影響で、車は2箇所で警察に止められ、運転手の身分とトランクがチェックされた。 街の中心部に入ると予想以上に西洋的で、ホームレスの姿もゴミも見当たらなかった。小半時間でホテルに到着した。(続く)
パキスタンに行って来た
(2009.3.24)
3月3日から8日までの5日間はパキスタンの古都、Lahoreを訪れた。その切っ掛けは向うのある大学(GCU)で行われた数学会議だった。招待状が届いた時は正直言ってかなり迷っていた。日々テロ事件が起こっているパキスタンに行くべきか,と。しかし、この国を訪問するチャンスは他ないのではないかと思い、会議への参加を決心した。
人口が一千万程度のLahoreなのにテロや政治的不安によって国際便も減り、結局バンコク経由で行くことになった。バンコク空港で乗り継ぎ便を待ちながら有料インターネットで世界のニュースを見た。何とトップに出てきたのは「今朝Lahoreでテロがあり8人が死亡。犯人グループは逃走中」。地図で見るとテロがあった自由広場(Liberty Chowk)は僕泊まるホテルから500メートルしかない。出発の前にインド人の友人をはじめ、多くの知合いにあんな危ない所へ行くべきではないと言われた。Lahoreは内戦状態であるPeshawarと違うから大丈夫、とたかをくくっていた僕もこのニュースを読んでびびった。ゲート前の待合室もとても緊迫した様子だった。Urdu語は少ししか判らないけれど方々から聞こえる「Sri Lanka」や「Cricket」の言葉が聞こえて、やはり皆Sri Lanka の Cricketチームが攻撃されたテロのことを話し合っていることは明かだった。誰かと話をしたいな、と周りを見たけれど日本人も白人も見あたらなく、パキスタン人は皆暗い表情で困惑しているようだった。しかもその中でもイスラム原理主義の服装を着ていた者が多かった。「今なら渡航をまだ辞められる。そしてタイで楽しい休日を過ごして日本に帰れる」と弱音をはきそうになった。迷った挙句自分の強運を信じることにして飛行機に乗った。 (続く)
∧top
<
前のページ
/
次のページ >