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タジキスタン4

(2019.2.13)

 タジキスタンで過ごしたのはたったの3日間だったが、面白い体験をたくさんした。いつまでもタジキスタンの話を続ける訳にはいかないので、今回を最終回にしよう。そこで、JICAの阿部さんにアレンジして貰った講演会の話をしたいと思う。
image 講演中に披露したジャグリング
 アフリカなどの途上国を旅する時はよく、JICAのボランティアとして現地の小中学校で教員をしている日本人を訪れている。彼らの頑張っている姿を見ながら、当国の教育事情について知ることができる。残念ながら治安のこともあって、現時点ではタジキスタンにJICAのボランティアがいない。一方、在タジキスタン日本大使館は、首都ドゥシャンベから車で40分ほどの所にある中学校を資金面で支援している。大使館の人の提案で、その学校で講演をすることになった。
 しかし問題が一つだけあった。その学校との関係を担当する大使館員は出張中で、僕がタジキスタンを訪問した週はいなかった。僕にとってはどの大使館員でも構わなかったが、代わりに来た職員は学校の所在地も知らなかったし、学校にも僕にも関心がなかった。車中の会話も盛り上がらなかった。しかし学校の門を潜ったら、僕はもう水を得た魚のように先生方との交流を始めた。
image 講演の様子
 タジキスタンは半世紀以上旧ソ連の一共和国だったので、校長先生をはじめ殆どの教員はロシア語が堪能だった。講演会の場所を設定したり、参加できるクラスを決めたり、講演会の際使用している服に着替える為の部屋を案内してもらったり、準備はトントン拍子に進んだ。
image 学校の前で生徒たちと
 ところが、肝心の講演が始まると、子供達の反応はいま一つ良くない!二三人に声を掛けてみたら、やはり前日一緒に食事をしたファルフードの従兄弟同様、ロシア語を殆ど理解できない。早速大使館の人と一緒に来ていた現地人の若い女性にお願いして、僕がロシア語で話している内容をタジク語に通訳してもらった。この経験も含めてわかったタジキスタンの言語事情だが、大学まで進学するタジキスタン人はもれなくロシア語が堪能であるが、進学率は凄く低い。中学校では、ロシア語も他の教科と同じように興味を抱いて一生懸命に勉強する生徒もいるけれど、その割合も低い。だから、在タジキスタン日本大使館の若いアシスタントがいなければ、僕の講演を理解できる生徒はほんの一握りに過ぎなかった。彼女に感謝している。
image 民族楽器を演奏する音楽の先生と歌う生徒
 ところが、好奇心旺盛な何人かの優等生は、講演中に披露した数学的手品のタネを教えてくれと講演後に迫ってきた。数学の先生も連れて、彼らと近くの教室に入った。20分掛けて、彼らにやり方も数学的原理も教えた。そして彼らは、後から入って来た生徒に手品を見事に披露してくれた。「上手くできるかな」と、僕の方が緊張していた〜
image 踊る生徒を見るピーター
 教室からの笑い声に誘われたのか、今度は音楽の先生が現れた。タジキスタンの民族音楽を聴きたいかと尋ねられた。そして彼が伝統的打楽器を奏でる拍子に合わせて、生徒達が歌ってくれた。一人の女子生徒は見事な踊りまで披露してくれた。暫く先生と生徒との楽しい交流は続いたが、そろそろ生徒の下校時間になってしまった。と言うのは、タジキスタンでは子供が多くて学校は足りない。生徒達を午前と午後の部に分けて、同じ校舎で教えている。私たちが校長に挨拶して学校を出た時は、校庭の半分は既に午後から学ぶ生徒で埋め尽くされていた。
 できればもっと長く居て、先生方の授業も見たかった!しかしタジキスタンでも、何人かの教育熱心な先生とハングリー精神と好奇心が旺盛な生徒に出逢えたことが嬉しい。お蔭で、翌日の深夜には満足して、ウズベキスタンの首都タシュケントの空港からソウル経由で日本に戻った。
image 午後の部の生徒たち



 

タジキスタン3

(2019.2.1)

