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広州

(2018.02.01)

 年末年始の旅の収穫と言えば、今の広州を観たことだろう。30年前に観た街はどこにもなかった。駅での入国審査も成田並みに素早く済んだ。駅前でタクシーを待つ列が長く、地下鉄で白雲ホテルまで行った。地下鉄は使い易く、路線図で行きたい駅のボタンを押すと、行く方法と運賃が表れる。僕の場合は、一回の乗り換えで3元(60円より少ない)。人が多いけれど、お互いを押したりはしない。地下鉄は清潔で、どこの駅でもきちんとエスカレーターもある。
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 不便と言えば両替である。観光客が少ないせいなのか、商店街で両替所は見当たらなかった。ホテルで両替したが、書類に名前や部屋番号を書かされて、パスポートのコピーまで取らされた。しかもそれから2分ほど待たされた。
  広州一の商店街、北京路の店の大半は中国のクレジットカードしか使えない。しかし洋服などの質が良く、香港島と比較できないほど安い。北京路は広州の旧市街地で、発掘された2000年ほど前の石畳の道の跡も見ることができる。広州は近くの白雲山を除くと平らである。それを上手く利用して、碁盤のように開発された。大道は片方面3車線で交差は立体的で、片方はもう一方の下を潜って景観を損なわない。(東京の首都高速道路は便利だが醜い)。信号が少ない分、車の流れは速い。車が多い分、空気は悪い。白雲山は、かなり近くを通らないと見ることはできない。
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 日本人の友達夫婦と彼らの幼い子供と一緒に、広州動物園に行った。中国三大動物園と言われているのに相応しく、素晴らしかった。猛獣を除いて、動物たちはかなり自然な環境の中にいる。動物園全体は凄く広くて、丸一日掛けても全部を見るのは難しい!動物園の近くには巨大なリゾートホテルがあって、中国全土からのお客で、一泊して動物園を2日間堪能する人も多い。
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緑が多く良い雰囲気なのに、僕にとってちょっと嫌なことがあった。それはお土産販売店の多さである。例えば、10頭ほどのパンダがいるパンダの山に入る為に、緩やかな長い坂道を登らないといけない。もうすぐだと思ったら、道は物凄く広い店に入って、その店を通らないとパンダのいる所には行けない。子供達は勿論、たくさんのぬいぐるみや玩具や食品を見たら「これ買って」「これ食べたい」とねだるので、商売は繁盛する。しかし僕はこんな強引なやり方は嫌い。日本や欧米の動物園と水族館では、お土産販売店は出口付近にあって、入りたい人だけが入る。とはいえ、昼ご飯を食べながらパンダを眺めるのは贅沢な気持ちだろう〜
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 この文章を読むと、「ピーターは中国が大好き」と思うかもしれない。確かにこの四半世紀の経済成長と、それと無関係ではない人々の前向きの姿勢を高く評価している。しかし、習近平政権は決して好きではない。独裁色がどんどん強くなっている。ニュースで見る限り、どこかの会場に入ると2分間以上も拍手は続いている。金正恩ほどではないが、傾向として似ている。やはり、政治指導者は頻繁に交代される方が良い気がする。


 

香港1

(2018.01.11)

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 明けましておめでとうございます。
 長過ぎた旅行からやっと帰って来た。香港と広州を旅してきたが、やはり季節を誤った。香港も中国本土も10年振りで、興味津々で飛行機に乗った。しかも香港では30年来の親友のフランス人夫婦と待ち合わせていた。国籍はフランスだけれど、彼女はスペイン人の父親とベルギー人の母親の間に生まれたのに対して、彼の父親はオーストリア人で母親はハンガリー人。彼らの息子は幼少期から、母親とはスペイン語、父親とはハンガリー語、幼稚園や学校の仲間とはフランス語で話をしていた。世界屈指の経済大学、London School of Economicsを卒業してから、アメリカの金融機関の香港支店で勤務中。彼は毎晩遅くまで働いているので、両親との楽しい夕食会を期待していた。
 ところが、近年二人とも菜食主義に転じて、広東料理には見向きもしなかった。街を足が棒になるほど歩いた末、エレガントなホテルのロビーでケーキセット。ホテルに戻ったのは遅く、歯を磨いてすぐ寝た。布団は薄く、暖房はなく、夜中は〔寒いな〕と眼が覚めた。しかし起きて何かを着る気力がなかった。それで風邪を引いてしまった!
 考えてみると、日本で引いた最も酷い風邪は冬の沖縄だった。やはり、中途半端に暖かい所は冬に行くべきではない!!!沖縄では、外は陽光で半袖でも気持ち良かったが、大学の研究室はかなり冷え切って、暖房も無く、やられた。
 電車で渡った広州。2時間の旅中はずっと釘付けで車窓からの景色を眺めていた。30年前に初めて行った中国。やはり当時も列車で香港から広州に行った。当時の広州は田舎で、殆どの人は自転車通勤だった。車窓から見たのも農業を営む人や牛ばかり。
 今は東京周辺と同様、沿線にずっと街が並んでいる。しかも30階前後の集合住宅が多い。新開発ということもあって、車用の広い道路もきちんと整備してある。31日の朝は熱も高く、食欲もなく、正に寝正月になってしまったが、その前後の2日間は広州の街を散策してきたので、その話はまた次回に〜
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グルジア2

