ピーター・フランクル [official web site]
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☆中国旅行記1〜久々の北京〜

(2006.06.20)

 6月の始めに北京へ行って来た。北京に行ったのは2000年の4月以来で、街と人の様子はどれだけ変わったのかすごく興味があった。六年前に北京の銀座、Wang-fu-jin(王府井)のすぐ近くに泊まっていた。天気の良い日は自転車を借りて街を走り回った。あの頃はまだ自転車で通勤、通学する人が非常に多くて、隣で走りながら声を掛けたり、会話をしたり、時には一緒にお茶も飲んだりしてとても穏やかだった。
 六年間で北京の街を走る自転車の数がどれだけ減っただろうか。消えてはないものの、東京とそう変わらない程度になってしまった。自転車大好きなピーターにとって寂しいかぎりだった。一方王府井の入口に大きな本屋ができた。そこには何回も行った。一階は国内、海外旅行の本のコーナーもあり、地球の歩き方の中国語版もたくさん置いてあった。けれども中国人の大半(北京でさえ)は一度も国を出たことがない。世界中の観光地を周ると中国人の団体客は非常に増えて、目立っていることから中国人も「猫も杓子も」海外旅行に行けるようになったと思ったら大間違い。人口は日本の十倍を超えているので%を計算すると分母が大きくなってしまう。


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嵐の中で大道芸

(2006.05.02)

 空を見るともう黒い雲たちが集まり始めた。一時間しないうちに大雨になりそうと判ったのでできれば挨拶に行くのを後にして、雨が降る前にパフォーマンスをやりたかった。でも仕方がなかった。県庁と言ってもガボンでは 9県があって、首都Libreville を除くと一県当たりの人口は10万人しかない。まあ、県庁もそれに見合ったようなL 型の二階建ての建物だった。知事の部屋は割りと大きくて、40平方メートルもあった。壁にはもちろんBongo大統領の写真が飾っていた。知事は親切に迎えてくれた。話によるとガボンでは知事が選挙で決まるのではなく、 Bongoによって指名される。だから知事の大半も彼の腹心の部下と言うか、彼と同じ田舎の出身である。僕が会った知事も知事になって初めてブエーに来た。県民の代表ではなく Bongoの代表であるって感じ。彼の机と箪笥の上に幾つか民芸品も飾っていた。それを鑑賞する僕たちに「日本の美術品も欲しいな」とかなり本気で言った。我々は聞かない振りをした〜
 三人や校長先生も入れた四人での記念写真も撮られてやっと許可が下りた。一時間以上掛かったので外ではもう土砂降りになっていた。学校に戻ると生徒は教室やその近くの屋根がある所で雨宿りをしていた。取敢えず校長室へ案内されてそこで置いてあった色々な教科書を見た。どうもガボンの小学校で主な教科は3つあるようだ。国語(フランス語)、算数、理科と社会を合わせた Eveil(仏語、目覚めの意味)の三つである。この三つ目だけは自国製で残りはフランスの教科書を使用している。先生によると子供達には難し過ぎるようで落第が多い。
 雨が止みそうもなかった。それどころか稲妻が光ったり、すごく近い所から雷鳴が聞こえたりした。ある教室に集まっていた生徒達を対象にちょっと話をしたり、算数クイズを出したりした。子供たちの計算能力は日本よりずっと低かった。教室にいた4人の女の先生も「私は算数が苦手だ」と口を揃えた。今回の旅でガボンの大人でも九九をできる人の方ができない人より少ないとの印象を受けた。でも楽しい図形問題は生徒が積極的に取り組んでくれた。教室で小一時間過ごして外へ出ると雨の勢いが衰えたとは言え、まだまだ強く降っている。子供たちの大半はもう帰宅したのでせめて残っている子達が帰る前にと思って、校舎の隣の屋根がある小さな広場で大道芸を披露することにした。僕たちは真ん中で、四方観客に囲まれて完全に屋根の下いたが 200人ほどの生徒の半分以上は雨に降られている状態になった。それでもすごく盛り上がってくれた。 30分経って「終わり」と言うと「もっと、もっと」と喝采が起こった。最後に皆と記念撮影をしていたら、丁度その時ロジェーと知事が現れた。彼らのためにもう一度やる訳にもいかないと思って「明日はまた遊びに来る」と言いながらロジェーの車に乗った。


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アフリカで大道芸!