 タジキスタンを旅した9月上旬は、丁度山羊たちが山から下りる時期である。夏の間は山の上に草が生えて山羊たちは生息できる。しかし冬は厳しくて、餌もなければ外にいると凍死してしまう。
 ドゥシャンベに向かう途中で、我々も3ヶ所で山羊たちの大群に遭遇した。車が動けなくなりファルフードは迷惑そうな表情だったが、アンドレイと僕は大喜び。車を降りて山羊たちを触ったり、山羊飼いたちと話したり、写真を撮ったりしていた。羊飼いたちも皆さんとても親切で、僕たちの質問に答えてくれた。一人一人が200匹程の山羊と大きな犬と荷物を運んでいる驢馬を連れていた。犬は一番忙しくて、吠えながら前へ急いだり、後ろへ走ったり、山羊たちを誘導していた。山には狼も生息している為、大体の羊飼いは猟銃も持っていた。それにしても、一年の内4ヶ月以上を家族と離れ離れで過ごしているなんて!凄いことだな。
image 道をふさぐ山羊の大群
 在タジキスタン日本人にも人気が高い温泉に向けて主要道路を離れた所にも、一人の羊飼いがいた。他の車両が通ってなかったし、僕は羊飼いにお願いして驢馬に乗せてもらった。馬よりずっと小さくて、例え落ちても大した怪我はしない。10分程楽しく乗驢馬してから、羊飼いに千円程払おうと思ったが断られた。羊飼いはお金を受け取るどころか、僕の写真を撮ったアンドレイに「君も良かったらどうぞ」と。
 温泉もなかなか面白かった。洋服をロッカーに入れて、貸し出しの水着を履き、浴室に入った。目の前に10畳位の温水プール、左側に5脚の木製ビーチチェア、右側に2つのシャワーブースと右奥に温泉の扉。温泉と言ってもサウナの様な形式で、長いベンチに並んで座った。日本の温泉のサウナが大好きだが、こちらは地下から出る湯気によって温められた空間で湿気が凄かった。天井から頻りに雫が身体に落ちてくる。その度、火傷した気持ち。10分以上もその状況の中で平気で過ごしていたアンドレイに対して、脱帽の気持ちだった。前日はイスケンデル湖の冷たい水の中でも気持ち良く泳いだ彼、やはり熱さにも寒さにも非常に強い!僕は5分間耐えたが、水のシャワーを浴びてプールに入り、そこでファルフードとアンドレイを待った。それからビーチチェアで温泉の管理人の話を聞いた。アンドレイの提案でもう二度サウナに入ったが、2、3分で脱出した〜
image 驢馬は可愛くて乗り心地が良い!
 温泉から出てすぐドゥシャンベに向かったが、ホテルにチェックインできた時はもう午後3時過ぎだった。荷物を置いてちょっと高級なスーパーに行って、ファルフードの家族の為にベルギーチョコレートなどのお土産を買って出発。ファルフードに「貴方の家で南瓜を一緒に食べよう」とお願いした時、彼はドゥシャンベ市内に住んでいると確信していた。事実はもっと複雑である。彼の家はドゥシャンベから南へ100キロ以上で、アフガニスタンとの国境にも割と近い所にある。だからドゥシャンベ市内でアパートを借りて、運転手兼ガイドの仕事がある時はそこに泊まる。つまり僕らの無理なお願いがなければ、その日彼は田舎に帰らなくて済んだ筈だった。
 それでもお願いして良かった。タジキスタンの一般の人の家と暮らしを見ることができたからだ。車をかなり飛ばしたが、到着したのは午後5時過ぎだった。
image 男だけでの庭での食事
 門を開けて100坪程の敷地の中へ入ると、そこに二軒の家があった。大きい方はファルフードのお婆ちゃんお母さん奥さんと赤ちゃん、もう一方は叔母とその中学生の息子が住んでいる。叔母の旦那はロシアで出稼ぎ労働者らしい。細長い庭のほぼ真ん中に、テーブルと4脚の椅子、また白いテーブルクロースの上に3人分の食器が用意してあった。伝統的なイスラムの家族で、女性は家族以外の男性とテーブルを共にすることがないとファルフードは説明してくれた。ロシア語が上手なお母さんと暫く立ち話をできたが、ファルフードの奥さんとは挨拶程度だった。チキンのスープなどを運んでくれた際にこちらは声を掛けても、そそくさと家に戻った。中学生の従弟を誘ったら彼はテーブルに座ってくれたが、ロシア語はあまり話せず会話が成り立たなかった。
 結局南瓜は食べなかったが、お腹一杯になって満足してドゥシャンベのホテルに戻った〜
image ファルフードの家族と



 

タジキスタン2

(2019.1.23)

