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カナダ

(2015.11.27)

 カナダの話に戻ろう。広くて豊かな国、カナダ。
日本でニュースに載ることは少ない。ちょっと前の話になるが、そのカナダから嬉しいニュースが届いた。新しい内閣の発足である。支持する政党かどうかは別として、30人の大臣達の男女比が半々であるのは素晴らしい。〔女性が輝く社会〕を作りたい安倍さんに、是非とも参考にしてもらいたい!
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新首相は平和路線で、イスラム国との戦いからも撤退すると宣言した。アメリカとカナダ、同じ北米の広い国だが雰囲気は違う。僕の性に合うのは、やはりカナダである。

 今回の国際会議に参加したフランス人で、妻子を連れて来た人もいた。妻子は数学を解らないので、レンタカーでシアトルまで観光しに行ったが、帰って来た時の話は印象的だった。「アメリカに入る時の入国審査が厳しくて、国境を越える為に3時間も費やした!ところがカナダに戻る時は、車の数が同じであるにも関わらず10分も掛からなかった!」と。
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 テロ防止などとよく言うけれど、テロリストはカナダに入ってしまえばアメリカにも入国できるだろう。両国の5000キロに及ぶ国境線を、検問所も何もない所で渡れば簡単だ。つまりテロ防止にはあまりならないのに、善良な観光客には多大な迷惑になる。まあ、今回の国際会議は80歳の誕生日を迎えたロンをはじめ、親切で友好的なアメリカ人が大勢いたので、アメリカの悪口を止めよう。
 実は数学などの国際会議の数が夥しい。年に十回程度参加する友達もいる。どちらかと言うと、学問の為よりも旅行気分で参加する人が多い。講演の間もパソコンを開いてあれこれ書いたり調べたりする人が多い。休憩時間には、用意してあるコーヒー類とお菓子をいただきながら、知り合いと話をする。
その会話の内容は数学よりも「明日の午後はバンクーバーを一緒に散策しない?」や「来月のローマの会議は参加する?」のような内容の方が多い。そして国際会議で一番盛り上がるのは、立食パーティーである。食事は豪華でお酒も出る。
やはり僕もその場を選んでジャグリングを披露することにした。その詳細はまた〜



 

(2015.11.06)

 これまでの人生で一度も、野生のというか檻に入っていない熊を見たことがない僕は、まさかと思った。しかし目を凝らして、のそのそ歩く姿を確かめると、疑いが消えた。どうすれば良いのかと必死に考えた。逃げ込めるような建物は近くにはなかった。木がいっぱいあるが、熊の方が木登り上手。一目散に走り出しても、熊にはとてもかなわない。そこで五年ほど前に北海道で会った、山歩きのガイドさんの話を思い出した。彼は「敵意がないと、掌をちょっと見せながら後ろへ下がるべきだ。」と言っていた。
その策を実行して、後ろ向きで道路の柵沿いを来た方向へと静かに歩き続けた。熊もこちらへ向かっているので、距離はなかなか変わらない。しかし運良くこちらを見向いてなくて、狭い歩道の両脇の伸びた草を嗅ぎながらゆっくり進んでいる。走り出したらどうしようと怖かった一方、自然にいる熊の姿はとても可愛かった。このように3分程が過ぎたところ熊は車道に出て、それを斜めに越えて、茂みへ消えた。僕の興奮状態はなかなか収まらなかった!
国際会議の初日であった翌日、色々の人に熊に遭遇した話をした。その中のペニーというカナダ人のとても優勝な女性数学者は、一番熊に詳しかった。オンタリオ州の町外れの家の庭で、何回か熊の姿を見たことがあると言う。それでも年に一度あるかないかなので、僕の話に半信半疑だった。
しかし、カナダで伝わる熊対策を教えてくれた。熊をその色によって3種類に分ける。
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(1)は手を上げたり、ジャンプしたり、体を実際より大きく見せたり、また大声で叫んだりすることによって、退ける可能性もある。
(2)徹底的に死んだ振りをするしかない。
(3)死ぬのは確実!絶対殺される。
会議の二日目の昼、ペニーは「ピーター、ピーター」と僕を呼んできた。あなたが熊に遭遇したのを信じるようになったと、前日の態度を謝ってくれた。「朝6時にピーターと同じ道をジョギングして、やはり熊を見た。成獣の黒熊で百キロを越えていた。」などと、自分の熊遭遇体験をつぶさに語ってくれた。
その後キャンパスでアライグマに三回逢って、4匹の小鹿の群とも戯れた。カナダは自然が豊かな国だなと、身をもって確認できた!
次回は会議(人間)について報告しよう。