(2017.11.29)

 二日目は5000メートル級の山、カスベギ山を目掛けてツアーで出掛けた。ツアーと言っても現地の旅行会社で交渉をして、ロシア人のグループに加わって貰った。15分遅れてホテル前に現れたのはマツダのMPVである。3人のロシア人は仲良く後部座席に座っていたので、僕には景色がよく見える助手席が与えられた。
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 運転手は20代のアゼルバイジャン系グルジア人、カマルでロシア語も流暢に話せた。車は日本から渡った中古車で、ハンドルは右側にあった。カマルは対向車線がある片方面1車線の山道でも、前に走っているトラックやバスをどんどん追い越そうとしていた。故にスリル満点のツアーになった。彼は車を道の左側へ出さないと、対向車が来るかどうか判らない(グルジアは右側通行なので)。左側に座っている僕の方が早く対向車に気付く。そして彼に「ダメ、ダメと言う。それを聞くと彼も慌ててハンドルを右へ切る。大型観光バスが滑って道から畑へ落ちた事故現場を通り過ぎると、益々僕達も事故に遭う可能性を実感した。しかし運良くそんなことにならなかった。
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 カマルは運転が上手だったが、ガイドとしての知識に欠けていた。止まるべき遺跡や景勝地をきちんと知っていたが、歴史に対する質問には答えられなかった。最初に止まった遺跡アナプリ(砦兼教会)でも、ロシア人とともにあちらこちらにあったロシア語の説明文を読んである程度の情報を得た。一方、記念写真用の馬に乗る時は快く撮影してくれた。
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 グルジア語を予め学習する暇がなかったので、挨拶程度しか言えなかった。しかしグルジア語で「ガマルジョバ (こんにちはの意味)と声を掛けたグルジア人は皆喜んでくれて、親切に話してくれた。帰り道の途中で遅い昼を食べた時、僕は早めに食事を終えて田舎のレストランの周辺を散策してみた。その際、俄雨に遭遇した。すると目の前の家の奥さんは、親切に自分の家で雨宿りをすることを許してくれた。かなり素朴な家で、居間兼寝室に四つのベッドが四つの壁に沿って並んでいた。そして部屋はこれで殆ど一杯だった。部屋を通って台所に行く時は、ベッドにぶつからないように気を付けなければならなかった。しかもこの家に夫婦と三人の子供が住んでいる。どの二人が同ベッドなのか聞き辛かった。
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 カスベギ山の横を通ったが、雲の中に隠れていた。一方ロシアとの国境まで行って、島国日本では絶対見られない光景を楽しんだ。国境に一番近い駐車場で、二台のお揃いのワゴン車が停まっていた。何の車だろうと横に書かれていたグルジア文字を必死に調べた。(国境までに辿り着く3時間、暇潰しにホテルのパソコンで印刷して貰ったグルジア語の文字表と道沿いに並んでいたグルジア語とローマ字で書いてあった標識を元に、グルジア語の文字を大体憶えてしまった。)  車には何々ポストと書いてあった。なるほど!この車はロシアからの郵便を受け取る為に来ているのだと推理した。確認の為、近くにいた二人の運転手に確認したがやはりそうだった。彼らは間もなく到着する予定のロシアからの郵便物を待っていた。当たり前だけれど、昔は僕が書いていた多くの手紙もこのように、ハンガリーとオーストリアなどの国境を越えていただろう。なぜかこの小さな発見に大きな喜びを感じた。
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グルジア1

(2017.11.01)

