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キルギスタン4

(2018.11.09)

 アンドレイとタイルジャンが杏狩りをしている間、僕は周辺を散策してみた。手造り感が強い古びた家が多かった。やはりキルギスタンは貧乏な国だと感じさせられた。
 宿を出発してから再び、くねくねの山道を上り始めた。昨日乗馬をした所とガガーリン像の前を通って、新雪が積もっている4000メートル級の湖を目指していた。〔山ってこんなに美しいんだ!〕と、ずっと平らな所ばかりに住んできた僕は感動の連発だった。一方、写真を撮る為に車を降りると、どんどん寒くなっていた。僕の震えに気がついたタイルジャンは自分のオーバーを貸してくれた。本当に助かった!
image 山の中腹の湖
 人里を離れ高山植物の地帯を走ると、あちらこちらの岩や斜面でモルモットが見えた。近付くと逃げる。だから写真を何回も撮り損ねた。海抜4000メートルまで登ったが、そこから道がまだまだ続いている。数十キロ先の峠は中国(ウィーグル自治区)との国境になっている。
image 岩の前で顔を出しているモルモット
image 標高3819mの標識
 中国からのトラックを一切見なかったが、降りる途中で交通整理車両に止められ、10分程路肩で待たされた。その間、燃料を運んでいる大型トラックが通過した。タイルジャンの説明によると、カナダの鉱山会社のものである。その会社は、国境付近の金山の権利をキルギス政府から入手したらしい。違ったら嬉しいけれど、この大鉱山でキルギスの一般市民に何らかの利益があるように感じなかった。尤もこの金山は、キルギスタンのGDPの一割程度に当たる!
image 金山に燃料を運ぶトラック
 待っている間に雪で遊んだり写真を撮ったり、〔冬の世界〕を満喫していた。そして来た道でボルスクーン川に沿って、川を不思議な橋で何回も渡りながらカラコール(イシククールの東端の街、名前はキルギス語で黒い手の意味)まで下りた。 この街の名物は二つ。仏教寺院風の外見をもったモスクと混浴の温泉である。
image 不思議な橋の一つ
 前者をじっくり見物した。宗教をあまり認めなかった旧ソ連邦時代にかなりボロボロになった建物を、トルコからの援助金で修復したと石碑に書いてあった。そう言えば、ビシュケクで建設中のキルギスタン最大のモスクのためにも、同じイスラム国家で言語も近いトルコは資金を提供している。
image 仏教風のモスク
 カラコールで泊まった宿は前日よりもシンプルで、お湯がなくトイレも和式だった。値段はなんと三人朝食付きで10ドル!お風呂はどうしたかと言うと、カラコールのもう一つの名物、混浴の露天風呂に行って来た。日本の温泉と違ってみんな水着を来ていた。脱衣場で水着に着替えて、服などをロッカーに入れて、シャワーを浴びてから外に出た。そこはほぼ自然の形の池が三つに別れていた。中心部分の水温は40℃で、気温がかなり下がったカラコールの夜にぴったりで最も混んでいた。残りの二つは53℃の源水と30℃のプールであった。源水は僕には熱過ぎでパスしたが、アンドレイは平気で二回に分けて20分程度気持ち良く浸かっていた。南東の空に中秋の名月がとても綺麗に見えていた。帰る前に写真も何枚か撮ったが、誰にも怒られなかった。
image 露天風呂にて・・いい湯だな!
 翌日はイシククールの北側を観光しながら、タイルジャンにカザフスタンの国境まで送ってもらった。



 

キルギスタン3

(2018.10.29)

