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エクアドル |
(2017.04.06) |
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南米の小国、人口1600万人余りのエクアドル。その大統領選挙のニュースが、意外にも世界中のマスコミで取り上げられている。その最大の理由は、ウィキリークスのアサンジ氏が在英エクアドル大使館でアメリカから身を隠していることだろう。ここでは政治的な話を控えて、一般の日本人にとって馴染みが薄いエクアドルについて、自分の想い出を含めて紹介したい。
国名は赤道を意味している。その通り、国土は赤道を挟んでいる。僕も赤道記念館を訪問して、子供のように何回も赤道の上を超えて遊んだ。 赤道というと凄く暑いイメージがある。しかし首都のキトは海抜2800メートル位でとても過ごし易い。夜は涼しくてセーターを着たくなる。
そしてすぐ側にコトパクシという標高5,897メートルの山がある。晴れた日は街からもよく見える美しい雪山である。富士山よりもずっと高いこの山の話を後にしよう。なにしろキトの市街地の海抜も街として凄い。これをサッカーを通じて説明したい!
南米の強豪といえばブラジル、アルゼンチンや、ワールドカップで二回優勝した経験があるウルグアイだろう。しかしエクアドルではナショナルチームになかなか勝てないのだ。その原因は海抜である。海抜が0に近いブエノスアイレスからキトに飛んで来ると、高山病にならなかったとしても動きは酸欠で鈍くなる。一週間程現地で過ごせば大丈夫だが、サッカー選手は国内外のリーグ戦で忙しくそんな暇がない。だから、そこそこ上手いエクアドルのチームに負けても不思議ではない。
因みにコトパクシ登山に挑戦したのは、キトで7日間毎日大道芸をやってからである。そもそも南米で登山すると想定していなかったので、いつものウォーキングシューズを履くしかなかった。タクシーに乗って車で行ける限りの所まで登った。4200メートルから登山開始。真上から注ぐ太陽の下でもやはり寒い。早く歩けば身体がすぐ温まるが、酸欠で普通歩きもやっと。しかも登れば登る程、空気は薄くなる。海抜4800メートルにある山小屋は見えるのに、なかなか近づけない。周りに世界中からの登山家がいるけれど、声を掛ける余力はない。
山小屋は結構広く、廊下やいくつかの部屋の壁際に数十人が寝袋で寝ていた。大きな四角いテーブルの周りのベンチには、ぎっしり人が座っていた。そしてリュックからテーブルに出した持参の食べ物をゆっくり食べていた。席が空くのを待ってから、僕も市内で購入したフランスパンとシチューの缶詰めを食べ始めた。疲れを取る為に、やはり一口一口を味わいながら時間を掛けて頂いた。もう少し休みたい気持ちはあったが、席が空くのを待っている人がいたので、パンの最後のひとかけらを口に入れると共に立ち上がった。ゴミを平気で捨てる人が多いせいなのか、富士山と違って外に大きなくず入れがあった。ゴミをそこへ捨てて登山を再開した。
火山灰でできたフワフワした登山道であった。ジグザグでゆっくり登る道ではあったが、進むのはスローモーションのようだった。息苦しいと直接感じないのに、より早くは動けない。本当に不思議な気持ちだった。周りの人も皆そうだった。頻繁に足を止めて写真を撮ったり、振り返って山麓にあるキトの街を眺めたり、一時間が経ってやっと雪の境界線である5000メートルを超えた。リュックを下ろして中から5つの柔らかいボールを出した。何回か落としたが、結局ある程度安定してジャグリングができた。しかも記念写真も撮ってもらった。
もうちょっと頑張ったが、靴はどんどん滑るようになった。軽装備で頂点まで登るのは無理だと最初から分かっていたので、暫く立ち止まって美しい景色を味わった。そして下山を始めたが、驚く程に楽だった。小走りするように、たちまちタクシー乗り場に到着した。
この登山のお蔭で、エクアドルの次に訪れたボリビアとペルーも高山病に苦しむこともなく満喫できた。やはりエクアドルが好き。機会があればこの国の最大の名所、ガラパゴス島も行ってみたい〜。