 初日はイスカンダル湖畔のキャンプ場のバンガローに泊まった。海抜は2000メートル以上で、空気は非常に乾燥していた。お蔭で夜空の無数の星は、とても綺麗に輝いていた。バンガローは清潔だったが、徒歩2分の所にあったトイレはボットン便所で、シャワーもお湯が出なかった。極度の乾燥によって、静電気は非常に強かった。夜中は指を布団のカバーに触れる度に放電し、黄緑色の光が見えた。初体験で不思議だった!
image イスカンダル湖
 朝ご飯に向かうと、荷物を纏める最中の白髪のドイツ人女性にあった。仲間と一緒にタジキスタンを自転車で回っていると聞いて「怖くない?」と質問すると、「それどころではない」との答え。前日に盗難か紛失か解らないが、パスポートと財布が入っているポーチを無くしたって。 気がついて警察に申し出たら、何人もの警官は探してくれたり、周辺の村で聞き取り調査をやってくれたり、凄く親切だったがやはり見つからないまま。これから首都ドゥシャンベのドイツ大使館に行って、パスポートを再発行してもらうという。僕の経験から言うと、個人旅行で最も世界中を飛び回っているのはドイツ人である。それも原因かもしれないが、各地の大使館はきちんとパスポートを再発行してくれる。日本だと、再発行ではなく新規のパスポート発行になり戸籍謄本がないと無理なので、日本に直接戻る為の渡航証明をもらうことになる。それだと複数の国を巡る途中だと非常に困る。
image 九十九折の道
 朝ご飯を頂いてから、前日イスカンダル湖まで登って来た九十九折りの道を蝸牛のペースで降りて行った。途中で二回程アンドレイと車を降りて、道の無い坂を走って下りて再び車に乗った。
 サマルカンドとドゥシャンベを結ぶ主要道路にだいぶ近づいたところ、畑仕事をしている10人の男女を見かけた。ファルフードに「ちょっと交流したい」と車を停めてもらった。鞄から5個のボールを取り出して、皆さんに挨拶してからジャグリングを見せた。それを切っ掛けに10分程話をしたり、写真を撮ったりしていた。
image 畑仕事をする人たち
 服装と農具から判断すると、かなり貧乏な人たちだった。少しでも利益を与えようと道沿いに置いてあった3個の大きめのカボチャを売って下さいと頼んだ。「どうぞ、どうぞ」と即時に言ってくれたが、お金をどうしても受け取らなかった。それならせめて一個だけにしようと思ったが、「大丈夫、大丈夫」と車のトランクまで運んでくれた。お金が無いけれど心は豊か、凄く感心した。
 ところでカボチャはどうしようと考えたら、とても良いアイデアが浮かんだ。ファルフードに、今夜は貴方の家に行ってそこで皆さんと食べようと提案した。
image 可愛い子どもと一緒に



 

タジキスタン1

(2019.1.10)