 今回の旅行の華は、コーカサスに臨むグルジア(ジョージア)とアゼルバイジャンへの初の旅だった。グルジアから始めよう。
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 この国旗を見てもすぐわかるように、グルジアはキリスト教の国である。しかも現存する国の中で、キリスト教を国教とする最も古い国の一つである。最も古い国と書いたけれど、ずっと国としてあり続けたわけではない。モンゴルやペルシャ、トルコなどのイスラム勢力に襲われ、占領されてきたとても悲しい歴史を持っている。だからかと思われるけれども、グルジアの教会の多くは山の頂きに建って砦になっている。イスラム勢力が衰退してからロシア帝国、後は旧ソ連邦の一部となった。ある程度の自治権は認められたものの、完全独立を得たのは四半世紀前である。
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 インターネットで首都トビリシの画像を検索して、たくさんの色鮮やかな可愛い建物を見て〔行ってみたい〕と思った。モスクワからの飛行機は超満員で、グルジアはやはりロシア人にとっても人気が高い観光スポットである。
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 トビリシはかなりの都会で、昔からグルジア人以外にアルメニア人やアゼルバイジャン人、ロシア人も大勢住んでいる。アゼルバイジャンとアルメニアの間には大きな領土問題があり仲が悪く、90年代の戦争はいつ再燃してもおかしくない。しかしグルジアは凄く穏やかで、両国と友好関係にある。これはグルジア政府観光局からの情報ではなく、トビリシ在住のアルメニア人とアゼルバイジャン人から直接聞いたことである。彼らと話ができたのは、40代以上の人々はロシア語を流暢に話せるからだ。
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 トビリシの旧市街地は、各国の観光客で夜遅くまで賑わっていた。街を一望できる山に行くロープウェイに乗る為に、長蛇の列があった。例えば、日本でも珍しいサウジアラビアの若い人達と会った。ヨーロッパ各国やアメリカからの観光客、そして中国人やイラン人もいた。日本人だけはどこにも見かけなかった!コーカサス三ヶ国のツアーがあるらしいけれど、日本からの個人旅行者は凄く少ないようだ。治安が良く、ビザも要らなくて物価も安いのに〜。
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 ロープウェイでトビリシを一望できる所に登って、暫くその美しい景色を楽しんだ。暗くなると教会や橋などがライドアップされるから、それを待っていた観光客もあちらこちらにたむろしていた。しかし僕はそれよりも、夕日に照らされている急斜面を飾る色鮮やかな家々を近くから観たいと思って、徒歩で下山した。
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 インターネットの写真で美しく見えたビル群は、近くから観察するとやはり違った!古くてボロボロの建物が多かった。震度5の地震で確実に崩壊するだろうと思った(この辺では地震が滅多に起こらないので、未だ立っているとも解釈できる)。確率から言うと、地震よりずっと危ないモノがあった。その話はまた次回〜。


 

ロシア1

(2017.10.16)

 またまたご無沙汰です。9月1日から2週間をロシアとグルジア、アゼルバイジャンで過ごした。その切っ掛けは、ロシア屈指の大学、MIPT(モスクワ物理・工業大学)に招待されたことである。この大学の最大の功績は、ロシアの核爆弾を開発したことだろう。その 後は、世界初の宇宙への旅も担ってきた所でもある。
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 学生の水準も高く素晴らしい教育機関だが、モスクワの中心から離れていてアクセスが悪い。だから今まで3回も招待を断っていた。やはり空港からタクシーで2時間もかかった。飛行機も1時間遅れ、また入国手続きも凄く遅かった。結局、大学の研究中央塔に辿り着いたのは夜の8時であった。
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 国にとってこれだけ重要な研究をやっている所なので、簡単には建物の中へ入れない。24時間門番がいる。その門番は、数学科の秘書の携帯に電話してくれた。近くに住んでいる彼女は15分でやって来て、僕を徒歩8分の教員寮まで案内してくれた。とても事務的で、愛想笑いも見せてくれなかった。勤務時間外で仕方がないかも。金曜日の夜の楽しい予定が邪魔されたのかもしれない。
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 しかし、遅く着いたのは僕のせいでもなかった。だから、近くの店や駅までの行き方を案内してもらいたかった。ところが彼女は部屋を開けて、鍵を渡してからそそくさと帰ってしまった!先程〔部屋〕と書いたが、1LDKのかなり広いアパートであった。一人にはもったいないと感じた。また料理をしない僕にはDKが要らない。それより、朝ご飯が食べられるレストランの方が嬉しい。
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 結局、月曜日の昼まで、僕を招待してくれた先生も姿を現してくれなかった。だから自腹を切ってでも、最初の3日間はモスクワの中心のホテルに泊まるべきだったと未だに後悔している。続く。