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韓国 |
(2017.03.13) |
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先週の金曜日、待ちに待ったニュースが報じられた。朴槿恵大統領の罷免である。人の不幸を喜ぶのは美しいことではない。僕も決して朴槿恵さん個人に対して恨みがある訳ではない。そもそも韓国のニュースに深い関心はなかったが、去年の11月から何回かテレビ朝日のワイドショー『ワイドスクランブル』に出演して、コメントを求められた。
政治的自由がなかったハンガリーに育った僕は、言論の自由がある民主主義国家に憧れていた。(日本に住んでいる大きな理由の一つでもある。)だから自国の大統領について様々な疑惑が浮き彫りになったことを切っ掛けに、その事件の追求、後に弾劾を平和的に求め続けてきた市民に親近感を覚えた。 せっかくの土曜日の夜にテレビや映画を観ず、友達や恋人とレストランやバーに行かず、同様な意見を抱えている仲間と国の為に蝋燭を灯して合法的にデモをやっていた老若男女を、自然に応援するようになった。
ネットと新聞で崔順実の人物像を調べてから、僕の気持ちも更に強まった。最終的に憲法裁判所も、崔順実被告を私的顧問として扱ったことを罷免の理由として認めた。度重なる報道によって、事件の詳細は日本の皆さんもよくご存じだろう。それを解説しても仕方がない。
僕が嬉しいのは、国民の八割は〔支持せず〕に回った大統領を、任期の途中で平和的に引退させることができたことである。このニュースを通じて、民主主義は未だ健在だと喜んでいる。逆にフランス人として、オランド大統領のように支持率がずっと一桁でも任期を全うする者の存在は恥ずかしい!
来月や再来月、フランスと韓国で大統領選挙が行われる。国民の信頼を裏切らない、自国の繁栄と世界の平和に貢献する器が大きい人物が選出されることを願う。
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Grenoble |
(2016.10.25) |
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5月に行ったヨーロッパの旅で全く触れなかったのはGrenobleでの滞在である。フランス国籍を所有しながら、フランスに行ったのはなんと5年振りである!5年も十分長い期間であるが、Grenobleを訪れたのは丁度40年振りであった! 先ず今回は1976年の春の旅について述べよう。
当時は未だ大学生で国費留学生として7ヶ月間パリ大学で過ごした。『国費留学生』、響きは良いけれど待遇はとても悪かった。可愛がってくれた何人かの先生の誰かに招待されなければ、レストランで食事することはなかった。学生寮の家賃を引くと、1ヶ月の奨学金は当時の為替レートで5万円までいかなかった。
一方、学生とはいえ既に何遍かの論文をアメリカの雑誌で発表していて、滞在中にフランスでいくつかの大学から招待され講演をした。講演料は僅かだったが、旅費を無駄にせずついでにフランス各地を観光した。
Grenobleに発つ前に、同じ寮に住んでいた僕の懐状況をよく知っていたアメリカ人ジャーナリストに「Grenobleに滞在中のインド人同僚がいるけれど。ピーターを泊めてくれるかどうか、彼に聞いてみようか?」と提案された。
講演終了後、大学のすぐ側にあるGrenoble駅でそのインド人に会い彼のアパートに行った。1DKの狭いアパートで奥さんと4ヶ月の赤ちゃんが待っていた。食事をしながらアパートを見渡したが、ダブルベッド一台と赤ちゃん用の小さなマットレスしかなかった。 夕飯が終わってから駅に戻って安い宿を探すしかないと思った。
しかし食後のチャイを飲みながら「そろそろ失礼する」と言い出したら、インド人は凄く驚いて「ここに泊まって大丈夫」と。美味しい料理をご馳走になって彼らを傷つけさせたくなかった反面、どこに寝るのだろうと多少の不安があった。