 日本を出発する1ヶ月前に、恐ろしいニュースを読んだ。自転車でタジキスタンを巡っていた4人の外国人が地元の人に攻撃され、全員ナイフで刺し殺された!タジキスタンの治安はここまで悪いのならどうしよう?アルマティ在住の信子さんにお願いして、タジキスタンのJICAオフィスで働いている阿部さんを紹介してもらった。
 首都のDushanbe(タジク語で土曜日の意味)は治安が良いことが判ったが、移動中の安全を考えてJICAもよく利用しているベンツを運転手付きで借りることにした。キルギスタンで借りたトヨタのワゴン車の倍以上かかったが、〔命あっての物種〕とお金を惜しまなかった。その分運転手のファルフードは、窓ガラスが黒いベンツでサマルカンドのホテルまで迎えに来て、最後の日はタシュケントの空港まで送ってくれることになっていた。
image ベンツの助手席から見た風景
 ところが、朝ご飯をいただいてからホテルの前の駐車スペースを見に行ったら、アフガニスタンナンバーのレクサスはちょうど出発する時だったが他の車はなかった。アンドレイと荷物を持ってチェックアウトを済ませていると、30歳位のほっそりした若者に日本語で「ピーターさん?」と声を掛けられた。その彼ファルフードが説明したのは、外から中が見えない車が特別許可無しでウズベキスタンには入れない。だから車を国境のタジキスタン側に置いて、タクシーで来た。これから彼はタクシーを探し、それに乗って国境まで行こうと。
 明らかにおかしい話である。彼が国境を渡るのは珍しくない。窓ガラスが黒い車に関するルールも知っている筈。許可が必要であればそれを取るべきだった!日本に来る前の僕なら恐らくそこで彼と大喧嘩をして、自分で交通手段を探してタジキスタンに行っただろう。日本人の皆さんと長年接してきたお陰でその場の気持ち何とか抑えて、彼を紹介してくれたJICAに迷惑を掛けず、またタジキスタンで仲良く過ごせることを優先した。ウズベキスタンの小さなタクシーには大きな荷物と我々が入るのもやっとと経験から知っていたアンドレイも、かなり不満顔だった。
image イスカンデル湖
(名前の由来は中央アジアまで勢力を伸ばしたアレクサンダー大王による)
 国境までの道程が1時間足らずであることは唯一の救いであった。出発の前、サマルカンド近くの国境を通過できるかどうかも心配だった。タジキスタンが進めているメガダムの建設による川下のウズベキスタンへの影響を巡って両国は激しく対立をして、この国境も閉鎖されていた。幸運にも、ウズベキスタン大統領のタジキスタン訪問によって関係は改善した。結局、国境を難なく越えて、ファルフードのベンツに乗った。
 一人当たりのGDPで判断すると、タジキスタンは最貧国の一つである。狭い国土の大半は高い山に覆われている。しかも降水量が少ないせいで、食物の栽培も厳しい。それでも極度の貧困が目に付かない理由は、成人男性の一割以上がロシアやカザフスタンなどへ出稼ぎに行っていることらしい。
image 荒涼とした山
 ファルフードのお父さんもその一人で、十年以上シベリアの大都市エカテリンブルク(ロシア第四の都市、人口145万人)に働いていた。そして毎月の送金で、タジキスタンの田舎に残された家族は生活を営んでいた。ところが4年前に突然、お父さんの訃報が届いた。お母さんは急いでエカテリンブルクに出向いたが、事件に巻き込まれたのか殺されたのか判明しなかったらしい。とても悲しいことなので、僕もファルフードにあまりしつこく聞かなかった。お母さんは懸命に遺産を販売・整理して、そのお金でファルフードが使っている中古のベンツを購入した。かなり切ない話だが、死んでからもお父さんは家族の生活を支えている。続く。
image 滝を覗き込むアンドレイ



 

ウズベキスタン2

(2018.12.19)

 言ってみればウズベキスタンではアンドレイと普通の観光、つまり名所巡りをした。ヒヴァ、ブハラ、サマルカンド。ユネスコ文化遺産などとても立派な古い遺跡がたくさんある。それらを紹介しても仕方ない。興味がある方は是非ネットか本でご覧下さい!こちらはいくつかのちょっとした出来事の話だけをしたい。
image 観光客の面倒を見る観光警察の女性警官
 ヒヴァでアンドレイは食中毒になった。大体僕と同じ料理を食べていたので、おそらくホテルの朝ご飯の肉が原因だった。あまり新鮮に見えなかったので、僕はそれを避けた。正確な原因はともかく、ブハラに向かうタクシーの中、普段喋りっぱなしの彼はほとんど無口だった。ブハラのホテルに着いたら下痢に嘔吐、どんどん弱っていた。一旦は一緒に街の見学に出発したが、やはり気分が悪いとホテルに戻った。
 去年は僕もアゼルバイジャンで食中毒になった経験があって、「水などをたくさん飲んでよく休むのが一番!」と、彼にアドバイスをして出かけた。主な観光地を早足で2時間余りを掛けて巡り、アンドレイの病状が気になったので早めにホテルに戻った。快復の兆しがなかったので、フロントに行って医者を呼んだ。20分後に到着したのは40代の女医と看護婦である。アンドレイを丁寧に診断して、注射を打って薬の処方箋も書いてくれた。それなりの費用を覚悟しながら「幾らですか?」と、薬局の場所の説明を聞いてから尋ねた。「お金は要らない」と二人は部屋を出た。他の発展途上国での経験と大違い!凄く感動した。そう言えば今回の旅行で訪れた四ヶ国では、一度も金銭的なトラブルが起こらなかった。他の国では、例えば料金で合意したつもりでそれを上回る紙幣を渡すとおつりがないと言われたことも多々あり、とにかくよりたくさんのお金をもらおうとすることは一般的である。しかし今回の旅では、一度もそんなことがなかった。ウズベキスタンなどは、まだまだ平均収入がとても低いのに。
image 警察の身分証まで撮らせてくれた
 ブハラとサマルカンドを訪れた計3日間は、ウズベキスタンの独立記念日と土日の関係で連休に当たった。この連休を利用して、大勢のウズベク人観光客がいた。田舎からツアーバスで来て歴史的建造物を巡っていた。男女共にウズベク伝統的な服装を身に付けた人が多くて、我々はその写真を撮りたかった。怒られたら怖いと彼らが気付かないように頑張っていた。ところが向こうが気付いてしまった。何と言われるのかと心配だったが、想像もしなかった反応だった。
 グループのリーダーと思われる最年長の男性が言ったのは、「君たちも来て、一緒に写真を撮ろう!」。つまりウズベクの田舎に暮らしている彼らは外国人に会うことが滅多になく、異質の僕らに会ったことを喜んだ。結局、様々な名所でいろんなウズベク人と写真を撮らされた。アンドレイは僕に冗談で、「撮影代を要求しようか」と呟いた程である。
image 田舎からの旅行客
 カザフスタンもキルギスタンも日本車が多かったが、ウズベキスタンにはほとんど皆無だった。それには訳がある。20年も前に、韓国のメーカー大宇(テウ)はウズベキスタンで車の工場を設置した。そこで働く人々や(多分)政治家の利益を考えて、政府は輸入車に対する税金を思い切って上げてしまった。大宇は20年近く前に経営破綻のためアメリカのGMに買収されたが、ウズベキスタンでは今でも前とあまり変わらない車種をどんどん製造し続けている。だからウズベキスタンの道を走っているほとんどの車は、現地生産のシボレーである。
image 今ではあまり見ない大宇の車
 僕達もシボレーのタクシーに乗って、ブハラからサマルカンドのホテルまで移動した。ホテルの前には大きな車が停まっていた。ナンバープレートを見るとびっくり!人生で初めて見たアフガニスタンナンバーだった。
image アフガニスタンナンバーの車
image トルクメニスタンとの国境にある立札