 車がイシククール(キルギス語で温かい湖)に向かって進むにつれて、車窓から見える景色もどんどん変わってきた。街と家が少なくなり、植物があまり生えていない土の質が悪い山間部を走っていた。イシククールの手前で道が、ビシュケクの金持ちが別荘を持っている北畔と、あまり開発されてない南畔に分岐した。後者の道路はかなり狭くて、片側一車線になった。一方、見所は沢山あった。先ずはキルギス版大キャニオンとビーチを観てから、雪溶け水の急流に沿って九十九折りの山道に入った。目指したのは、海抜2000メートルを越えた地点にある二つの滝である。
image 雄大なキャニオンの景色
 「天幕(ユルタ)に住みながら放牧を営んでいる人々に馬を借りて、滝を見物する」とタイルジャンが言う。高校生の頃に3回程乗馬したことがあるだけの僕はかなり不安になったが、タイルジャンがそこの人はずっと手綱を持って馬を引っ張ってくれると教えてくれたので安心した。 ところがだ。料金の交渉を終え天幕辺りを出発して一分、本格的山道が始まる時点で、馬を誘導していたキルギス語しか話せない青年は「こうすると右へ、こうすると左へ、またこれなら馬が止まる」と軽くデモをしてから、手綱を僕に渡して山へ消えた!!
image 客待ちをしている青年
image 滝へ出発
 「どうしよう?落馬したら絶対骨折だろうが、もう馬に運命を託すしかない!」と思った。両足をしっかり鐙(あぶみ)に入れて、手綱を操りながら片手で鞍も掴んで、アンドレイに続いて進んだ。怖いもの知らずの彼は余裕そうに見えた。上り下りが多い細い道を行ったり、沢を渡ったり、平らな部分をトロットで走ったり、乗馬技術に自信があれば樅の木と険しい山に囲まれる道程は最高だろうが、僕にはそこまでの余裕がなかった。 滝に到着するとどこかの近道を走って来た青年が現れ、僕達が馬を降りて滝などの写真を撮る間、彼は手綱を持って待っていた。
image 二つ目に訪れた滝
 再び馬に乗る時、「俺の馬をずっと引っ張ってくれ」と頼むチャンスだった。しかし恥ずかしかった。キルギス人の殆どが当たり前のように乗馬できる。そこで、いい歳をした世界の大部分を巡った者として、「独りで乗るのが怖い」と弱音を吐くことをできなかった。そして二つ目の滝まで、また天幕まで戻る道も、不安を抱えながら独りでこなした。やっと鞍から降りて足を鐙から外して、馬と青年に「ありがとう」を言った時は凄く嬉しかった。そして安堵と共に、半世紀ぶりの乗馬に対する満足感を満喫した。天幕のすぐ近くにあった、旧ソ連時代のガガーリン(世界最初の宇宙飛行士)記念碑を撮影してから、来た山道を降りて湖に戻った。
image 頭部だけのガガーリン像
 その夜泊まったのは、ロシア系の未亡人が営んでいる民宿だった。一階の居間で、紅茶を啜りながら彼女の話を聞いた。旦那が一生懸命この二階建ての家を建て、庭には数々の果樹を植えてから、間もなく心臓発作でこの世を去ったらしい。今や息子は首都ビシュケクで働いている。春から秋まで、彼女は一人で民宿を営んでいる。床は凸凹だったが、ベッドもシャワーも文句なし、そして翌朝のご飯も良かった。下痢気味の僕は遠慮したが、アンドレイとタイルジャンは果樹園の杏(アプリコット)を「美味しい」と舌打ちしながら、鱈腹に食べていた。気になる値段だが、たったの25ドルで「スパスィバ(ロシア語でありがとう)!」
image 宿の女主人
image 朝食の風景



 

キルギスタン2

(2018.10.19)

 日曜日は未だホテルの朝食を楽しんでいる時に、運転手兼ガイドのタイルジャンから「もう着いた」という連絡があった。背が低い中年太りの優しい男性で、とにかく話好きな人だった。
 湖の周辺は立派な店が少ないのでビシュケクで食料を確保した方が良いと、国道沿いのパン屋前に車を停めた。まだまだ満腹感が強くて食品を買う気にならなかったけれど、いろんな大きさと形の焼きたてのパンが並んでいる青空パン屋を喜んで見学した。タイルジャンは二日分のパンを買ってから車に乗った。そして私達に一生懸命に熱々のサモサを勧めた。30年以上も前、初めてインドを旅した時は毎日サモサを食べたのを思い出した。一口で良いからと言われ、パンを受け取って齧ってみた。インドと違い中には肉の汁も入っていて、それが噴水のように溢れ出て、アルマティで洗濯したばかりのズボンを汚してしまった。
image 青空パン屋。奥にいるのがタイルジャン。
 タイルジャンとの車の旅、始まりは最悪で、その続きは凄く良かった。 中央アジア各国に対して言えるけれど、キルギスタンの主要道路沿いには警官が多い。タイルジャンのように頻繁にそれらの道を走っている運転手は、待ち伏せの場所をかなり正確に予測できる。それに運転手が反対車線で待ち伏せをしている警官に気づいたら、それを暫くの間ライトで対向車に知らせる習慣もある。それでも我らはビシュケクを出たばかりの所で止められ、タイルジャンは罰金を払わされた。その原因はライトを点けていなかったこと(多くの国で市街地以外の国道は終日ライトを点ける義務がある)、金額は100ソム(日本円でおよそ1300円)、平均のキルギス人の1日当たりの給料を越える。
image ブラナの塔
 次に止まったのは60キロ先の、主要道路からちょっと離れたブラナの塔で、ユネスコ世界遺産に登録されている。もちろん塔の上まで登った。周りの景色を眺めているお洒落な白人女性がいたので、「どこの国から来たの?」と声を掛けた。案の定フランス人で、しかも僕らが向かっているイシックル(温かい湖)で二泊三日を過ごしたばかりで、あれこれ話を聞くのにもってこいの人だった。やはりアンドレイが行こうとしている、人が少ない南湖畔とその辺の自然を絶賛していた。これで僕も安心して、アンドレイとタイルジャンの計画を了承した。(続く)
image 塔の上から見たキルギスタンの草原(ステップ)