結局、赤ちゃんはマットレスに寝て、残りの三人は旦那さんを真ん中に決して広くないベッドで夜を過ごした。のちのちインドで3ヶ月間滞在したがその時、お客さんを家族の一員として、自分たちと全く同様に扱うのはインド流のおもてなしだとわかった。
翌日は朝ご飯を済ましてからヒッチハイクでニース(Nice)へ向かった〜
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ただいま。 |
(2016.06.21) |
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ただいま。四週間のヨーロッパ訪問から帰って来た。去年に続き、スイスと数学が中心の滞在だった。
写真はスイスで一番有名な大学、ETH(Zurich連邦工科大学)での講演の様子だ。昔アインシュタインがいた大学で今でも世界トップクラスで、街の中心部に位置する建物は古くてとても雰囲気が良い。小高い丘の上にあり、鉄道の中央駅から坂道や長い階段を登って15分で到着できる。
エレベーターはたくさん並んでいるけれど、中のボタンには世界中で見慣れた数字ではなく、文字が書かれている。例えば、数学研究所はG階である。これは何階なのか確かに数字で表し難い。建物は斜面に建っていて入口は一階と言いきれない。それでも僕が入ったのはE階で「Erdgeschoss」(ドイツ語で一回の意味)の頭文字でピッタリ。E階の中央にはF-1に使用された古い車が10台ほど展示されていて、大学の太っ腹ぶりを象徴していると感じた。
僕が参加した国際会議の主催者Sudakov先生は、日本人にも名高いUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授を10年以上務めたが、高い給料に釣られてここにやって来た。冷たい雨の多いチューリッヒで、年がら年中太平洋で泳げるロスが5年経った今でも恋しいらしい・・。
HPをご覧になっているみなさんに、国際会議や数学の話よりも6月5日に投票が行われた「最低生活保障(ベーシック・インカム)」の話題を提供したい。日本のマスコミでも伝えられた、国民投票で否決されたがとても面白い法案である。内容はいたって簡単で「全ての国民と永住権を持っている外国人に月給2,500スイスフラン(およそ28万円)を支給する」ことであった。
日本語には「働かざる者は食うべからず」と言う諺がある。実はハンガリー語でも同じ言い回しがある、多くの国で道徳として教えられてきた。しかし21世紀のIT革命後の世界には合わないかもしれない。農業人口は先進国で数パーセントに過ぎず、ロボットなどの影響で工場などでの生産に係わる人口もどんどん減っている。国民の大半が働いている「サービス」産業も、通信販売などITの発展によって危うくなりつつある。一例を挙げよう。
日本で多くのフリーターはコンビニなどの店員として働いている。ベースアップや有休もなく将来性は乏しいと言われているけれど、よりショッキングな話を紹介しよう。右の会議に参加したイスラエル人教授の近所のスーパーのことである。買い物カートを押しながらそれに様々な商品をいれた末、出口の近くで地面に描かれた四角い枠にカートを停めると、瞬時に払うべき金額は数字や音声で提示され、クレジットカードをかざせば支払い終了。前に進んで商品を持参か買い付けの袋に入れて帰宅。店員とのやり取りがなく、凄く早いらしい。バーコードの代わりに使用している小さなチップをコンピュータは読み取り、間違いの恐れもない。スイスや日本でもいずれ主流になりそう!
つまりスイスの法案の元になったのもここにある。近未来、おそらく多くの人は仕事を探しても働く場所を見つけられない。先進国としてこの人々を見捨てられない。恥ずかしくて面倒な手続きを通れば今でも生活保護を受けることができるが、真面目な国民が圧倒的に多い、かつ非常に豊かな国では全員に基本給を与えた方が理に適うのではないか、というのが国民投票の対象だった。今回は初提案で否決されたが、多少形を変えて再び出てきそう!
※注:月給28万円なら日本では余裕で暮らせるけれどスイスは物価が高く、ETHのドクター生がもらう奨学金はこれの二倍以上である!