 

ウズベキスタン1

(2018.12.12)

 アルマティからウズベキスタンの首都タシュケントまで、夜行列車で行った。16時間掛かる長旅だったけれども、これで中央アジアでの電車の旅も経験できた。直線距離は660キロしかないのに16時間!というのも、電車は100キロを超える速度で走れるが、停車駅が多くしかも停車時間が長い。特に国境を通過する為に、カザフ側でもウズベク側でもかなり待たされた。
image アルマティの駅の出発ホーム。緑いっぱいでのどかな雰囲気。
 一方、食堂車は素晴らしかった。昔は日本の新幹線でもあったけれど、いつの間にか消えてしまった。きちんとしたテーブルが15台ほど左右に並んでいて、一台には向かい合って4人が座れる状況だった。厨房もあって、料理を乗務員がてきぱきと運んでくれた。面白いことに、閉店の0時から開店の6時まで、乗務員はテーブルの座席でうずくまって仮眠していた。
image 電車には時速200kmと書いてあったが100km以上は出なかった…
 タシュケントは中央アジア最大の都市で、人口は300万とも言われている。〔タシュケント〕の意味は、石の家らしい。ところが50年前の大地震の前、住民は一階建ての小屋ばかりに生活していたそうだ。怪我の功名と言うか、地震で街は壊滅的な被害を受けたのに、死者数は数百に留まった。その後はニュータウンや広い道路、地下鉄や公園などが計画的に造られた。古い遺跡はないが、とても雰囲気が良い都会になっている。
 日本で読んだ本によると、ウズベキスタンはイスラム原理主義の人が多く、要注意な場所だそうである。アフガニスタン国境に近い部分はそうかもしれない。しかしタシュケントは全く違った。女性の服装も振る舞いも開放的だった。
image 旧ニコライ・ロマノフ邸。ロシアから追放され幽閉されていた建物だが美しく立派
 インターネットで予約したロッテホテルには、空港までの送迎という特権がついていた。だから翌朝7時にホテルの車に乗って空港に向かった。運転手とアンドレイと僕の三人だけで、15分で到着した。空港に入る為にパスポート提出や荷物検査があったが、7時30分に出発ロビーに着いた。しかし電光掲示板には、ウズベキスタン航空ウルゲンチ行き8時30分の便が見当たらない。ウズベキスタン航空のカウンターに行って聞いてみると、「国内便なので別の空港です」と!
 大慌てで重い荷物を持って階段を走り下りて、タクシーを探した。運良く国内空港は割と近くて、道も混んでいなかった。アンドレイと車内で、空港が二つもあるのにホテルの人や運転手は「どちらの空港ですか?」と、なぜ聞かなかったのかと話した。
 ギリギリだったが何とか間に合った。ウズベキスタン航空の飛行機は意外と新しく、朝食として出されたサンドイッチも美味しかった。 2時間後にはホテルのチェックインも済んで、ウズベキスタン観光都市No.3、ヒヴァの旧市外を歩いていた〜。
image タシュケントの古い市場
image 現代的な姿の若者たち