 

キルギスタン1

(2018.10.09)

 アルマティからキルギスタンの首都ビシュケクまで約250キロメートル、車で大体4時間である。アジアで国境を一度も車で渡ったことがなかったので、カザフスタンとキルギスタンの国境はどんなところであるのかと、運転手に後10分だと言われ興味津々で車窓から景色を眺めていた。因みに、道の雰囲気はシャリンキャニオンに行った時とあまり変わらなかった。街らしい所をほとんど通ってないし、道の周辺は牧草地帯で方々で馬が放牧されていた。
image 国境で旅行者は車から降りて歩いて手続きしないといけない
 国境の印は遮断機であった。その手前には、道沿いに客待ちの車が20台ほど停まっていた。遮断機の所には2台の車しかなかった。そこで車を降りたら、若い国境兵にすぐ「こちらへ」と、道の右側に建っていた平屋を指差された。 建物の中も閑散としていた。国境兵は、パスポートをスキャンしながら入国の際にスタンプを捺された書類を調べた。最後に、小さな紙切れにスタンプを捺して、それを入国の書類と引き換えに手渡してくれた。平屋の出口から50メートル先に、4メートルを越える高さの鉄条網の塀が見えてきた。塀の中の狭い出口の前に、下っ端の兵隊が立っていた。彼に小さな紙切れを渡したら、出国を認めてくれた。
image 橋の上から眺めたチュウ川
 これでキルギスタンに入ったと思ったが、違った。それから橋で幅25メートルほどのチュウ川を渡った。この川は国境線になっている。キルギスタンの入国手続きも素早く済んだ。その建物の外に出ると、次から次へと客待ちの運転手に声を掛けられた。自分たちのタクシーを待ちながら、両替所のレートを調べた。やはり世界中の空港とあまり変わらず、買値と売値の隔たりは小さくなかった。だから食べ物も何も買わず、ビシュケクまで我慢することにした。
image オマル・ハイヤームはペルシアの優れた学者・詩人の名
 ビシュケクのホテルに着いたのは午後2時、荷物を置いただけですぐレストランを探しに行った。見つけたのは〔オマル・ハイヤーム〕、かなり高級感がある地元の料理屋である。食事をしてクレジットカードで支払ってから、ビシュケクの中心部で両替所を探しに行った。ドルのレートは買値と売値の差が1%しかなく、喜んで両替した。
image 第二次世界大戦の記念広場
 僕はビシュケクの観光だけでも良かったが、アンドレイはどうしてもイシク・クル(キルギス語で暖かい湖の意味)に行きたかったので、旅行会社を探してみた。ところが土曜日の午後で、殆どは閉まっていた。開いていた一件も国外向けで、提案したコースは今一つ気に入らなかった。そこでアンドレイはスマホを利用して、インターネットでキルギス人のガイドを見つけ電話してみた。タイルジャンというプロのガイド兼運転手で、しかもロシア語もとても堪能ですぐ話が決まった。このように翌日、日曜日からのスケジュールも決まって、安心してビシュケクの観光ができた。
image イスラムとはいえ…
 人口80万人の街で、広々している。高層ビルがなく、道が広くて公園が多い。土曜日の夕方とあって、散策している人が大勢いた。女性の大半は顔や髪を隠していなかった。キルギスの日本橋と言うか、主要道路の起点0キロメートル碑を探した時、敢えて保守的なイスラム服を着ていた若い母親に案内を求めた。嫌がることなく応じてくれた。正直言って出発前は、敬虔なイスラム教の信者達は僕らに敵意を示すのではないかと心配していた。結局、20日間の旅行中に一度もそんなことがなかった。各国の路上などで出逢った人達の親切さや外国人に対する好奇心は、とても印象的だった!
image 〇里塚にて
image 道を案内してくれた女性、写真も撮らせてくれた