(2006.05.01)

 翌日は学校でのパフォーマンスを控えていてとても良い気持ちで寝れた。
 朝7時に起きると外はもう暖かくてオグエー川が霧で見えなかった。でも見る見る内に霧がどんどん昇って来た(我々が泊まっていたロジェーの家は丘の上にある)。10分後には川が綺麗に見えるようになったが街が霧に隠れていた。帯状の霧はとても不思議な光景だった。7時半にはパフォーマンスがあると言うことで校長先生が現れた。話を聞くと同じ町(ブエー)生まれで、今は母校の校長をやっている。控えめですごく感じの良い人だった。我々は未だ朝ご飯も食べてなかったが慌てて荷物を纏めて先生の車に乗った。ガボンの田舎の方では車を持っている人が少ない。車はトヨタの中古車が殆どで、しかも道路が悪いため全部4WDである。学校はロジェーの家から一キロしか離れていなかったので自己紹介が終わる前についてしまった。建物がかなり古くて、子供の数から言うと小さかった。千人以上の生徒がいるのに教室は10室程度しかなかった。先生も「昔比べると生徒の数が倍以上になっている。だから生徒を分けて、午前と午後で別々に教育を行っている」と苦しい状況を説明していた。僕の子ども時代を振り返るとやはり当時のハンガリーの事情も似ていた。 1950年から1956 年までのBabyBoom 世代には教室が足りなかった。僕もやはり3年間ほど「今週は午前、来週は午後」の制度で小学校に通っていた。冬は帰宅する頃には暗くて、寒くて徒歩 7、8分の道程も嫌だった。ガボンは少なくともそんな問題はない。年がら年中暑くて、また赤道直下ということもあり一日の長さも季節によって変わることがほとんどない。
 ただ産油国で一人当たりのGDP が高いのに、なぜ新しい校舎を建てないのか不思議だ。
 校庭ではたくさんの子供が遊んでいた。三日後の土曜日から 2週間以上の春休みが始まることでもう皆休み気分だったそうだ。だから授業もなく、体を動かしたり、話し合ったりして楽しく過ごしていた。校庭内のちょっとした坂道を登るとそこでサッカー場に使うでこぼこのグラウンドがあった。大道芸はここでやればどうかと聞かれた。ここなら周りに1千人の子供も十分立つことができると思って、二つ返事で合意した。「では荷物を車から持って来る」と言うと。「未だダメ」と言われた。どうも先ず県庁に行って、知事に挨拶して彼の正式な了解も得なければならないらしかった。


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アフリカレポート4

(2006.04.07)