 

バンクーバー

(2015.11.02)

 飛行機がバンクーバーに到着したのは昼頃だった。入国審査に時間が掛からず、そのまま郊外にある大学のキャンパスまで行くのはもったいないと思った。インフォメーションで行き方を聞いて、街の地図を貰った。カナダは国民の医療費がただである程の福祉国家なので、アメリカ合衆国と違って、公共交通も安くて発達している。空港から街の中心まで列車が走り、同じチケットで2時間以内ならそのままバスにも乗り換えができる。週末は利用者が少ないからか、平日よりも安い。
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 講演会に常に持って行くトランクなど荷物がかなりあったが、とりあえず列車に乗って中心地まで行った。時期は6月中旬でとても過ごし易い陽気である。キャスターを引っ張りながら一時間程見物した。途中、カフェテラスでサンドイッチを食べた。
バンクーバーの街はほとんど初めてだった。と言うのは丁度30年前に一回訪れたが、当時は招待してくれた数学者の家に泊まり、家と大学の往復を繰り返すばかりだった。車に乗せて美しい海外線を見せてくれたが、車中でも数学の話ばかりをして、景色はあまり記憶に残っていない。
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  カフェを出て再び歩き出した時、大きなリュックを背負った二人の男に声を掛けられた。「Are you professor Frankl?」
って。とてもびっくりしたが、やはり同じ会議に来た30代の数学者で、僕の論文をいくつか読んだことがあると判明した。一度も会ったことがなかったが、インターネットで写真を見たようだ。結局、一緒にバス停を探してキャンパスまで行った。一人は一年間ブダペストに留学した経験があり、話がけっこう盛り上がった。
それでもバスを降りてからはよそよそしく、「ではまた明日」
と、夕御飯を一緒に食べようとか連絡先を交換するとかしないことは、如何にもアメリカ人らしいと感じた。
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 ホテルにチェックインできたのは午後3時過ぎだった。日本時間は(翌日月曜日の)朝5時。飛行機が混んでいてなかなか眠れなかったので、広いベッドを見ると突然眠気に襲われた。1時間ほど寝るつもりだったが、目が覚めたのは7時!ホテルの学生食堂も売店も閉まっていた。フロントの女性に尋ねると、広いキャンパスの反対側にある10時閉店のレストランを勧められた。
建物がずっと並んでいるほぼ真っ直ぐな行き方もあったが、まだ明るかったし、どんな木や花があるのかと興味があって、回り道して周囲の森を観察しながらレストランに向かった。時々鳥の囀りが聞こえるので目を凝らして音源を探したが、なかなか鳥は見当たらなかった。ある時視線を再び前方へ戻すと、50メートル先から大きな黒い物体がのそのそこちらへ向かってゆっくり歩いてくるではないか!熊?まさか!どうしよう?(続く)



 

ロン

(2015.10.26)