 

ルーマニア3

(2017.09.04)

 ブカレストのホテルに到着すると、荷物を部屋に入れてからすぐ出かけた。ヨーロッパの都市の中では歴史がかなり浅い。19世紀の半ばにルーマニアの首都になって、現存の建物は基本的にその後に建てられた。 ルーマニアの指導者たちは、常に遠い親戚であるフランスに憧れていた。これは東欧のパリとも言われてきたブカレストの広い並木街路と、そこに並んでいる石造りの建物を見ても感じていた。
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 ブカレストで何を観れば良いのかと全く知らなかった僕は、ブダペストの数学会議の際、参加していたたった一人のルーマニア人数学者に聞いた。彼は大学の周辺にある、路上にもテーブルを並べているレストランとバーが集まっている旧市街地を勧めてくれた。だから僕達もその辺りを散策した。
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 土曜日の夜だったので、人はどこでも多かった。観光客も少しいたが、アジア系の人は見当たらなかった。凄く気に入った建物は二軒あった。一軒目は本やレコード、文房具などが売っている現代風の建物だ。村上春樹さんの本もたくさん並んでいた。もちろんルーマニア語だよ!もう一軒は100年ほど前からある、最近修復された巨大ビアホール。メニューで食べてみたい品はいくつもあったが、凄く混んでいたし、騒音でとてもうるさかった。写真だけ撮った。
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 結局、ルーマニアで最も気に入った飲食物は、翌朝綺麗な公園内にあったカフェで飲んだホットレモネードだった。朝ご飯のサラダと一緒に紅茶の代わりに飲んだけれど、レモンの酸っぱさと砂糖の甘さのバランスが絶妙で僕の口にピッタリだった。また飲みたい!
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ルーマニア2

(2017.07.26)

 トランスシルバニア地方からルーマニア大平原にある首都ブカレストに行く為には、2500メートル級の山々が連なる南カルパート山脈を越えなければならない。これだけ高い山だと、人間にも動物にも隠れ易い。オスマントルコの大軍は、現在のハンガリーやルーマニアを制圧した16〜17世紀にも、カルパート山脈に守られた狭い部分だけは独立を保つことができた。その辺りには今なお、ハンガリー系住民が過半数を占めている幾つかの 市や村がある。
 何年か前に、ピシュティは家族とその辺りを旅した。朝早く何かが吠える音に目が覚めて、窓から外を見ると、熊の親子4頭がゴミを荒らしていた。それでも昼間にそこら辺の山を散策したのは、流石ピシュティである。まあ、安全対策としてみなで歌ったり、大声で喋ったりしたらしいが。
 Sibiuからブカレストへ向かうと、カルパート山脈を越える高速道路はない。オルト川に沿って、しばらく上り坂が続いている。スピードはあまり出せない分、景色を楽しめる。
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 左にオルト川、右にどんどん深まる森。ファガラス峠である。峠の頂点のところには、たくさんの出店がある。僕なら日本の木曽路の宿場街を連想してしまう。ピシュティの頭に峠道を上りながら浮かんできたのは、〔ミッチ〕と云う食べ物である。どこもかしこもそれを売っていた。ピシュティが食堂でゆっくり座って食べる間、僕は周辺を巡った。道の左側(谷側)に食堂、右側(山側)に採りたての果物を売っている売店が並んでいた。所々に、割と大きなホテルもあった。そして駐車スペースも殆ど埋まっていた。考えてみると、土曜日かつ晴れで観光地が賑わっている条件は満たされていた。
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 峠を下りて暫く走ると、ブカレスト行きの高速道路が始まった。途中で給油しても、午後4時頃にブカレストで予約したホテルに到着できた。やはり日本に比べて、高速道路を走る車の数が少ない。実は利用できる制度も違う!日本だと、毎回毎回乗った部分に応じて現金かETCカードで決済する。ルーマニアだと、〔定期券〕を購入しないといけない。高速道路沿いのガソリンスタンドには、どこも給油代金を支払う売店がある。そこで車の書類を提出して、利用する期間(最低で1週間)を申し出、一枚の紙切れを受け取る。その紙切れを提出することはどこにもない。車のデータはシステムに入って、所々のライセンスプレートの番号を読み取る機械が支払い済みかどうかと確認する。定期券は驚くほど安いが、違反金はかなり高いらしい。 しかも、請求書は隣のハンガリーまでも届くと、ピシュティが言った!
 ミッチは脂っこくて僕はパスしたが、給油所の売店で濃いチョコレート味のアイスクリームを食べた。かなり大きくて「カロリーが高いだろうな」と認識しながらも、やはり誘惑に負けた。続く。