 

カザフスタン2

(2018.10.01)

 アルマティの特徴といえば、南に向かってどんどん標高が上がる事である。しかもその高さは中途半端ではなく、ちょっと足を伸ばせば4000メーターを越える峰にもアクセスできる。8月下旬だったのに、泊まったホテルの窓からは雪山が見えていた。
image 山の中腹から見たアルマティの街
 着いた翌日は、ムフタルさんの車で南に向かって走り出した。市内を出た夕方は28℃だったのに、40分走って海抜1800メートルの所で車から降りると、やはり寒かった。リュックからフリースを出して着ても、身体が暖まらなかった。その近くに大きなスケート場があり、ムフタルさんはそれについて説明してくれた。旧ソ連時代に建てられ、海抜にも助けられて数多くの世界新記録が生まれたらしい。
 その隣のレストランなどが入っている施設の広場は、山に更に登るロープウェーの出発点であった。もう日が沈んで暗かったしアルマズのお腹が空いていたので、アルマティの灯りを見下ろしながら、くねくねの山道をゆっくり中心部に戻った。
image スケート場が使用されるのは冬のみらしい
 翌日の夜、アンドレイが到着した。彼は僕にとって愛弟子のような存在である。三年前にスイスの大学で集中講義をやった時に知り合った。 彼はずっと一番前の列に座って、スマホで黒板の写真を撮りながら注意深く話を聴いていた。ちょっとした間違いにもすぐ気が付いたし、講義後は有意義な質問をしていた。こんな質問から我々の共同研究が始まって、たちまち共著の論文を書くことになった。そして今や僕にとって彼は一番の協力者で、共同研究から既に10本以上の論文が生まれている。
image 谷底を流れるのがシャリン川
 アンドレイはロシア人で、モスクワの郊外に育った。中学生の頃から数学の才能を現して、高一の時に大学入試を受け、16歳の若さでモスクワ大学の数学科に入った。博士号を獲得してから、スイスの奨学金を受けてローザンヌに渡った。それからフランスそして去年から英国の大学で研究活動を続けている。
image 壮大な景色
 一方旅が大好きで、数学の国際会議やラフティング、スノーボードなどの為に年に十数回色々な所へ出かけている。だから「中央アジアを一緒に旅しない?」と誘ってみたら、二つ返事で「8月下旬ならいいよ」と返信がきた。
 彼を誘うことは僕にとって、幾つもメリットがあった。先ずは、20日間の一人旅というのはあまり面白くない。身の上の安全を考えても、若くて強い彼が側にいた方が安心だ。更に言うと、夜か移動中の時間を利用して共同研究もできるかもしれない。一方、難しいところを言えば、お互いに行動を合わさないといけない!運良く、アンドレイが提案したプログラムは皆面白かった。
image シャリンキャニオンの写真を撮るアンドレイ
 彼が着いた翌日は、カザフスタン版グランドキャニオン(正式の名称はシャリンキャニオンだけれど)に出掛けた。運転手付きの車を、1日9000円で信子さんは手配してくれた。 場所はアルマティから東で、中国国境に近い。シャリン川に沿って、とても不思議な形の山々が並んでいる。その美しさは言葉で説明しづらいので、写真を御覧下さい!シャリン川はとても急流なので泳ぐのも大変で、アンドレイ以外には誰も泳げなかった・・。続く。
image シャリン川を泳ぐアンドレイ



 

カザフスタン1

(2018.09.19)