 僕の自叙伝「数学放浪記」を読んだことのある方がだいたい覚えている登場人物に、ロナルド・グラハム、通称ロンがいる。
彼はなんと今月の末で満80歳になる。
 彼と出逢ったのは40年も前、僕が二十歳の時である。先輩に誘われ、地元ハンガリーで行われた数学の国際会議に出席した。出席と書くと偉く聞こえるが、当時はまだ学部の学生で、発表するどころか講演の大半は理解もできなかった。
語学力を先輩に買われ、様々な国から訪れて来た先生方を案内したりするのが役割だった。
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   ロンがブダペストの空港に着いた時も、僕は出迎えて彼をホテルまで連れて行った。偉い先生らしく、チェックインが済んでからすぐ客室へ消えた。 詳しい話は「数学放浪記」にあるので延々と書いても仕方がない。とにかく二日後に会場近くの芝生広場でいろんな人にジャグリングの基礎を教えていた時、僕もロンに弟子入りした。
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ハンサムで背が高くて話し方が優しくて女性にも大変人気があるロンは、僕にとっても憧れの的となった。「How old are you」と聞いてみた時に、答えてくれなかったのが不思議だった。
30歳位かなと思っていたが、実際は38歳で、自分の歳を気にしていた。世界屈指の研究機関、世界初の通信衛星を造ったことでも有名なベル研究所に務めていた。そして数学部のボスに就任した直後、僕も研究員として招待された。

時は1985年。10月31日、ロンの50歳の誕生日、彼に首ったけだった中国出身の女性は、プレゼントと共に『over the hill』と書かれた横断幕を置いた。日本でもよく使われている孔子の言葉〔不惑〕や〔知命〕のように、アメリカでも様々の年齢を表す表現がある。over the hill は『これからの人生は下り坂だよ』と警告の意を持っている。決してめでたい言葉ではない。彼女がこんな横断幕を置いたのも、ロンは別の中国系女性と再婚したばかり、彼女に対する恋心を抱いていなかったからであろう。
 ところがロンの場合は違った!それからも優秀な数学者である妻などと素晴らしい論文をたくさん発表したし、僕とジャグリングの新しい技を色々練習した。
そして何よりも五年後に全米数学会のpresidentに選出され、
二期務めた。正に八面六臂の大活躍である。
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 因みに彼は、毎年夏は気候が最適のバンクーバーで6週間を過ごしている。避暑の旅ではあるが、普通の夏休みではない。バンクーバーの有名な大学での研究活動である。
このような縁もあって、ロンの80歳を祝う大きな国際会議は、彼と奥さんが今でも教授であるカリフォルニア大学ではなくバンクーバーで開催された。


 

フィンランド

(2015.10.16)

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 スイスへの行きも帰りも、フィンランドの首都ヘルシンキで一泊した。空港からの市営バスの終点は中央駅である。大きな広場に佇む幾つかの彫刻で飾られているが美しくない。どちらかと言うと白夜の時期も暗い雰囲気であった。
やはりフィンランドの暗い歴史を感じさせられた。中世はスウェーデン、19世紀からは帝政ロシアに支配され、厳しい自然環境の中で国民の暮らしも苦しかった。
実は日露戦争で日本が勝利したことをヨーロッパで最も喜んでいたのはフィンランドである。スーパーでは今でも〔東郷平八郎〕ビールが販売されている。
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帰りの便は夜だったので時間に多少余裕があり、港まで散策した。キリスト教の国で日曜日が安息日なので大きな店は全部しまっていたが、船着場の周辺の市場はとても賑やかだった。観光客も多く土産をたくさん売っていた。僕は買い物をしないで島巡りの船に乗った。フィンランドの歴史の詳しい話を聴きながら海から眺めるヘルシンキは、なんとなく美しく見えた。
 船着場から再び駅に戻る道を歩き出して一番驚いたのは、先まで閉まっていたデパートがみな開店していた。やはり信仰と消費のバランスと言おうか、ルールが変わり、午後からの営業は許された。つまり良い市民に求められるのは午前は教会、午後は買い物に行くことだ! 僕はどちらにも行かず、オープンカフェのテラスでサンドイッチを食べながら行き来する人々を観察していた。
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リヒテンシュタイン

(2015.10.06)