 

ルーマニア1

(2017.07.21)

 ルーマニアで最初に泊まった街はSibiuで、とても美しい街である。中世はドイツ系職人と住民が多く、彼らが街を築いたと言っても過言ではない。2007年にヨーロッパ文化都市であったこともあり、EUから街の修復のためそれなりの金額が与えられたようだ。街を見れば無駄な投資ではなかったと思う。人口は17万人程度。歴史が800年を超えている。
 戦争が多かったヨーロッパの地方では珍しくなく、街の中心部分は周辺より少し高い所にある。この中心の丘の広さによって、街の大きさまで制限される。極端な場合、丘上の城だけである。Sibiuの場合は割と余裕があって、中心部分にも二つの大きな広場がある。実はそれらの名称は〔大広場〕と〔小広場〕である。僕らの宿は〔小広場〕にあって、それもかなり広くて、〔大広場〕の存在に気づいたのは翌日、朝食後の散歩の際である。建物を説明するよりも写真を載せよう!
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 両広場の接点に、(この街にしては)高い塔があった。ピシュティはパスしたが、僕はきちんと登った。ご褒美としてSibiuの街を上から望むことができた。
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 途中の階で、街の歴史に関する展示もあった。一番恐ろしい物、処刑台の写真も載せよう!どれだけ使われたのかは分からない。今はルーマニアもEU加盟国で処刑はなくなっている。ご安心下さい!
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 旅は東へとまだまだ続く〜


 

ハンガリー1

(2017.07.13)

先月はブダペストで先輩の70歳の誕生日を祝う国際会議があり、僕も招待されたので、去年に続いて再び生まれ故郷のハンガリーを訪れた。数学の国際会議は開催地とほぼ関係なく朝から夕方までいろんな講演が続くものなので、門外漢の皆さんから見てつまらないに違いない!
はっきり言って、僕も会議よりも会議が終了してからの日々を楽しみにしていた。一番の親友ピシュティと、ルーマニアを丸々一週間旅するのを計画したからだ。会議の最終日の金曜日、午前の分が終わったところで数学者仲間にさよならを言い、地下鉄でピシュティの家の近くの集合場所へ向かった。そこを出発したのは午後2時。ハンガリーは日本より狭い国で、首都ブダペストから高速道路を2時間走ればもうルーマニアの国境に着く。
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日本に住んでいると、国境を車で渡ることがない。もっとも、ルーマニアとハンガリーは共にEUに所属しているので、パスポートの顔写真を見る程度でチェックが済んだ。高校時代の親友ピシュティの車だったので、国境で彼に運転席を譲った。
ルーマニアに入っても、日本では想像できないほど起伏がないハンガリー大平原が続く。実はこの部分は第一次世界大戦まではハンガリーの領土だった。天気が一変して、風が強まり空は黒い雲に覆われ、大粒の雹が降り出した。車の屋根に落ちる音が強く、ピシュティは傷つけられるのではないかと心配していた。周りがよく見えない状況で、車の流れがほぼ停止した。
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道では至る所に、不思議な形をした長さが1メートルで横幅10センチ余りの緑色のプラスチックの板が散乱していた。これらを巧く避けながらゆっくり進んでいくと、やっとこれらの由来が解った!高速道路は片側2車線で、両方面は低い鉄製の塀で分かれていた。
向こう方面の車のライトに邪魔されないよう、この塀の上に例の板が30センチ間隔で設置されていた。そして突風で一部は外れて飛ばされてしまったのだ!!状況から判断して、それからはまだ30分も経っていなかった。
雹は止まったが、車の流れはどちらかと言うと更に遅くなった。そしてその原因も判った。なんと片車線をピッタリ覆う形で、大きなコンテナトラックが横転していたのだ!幸いなことに運転手は怪我も無く、悲しそうに割れたフロントガラスを眺めていた。もう少し短い横転トラックの横を通ってから、車の流れは次第に早くなった。
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僕たちは運が良かった。早めにこの辺りに着けば危なかった(実際、道沿いに故障やパンクして停まっている乗用車をたくさん見た)。またもう少し後なら、警察が到着して道を通行止めにしただろう!
ガソリンスタンドがあるパーキングエリアに入って、給油とともに車の屋根も調べたが傷はなかった。続く。


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