 

カザフスタン3

(2018.12.07)

 キルギスタンからアルマティに戻る車の中で、翌日はどうしようと話し合った。外国で僕は大学のキャンパスをブラブラして、先生や学生と話をするのが大好きだ。けれども8月30日で、未だ夏休みが続いていた。だからアンドレイが提案した通り、ロープウェーで街の南にある山に登ることにした。
 リュックにダウンジャケットとセーターを入れ、夏のアルマティの道で車を拾った。ロシア製の古い車で、運転手も還暦を過ぎていた。15分程でロープウェー乗り場に到着して、二回の乗り換えで海抜3600メートルまでのチケットを購入した。出発する地点は既に海抜1500メートルを超えていたので、かなり寒かった。ロープウェーの中でセーターもダウンジャケットも着たが、三番目のロープウェーに乗る時は寒いなと感じた。
image ロープウェーからの景色
 海抜3600メートルに到着したら、気温は零で雪がちらちら舞っていた。体を温める為に(?)早足で登山を始めた。 キルギスタンの山で過ごしてきたお蔭か高山病らしい症状もなく、山道を歩いたり写真を撮ったりしていた。そして元気の良い二人のおばあちゃんに「どこから来たの?」と声を掛けられた。その二人は昔からアルマティに住んでいるロシア人で、娘と小学生の孫を連れて雪山でピクニックをしようとしていた。
 アンドレイがモスクワ人であると判ったら、更に親切になった。そして僕達にも一緒に食べるように勧めた。大きな岩の上にパンやハム、茹で卵、手焼きのケーキに果物などを広げ始めた。ロシア人は寒さに強いと知っているが、冷たい岩の上に座ってあんな寒さも平気の平左で騒いでいる姿を見て驚いた。「君は寒いなら早くコニャックを飲みなさい」と、コップを渡された。めったに酒を飲まない僕も、寒さ対策として一杯を飲み干した!
image ピクニックの様子
 一人のおばあちゃんは「エーデルワイスを探してみる?」と誘ってくれた。エーデルワイスは日本人の皆さんもご存知だと思う。僕も子供の頃から絵本や写真で見たことはあったが、実物と出逢ったことはなかった。三年前にスイスのアルプスで結構探したが、五月で時期が早くて見つけられなかった。しかしおばあちゃんのお蔭で、アルマティの山で何輪かを見つけて凄く嬉しかった。名前の通りで白くちょっと地味だが、僕にはとても可愛く映っていた。花を探して歩き回ったお蔭で、寒さも忘れておばあちゃんの話を夢中で聴いていた。「この泉は歩いて3時間の所の氷河の辺りから流れて来る雪解け水で、飲んでも大丈夫よ〜」。彼女は2リットルのペットボトルを一杯にして、皆の所へ運んでいた。
image 可憐なエーデルワイス
image 雪解け水
 もうちょっと暖かい場所なら優しいおばあちゃんたちの人生の話をゆっくり聴きたかったが、茹で卵とパンを少しいただいて失礼した。最初のロープウェーを降りた所の喫茶店に入って、数学の話をしながらアンドレイとホットチョコレートを飲んだ。そして残りの二つのロープウェーで降りて、海抜1500メートルの場所まで戻った。ようやくダウンジャケットを脱げた。
 国道に出てタクシーを拾うと思ったが通る車は少なく、手を上げても止まってくれなかった。丁度市内バスが来たので乗ってみた。かなり混んでいて終点まで座れなかった。それでも乗って良かった。ある人生初の経験をしたからだ!
 後ろから肩を軽く叩かれ、振り向くと男の人に「この子をあそこに座っている女性に渡して」と言われ、生後8ヶ月位の赤ちゃんを手渡された。びっくりしたけれど、断る理由もなかった。急な山道を下り続けているバス、吊り輪を離して足元はおぼつかなかった。赤ちゃんを落としたら絶対ダメだとその子のお兄ちゃんと座っていた女性に届けて、ミッションを果たした。
 他国で見たこともなかった、見知らぬ人に自分の大事な子宝を託すこと。カザフの知り合い、ムフタルに依るとアルマティなら珍しくない。『国変われば・・』と言おうか。とにかく外国に行けば、日本と違う色んな経験ができる。だからいつまで経っても、いくつになっても海外旅行を続けたい!!



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