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 リヒテンシュタインと聞いたことがありますか?知らない人も多いだろう。スイスとオーストリアに囲まれた小国である。今回のスイス滞在中にやはり行ってみることにした。
 リヒテンシュタインという小さな国の名前は小学生の頃から知っていた。その訳は父が熱心な切手収集家で、日曜日はよく僕を切手を買ったり交換したりするクラブに連れていってくれた。切手には必ず発行した国の名前が書いてあるので、その場でたくさんの国名を覚えた。後々高校で立地条件や首都の名前(ファドゥーツ)も学んだが、それ以外の知識は殆どなかった。
 ネットで調べると、海に囲まれた日本の正反対で、世界で二つしかない doubly landlocked country の一つである。つまりその国は海に面していないだけではなく、隣の国も海がない。(因みにもう一つは解るかな?最後に答を書いておく)。
リヒテンシュタインはどこまで小さいのか?その面積はたったの160㎢で東京都の1/13にも満たない。そして人口は4万人未満だ!しかし税制の関係で、欧州連合の様々な国から色々な会社が支店を置き、一人当たりの(物価水準に合わせた)実質GDPで世界トップである。

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 スイスからリヒテンシュタインに入るためのサルガンス駅からの路線バスは安くて便利。どこまでスイスなのかどこからリヒテンシュタインなのかと気になっていたが、意外と簡単だった。両国の国境はライン川である。だから橋を渡ればリヒテンシュタインである。
 ホテルに翌日の着替えや洗面道具などを置いてから、殆ど空っぽになったリュックを背負って国の探索に出た。住宅の殆どが庭付きでとても綺麗で、街を走る車も高級車ばかりであった。さらに高級な(?)乗り物として馬もいた。特にライン川沿いの道で何人も乗馬を愉しんでいる人を見た。牧場にもかなりの数の馬がいた。国境の警備は全くなく、僕も新しい橋を渡ってスイスに入国したり、またリヒテンシュタインに戻ったり、橋の真ん中にある国境表示の写真を撮ったりして楽しんだ。天気は快晴で気温は20℃位で、ウォーキングに適していた。そして綺麗な家々は個性があっていつまで見ても飽きなかった。
 首都ファドゥーツの中央広場に幾つかの店があった。一番豪華なものはスイスの時計を売っている店だった。僕も入ってみてびっくり!中国人観光客がいっぱいいて、販売員の半分は中国人であった。時計の中には数百万円の品もあったが、バスで来た団体観光客は2〜3万円の時計を一瞥して、何人かは買っていた。店から出てきた中国人と話してみた。こちらが流暢に中国語を話せることに驚いて、とても親切に僕の質問に答えてくれた。中間層の素朴な人々で、バスのツアーでドイツやオーストリア、スイスを八日間で旅していた。買い物が終わると皆バスに乗り込んで次の目的地へ向かった。
 欧米人の観光客で自転車で道を走る人を十数人見たが、僕のように歩いている人は出稼ぎ労働者しかいなかった。お城を見たり、山に登ったりして遂にリヒテンシュタイン唯一の鉄道駅がある街、シャーンまで辿り着いた。リヒテンシュタインで人口が一番多いとはいえとても長閑で、中央広場でイタリア食材の祭りをやっていた。猪のソーセージを試食したが、豚肉と変わらないと感じた。スーパーでパンとチーズと七面鳥のハムを買って、広場のベンチに座って遊んでいる子供たちを眺めながら遅い昼にした。
 大通りでファドゥーツに戻った。今度は土産屋に入った。やはり切手も売っていた。但しその中で一番多かったのは、戦時中のヒトラーの顔だけが載っているものだった。がっかりして全部破りたい気持ちで胸が一杯になった。こんなにたくさん置いてあるということは、それを買う人も相当いるのだと思って更に悲しくなった。しょんぼりして店を出た。そして雪を被った綺麗な山々を眺めながら宿に戻った。  夕飯は食べなかったので翌日の朝ご飯は余計に美味しく頂いた。僕以外はスイスから来たビジネスマン一人しかいなかったのに、色々な食べ物が大きなホテルに負けない程広いテーブルの上に置いてあった。やはりリヒテンシュタインの豊かさを感じさせた。
 最後に、クイズの答えはウズベキスタンである。