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ソウル |
(2016.02.29) |
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数学の国際会議の為にソウルに行って来た。 会議が開催されたのは韓国名門の梨花女子大学である。四半世紀前に行ったことがあるけれど、変化が大きくて凄く驚いた。キャンパスは綺麗で、とても雰囲気が良かった。
日本の女子大は門番がいて正式の用事がなければ入ることもできないところが多いが、梨花女子大学は出入りが自由で、写真を撮ったり見学したりする観光客が多かった。最も写真の対象になっていたのは、レストランと様々の店が入っている、山を掘って建設された斬新なデザインのガラス張りのビルだった。
昼飯を毎日そこで食べていて、僕もそのビルはとても気に入った。因みに唐辛子が苦手な僕は毎日ビビンバを食べていた〜。日本人はビビンバを食べる時にご飯とおかずを混ぜない様だが、韓国人はよく混ぜてから食べる。実は〔ビビンバ〕はハングル語で〔混ぜご飯〕を意味する。
会議中に泊まっていたのもキャンパス内の新築のゲストハウスで、ソウル近辺に住んでいる参加者を除いて、先生方は皆そこに泊まった。一室、一室は綺麗なワンルームマンションになっていた。ビル内に小さなコンビニやコンピュータルーム、洗濯機や卓球台もあった。日本から来た先生は、予算がどんどん削られ学生寮も無いと嘆いていた。
日本との大きな差はこれ以外にもあった。例えば留学経験である。日本の大学で教鞭をとっている先生の殆どは、国内の大学で博士号を取得している。しかし韓国では少数派になっている(あくまでも理工系の話)。今回の会議の責任者も僕の友人の指導下、米イリノイ州で数年学び、博士号取得後カリフォルニアで一年間研究を続け、祖国の大学の教員になった。日本だと大学教員のポストが少なく、外国で長年学んだ優秀な若者を雇うことは珍しい。ネットで調べたけれど、今のところ韓国人は自然科学の分野でノーベル賞を受賞していない。だからまだまだ日本の方が成績で優位に立っている。
しかしこれからも教育や基礎研究の予算を削るばかりならば、将来は楽観できない!
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トルコ |
(2016.01.15) |
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最近は明るいニュースがない。ほぼ毎日どこかでテロ事件が起こる。先日もイスタンブールの中心部、Sultan Ahmet 広場で自爆テロによって観光客ら25人が死傷した。これでトルコを訪れる日本人も減るだろう。あれだけ観光資源の多い国で、しかも外国人に対してとても友好的な国民が圧倒的に多数であるトルコだから、特に残念に思う。
イスタンブールと聞くと思い出すのは1997年の事である。まだ現役の医者であった母と一週間ばかり、イスタンブールを徹底的に観光した。泊まったホテルは街の中心部で、今回のテロ事件があった広場で何回か大道芸を披露した。トルコ語は学んだこともなく、滞在中パフォーマンス中に使える簡単な言葉をホテルの従業員やタクシーの運転手などに教えてもらったり、辞書で調べたりしていた。
滞在の終わりの頃には観客を笑わせることもできて凄く愉しくなった。一方、英語もトルコ語も全く解らないだけではなく僕のショーを何回も見た母にとっては、ワクワクするどころか、後々現像した写真を見て悟ったが、かなりつまらない一時だったようだ。 しかし一回だけ母が主役に回ったことがある。その事を話そう。
芸が終わって何人かのトルコ人に声を掛けられ、向こうは下手な英語こちらは片言のトルコ語とレベルの低い会話が続いた。そこで一人がベンチに座っている母に気づいて、「Mother?」と聞いた。「evet」(トルコ語でYes)と、トルコ語の貧しい語彙力を見せびらかすために「dermatolog」(トルコ語で皮膚科医)と加えた。それを聞くと相手が興奮して「僕の病気を診てもらえる?」と迫ってきた。
母は喜んで応じて、その場で彼の腕と肩を診て僕に病名を言った。トルコ語どころか英語でも分からなかった。母はラテン語名も言ってくれたが、相手の小型の英語トルコ語辞書にはそれらしい単語が載っていなかった。 必要な薬名も同じようでどうしようと困ったが、患者のトルコ人のアイデアで、彼と3人で近くの薬局に入った。この病気の場合に母が処方する軟膏はなかったが、市販の薬の主成分を調べた結果、症状にピッタリの軟膏を見つけた。
トルコ人が払おうとする金は断ったが、ホテルまでの帰り道で母の満足した笑顔は眩しくて幸せだった!
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