 そしてそれぞれ二人の子供と一山の食器を持って二人の女性が来た。二人とも濡れた服のままで水に入って食器洗いを始めた。四人の子供もお母さんたちの側で水遊びをした。一人のお母さんはとても友好的で自分の家庭事情を話してくれた。32歳で子供が七人もいるそうだ。旦那は樵(きこり)で川の上流の方で働いている。距離的には遠くないけれど急流があって船では行けないらしい。車の道も時間がかなり掛かるので現場の近くのキャンプで単身赴任し、週末に帰って来るって。ロジェーに事情を訊いたら、ガボンの労働法では伐採現場で働く人達の勤務時間に移動時間も含まれているそうだ。だから現場まで往復2時間かかったとしたら正味6時間しか働かない。従ってキャンプを作る費用を考えても会社側にとって労働者に現場に近いキャンプで住んでもらった方が利益になるらしい。
 私たちと話をしながら彼女は何気なく上半身裸になって自分の体を洗い始めた。彼女のおっぱいは長い筒のように垂れていて、水を汲むためにちょっと前屈みになると2歳の泣き子が難無くおっぱいを口に入れることができた。不思議な光景だった。子供たちも洗われ女性たちが帰って行くと僕らも駅の方へ歩き出した。駅の側で数え切れないほどたくさんの巨木が貨物列車でLibrevilleの方、そしてそこから船で外国へ運ばれるのを待っていた。まだまだ等分待ちそうだ。と言うのは経済利益が出ない鉄道を運営する会社がよく変わり、今回はマンガンの炭鉱を持っている(もちろん外資系)会社になっている。彼らは木材に興味がなく、貨物列車のほとんどはマンガンを運んでいる。
 駅の建物は5000人という人口にしてはしっかりしたものだった。窓口で二日後のLibreville行き切符を予約した。2等、1等とVIPクラスがあったので、ここまで来た道の苦労も考えてVIPにした。
 駅の周辺はかなり賑やかだった。道を挟んで3軒もの喫茶店と1軒の食料品店が並んでいた。その隣に細い坂道があり、そこにホテルの看板があった。しかし観光客用ではなく、夜行列車を待つブエーの周辺の村々から来る人達に休憩場を与えるための粗末なものだった。坂道を登りきると市場のように様々な店やスタンドのある広場があった。食堂らしいものもあったが衛生状態を考えてパスした。その前に置かれたBabyfoot(欧州で人気のある手で回す、二人か四人でサッカーゲームをやる機械)で試合をやった。ユキに辛うじて勝った〜
 その夜も(時刻通りなら夜中の2時発)Libreville行き列車があったので市場はこれからどんどん賑やかになる雰囲気だった。大きな荷物を持った人達は次から次へと到着した。日本ならバスや乗り合いタクシーの運行時刻を電車に合わせるだろうがガボンはそんなことがない。だから7時前後にブエーへ到着して、それからはそこで待つしかない。尤も小さな集落で暮らしている人にとってはブエーでの数時間は間違いなく都会の夜を楽しむ感じだろう。でも我々はそれを試すことがなく夜道を速足で歩きながらロジェーの所へ戻った。
 今日はこの辺で〜


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アフリカレポート3

(2006.04.06)
 翌日の午後3時にやっと目的地であるBouee(ブエー)に到着した。行程の三分の一を私道、つまりロジェー(の会社)の道路で走った。会社が木を伐採するために造る道路なので舗装はされていない、雨が降ると泥まみれになる道だ。ロジェーの運転はとても荒くて、正にパリーダカールのラリーを思い出させる道程だった。ロジェーのブエーにある2つ目の山荘で車から降りるともう当分車に乗りたくない気分だった。ユキとお互いの姿を見てびっくり!車が飛ばす砂で髪の色は赤く染められていた。僕たちの部屋は外から直接出入りできる10m2ぐらいの狭いもので、ダブルベットと大きな冷凍庫以外に何もなかった。しかも冷凍庫に道沿いにロジェーが買ってきた鹿やアンチロプの死体も入れられた〜
到着するや否やロジェーの所に地元の軍の将校(少佐?)がやってきた。地元の様々の責任者にそれなりの利益を与えないと伐採の仕事がやり難いそうだ。僕たちはすることもなく、将校の運転手に頼んでオゴエ川まで送ってもらった。小高い丘の上にあるロジェーの家から3キロほど離れているガボンの大河、オゴエ川は泥色で入る気にならなかった。しかし現地の人達はその中で食器や体を洗っていた。ちょっと話を、と近付くと猛烈な勢いで雨が降り出した。川辺に茂っている木々の間に逃げ込んでも雨をやり過すことはできなかった。しかも稲妻と雷鳴が続々起こるのだ。諦めるしかないと悟って川辺でボール遊びをしている子供たちのところへ戻った。彼らは川の中で泳いだり、その泥水を飲んだりもした。


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