 

エストニア

(2015.09.30)

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 今回のヨーロッパの旅はマルタ以外にまだ行ったことのなかった小国を訪ねた。エストニアとリヒテンシュタインである。
エストニアはバルト三国の一つで、人口は僅か134万人である。公用語のエストニア語はフィンランド語に近く、両国の民族が親戚であることの証でもある。この親戚関係はエストニアがソ連の解体によって独立した時、大きなプラスになった。フィンランドの経済援助や投資によって急激な成長を果たしたのだ。両国の首都ヘルシンキとタリンの距離は90キロ未満で、毎日たくさんのフェリーが往来している。僕もヘルシンキ空港から街の中心までバスで行き、荷物を引っ張りながら散策してから路面電車で港に向かった。波も殆どなかったフィンランド湾を三十分ほど航海すると、もう対岸のタリンが見えてくる。  僕が乗った大型フェリーは10階建てでレストランや売店などがあり、金曜日の夕方ということもあり凄く混んでいた。乗っていた人の大半はフィンランド人観光客と、フィンランドで働いて週末を利用して帰国するエストニア人であった。前者は殆ど荷物を持たないのに対して、後者はフィンランドからの家族への土産をたくさん抱えていた。因みに日曜日の午後、ヘルシンキに戻る時は状況が逆にならず、殆どの人は大量にビールなどの酒を運んでいた。EU内なので関税がなく、しかもエストニアの方がずっと物価が安い。  泊まったホテルはフェリー乗り場のすぐ近くで長旅の疲れと時差もあり、九時過ぎにはもう爆睡していた。
 ホテルの朝ご飯は北欧らしいニシンの三種類のサラダなどもあり、いろんな国の観光客と触れ合いながら腹十二分目になった。
 世界遺産にもなっているタリンの旧市街地まで徒歩20分。天気も良く、海辺を散策しながらゆっくり向かった。人口は42万人で道路が広く人に会うことも少なかったが、小高い丘を登って旧市街地に入った途端、たくさんの観光客が眼についた。方々に停まっている車から判断すると、彼らは観光バスやタクシーで来たらしい。GWの最中とのこともあって日本人もけっこういたが、中国人の方が多かった。ヨーロッパ各国の言語を聴きながらずっと街を歩いていた。旧市街地の道は石畳みで狭いけれども雰囲気は非常に良く、昔ながらの色鮮やかな家々が佇んでいる。  中央広場にレストランとカフェがたくさん並んでいたが、朝ご飯の食べ過ぎでメニューを読むことだけで満足した。観光客の目を引く為に殆どのレストランで鹿や兎と猪の料理、二か所で熊肉もあった。これをエストニアの伝統的料理だと思わないでほしい。普段は彼らも牛肉や豚肉、鶏肉を食べている。バルト三国でちょっと変わった食べ物と言えば、秋になると森でのキノコ狩りが人気で、それを料理して食べたり市場で売ったりする。毒キノコの見分けができないと話にならない!数が減っているけれど年々死者が出るそうだ。

 午後は街角で面白い物を発見した。セグウェイの貸し出しである。
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以前に成田空港で警備員が乗っているのを見たが、自分が乗ったことはなかった。二時間で2000円程度なので、やはり挑戦した。意外と簡単で坂道を登るのも楽で、すごく愉快な気持ちでそれまで散策した道を走り回った。ヨーロッパでもやはり珍しいらしく、僕の写真を撮る人や、乗り心地はどうかと尋ねてくる人も数人いた。 陽が差しているうちはぽかぽか暖かったが、夕方になると広場のレストランでは皆、貸し出しの毛布を背中や膝に掛けていた。しかも翌日は雨でかなり寒かった。その日は歴史などに関するいろいろな博物館を巡ってから、夕方のフェリーでヘルシンキに戻った。


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