 世界百ヶ国を旅してきて、行ったことがない大きな地域として残っていたのは中央アジアであった。十年ほど前から行こうと思っていたが、個人ビザを貰う為に現地人の招待状が必要だった。だからなかなか行けなかった。
 今年も調べてみると、カザフスタンとキルギスタンはビザが要らなくて、タジキスタンとウズベキスタンも簡単に手に入ることが判明したので、この四ヶ国を旅することにした。共通点と言えば、イスラム教徒が多いことと、1991年まで旧ソ連の共和国であったことである。後者によって原理主義者が少なく、モスクに通う信者でもお酒を平気で飲む人が多い。僕は酒を飲まないけれど、宗教に対する考え方が緩い国の方が旅し易いと感じている。
 8月21日に日本を出て、当日の夜カザフスタンの最大都市アルマティに到着した。カザフ人の知り合いはいなかったが、25年前に東大で〔マラバリスタ〕と云う日本初の本格的ジャグリングサークルを設立した時のメンバーで、カザフ人と結婚してアルマティに住んでいる信子さんがいる。彼女は快く旅の計画を手伝ってくれた。
 アルマティ空港の出口で、主人のムフタルと息子のアルマズと共に出迎えて車でホテルまで案内してくれた。カザフスタンと言えば、面積が日本の凡そ7倍で凄く広い国である。しかも人口は日本の七分の一程度だけ!だからなのか、アルマティの道路も凄く広くて、車道と歩道の間は並木になっているのが一般的だ。
image 中央アジアの古い地図、残念ながらアラル海はほとんど干上がっている
image 最新のショッピングモール
 カザフスタンは資源大国であることによって、他のスタン(トルコ語で国の意味)よりは豊かである。しかし残念ながら、この豊かさはそのまま国民一人一人に届いてない。貧富の格差は日本より著しい。
 アルマティの街を走っている車は、ベンツやレクサスなどの高級車が多い。近年建てられた高層マンションは一億円を越える部屋が殆どで、普通に働いているカザフ人の手はとても出ない。個人宛ての貸し出し金利は20%を上回っている!中心部にできた美しいショッピングモールにGUCCIやPRADAなどが店を出しているが、見た限りガラガラである。
 製造業があまり発展していないから、若者の雇用は問題になっている。国の資源による収入を活かして、道路整備などの公共工事が目立つほど多い。そこでたくさんの雇用を産み出そうと、機械をあまり使わない。例えば、大きな広場を整備する工事で働いていた数人の若者は、煉瓦を重ねて置いてある所から百メートル先の実際に使う場所まで、一個ずつ運んでいた。機械を投入すればもっと安くかつ早く工事は済むだろうが、その場合は失業者が増えて社会も不安定になり、犯罪も増加する。
 実は政府の努力にも関わらず、外国へ出稼ぎに行くカザフ人が多い。去年モスクワで何人かと話をした。ロシアでは少子化が依然として続いており、建設現場などでの単純労働者は不足している。やはり、中央アジアやコーカサスからのイスラム教の出稼ぎは凄く目立っていた。
image ショッピングモール近くの公園で遊具を楽しんでいるアルマズ
 仕事の効率はともかく、アルマティはどんどん綺麗になっていると感じた。日本と3時間の時差があって朝7時に目が覚めて、8時前に一階のレストランに入った。日本のホテルであまり経験したことがないが、窓はホテルの外の歩道と同じ高さで、通勤する人達を観察できた。東京に比べて皆さん身軽で、歩くペースも遅い。8月下旬の朝の気温は快適で、20℃程度である。しかも湿度が低い。通勤者を観察しながら一時間かけてゆっくり食べていた。
 部屋に戻ったらすぐに電話が鳴って信子さんとアルマズが到着した。「ピーターはどこへ行きたい?」と聞かれて困った!アルマティのことを全く知らなかったからだ。とりあえずホテルの周辺を散策してから、信子さんも行ったことがなかった〔グリーンバザー〕へ向かった。
image 馬の肉とソーセージ
 アルマティの交通機関と言えば、バスとタクシーが主流である。但しタクシーは正式なものではなく、自家用車でちょっと稼ごうと思う一般住民が乗せてくれるのだ。勿論メーターがなく、乗る前に値段を交渉しないといけない。相場が判れば、その金額を運転手もすんなり受け入れてくれる。スマホのアプリで車を呼ぶことも可能だが、待つ時間はもったいない。手を上げればすぐ車を止めることができるからだ。
 グリーンバザーは大きな食料品市場である。とても清潔で雰囲気が良かった。何も買わずに写真だけ撮っても全然怒られなかった。 やはり一番興味深かったのは、馬と羊の肉の大きな塊を上から架けて展示している所だった。
image 羊の肉も大量に



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